第344話 芒の神様 23
文字数 2,100文字
やっぱり、何でも屋さんは上手いこと言いますね、と真久部さんは小さく笑う。
「人は迷い、神も迷う。あの子の迷いは、寂しさ。だけど、寂しいからといって、あの子は迷い人を連れて行ったりはしない。──鎖を越えて薄の中に踏み出し、行方不明になる人は、迷いに誘われて、自ら迷いに行った人が大半だよ。方向音痴を自覚してる人は、見えている順路を外れたりはしないでしょう」
そして、そういう人たちのためにあのベンチがあるのだと、真久部さんは言った。
「あの場所は地元の人以外は立ち入り禁止。だけど、あの反対側の薄原で迷った人も、気がつけばベンチの前だといいます。地形の錯覚で歩き続けたせいなのか、それとも──僕は、あの子の優しさだと思っていますよ」
かつて、<怖い大人に追いかけられている子供>をいつも助けていたように、あの子はたとえ夢うつつの状態であっても、薄の迷路に迷って恐怖している人を、人の側に属する<物>であるベンチの前に導いているのだろうとそう言い、真久部さんは冷めたお茶で喉を潤す。自然の中に人工物があれば、人が戻ってきやすいのはたしかだけれど、あの子にもいい目印になるんでしょう、と。
「あの子は眠っている。でも、夢の中でうつつを感じてもいる。あの薄の原はあの子そのものだから、そこで起こることを、自分のことのように感じてる──」
僕が道に迷って危うかったのを、何でも屋さんが引き戻してくれたとき、何があったのか後で話すと言ったのは、あの子の無意識が聞いているから、と続ける。
「あのとき、あの子は僕と追いかけっこでもして、楽しく遊んでたんだと思う。あの子のいるあの場所と、僕のいるこの世界の狭間になったあの道で──あの子に、夢のつもりが現実で、実は僕を危険に晒してしまっていたなんて、知ってほしくなかったんだよ」
「……」
もしも知ったら、薄のあの子は悲しむだろう──。俺もそう思う。
「僕の不注意が原因ですしね」
と、さらに苦い顔をするけれど。
「不注意っていっても……しょうがなかったんじゃないですか? なんかよくわからないけど、今回たまたま波 長 が合っちゃったとか、そんな感じなんじゃ……それに、ちゃんと一人じゃないようにしてたじゃないですか。分かってない俺がうっかり見失ったりしないように、見守っていてほしいって、わざわざ注意もして行ったし」
プールの監視員みたいにね、とお道化て言うと、黒褐色と榛色のオッドアイがふっと和む。
「そうなんだけど、そちらじゃなくてね……。今回、僕はいつもなら必ず肌身離さず持っているものを、持ってなかったんだよ。そのせいであんなことに」
あの子が望まないことにならなくて、本当によかったです、と真久部さんは溜息を吐く。
「忘れちゃったですか?」
用意周到なこの人が、珍しい……とか思っていると。
「忘れたんじゃないんだよ。失ったというか、失わされたというか──」
「落っことしたとか?」
「そういうことでもなく……」
「?」
煮え切らない。どうしたんだ、真久部さん。いつもは胡散臭かったり怪しかったりする笑みを浮かべている唇が、苦々しげに引き結ばれて、何だかどこだか悔しそう……?
「今回のお仕事、ね。石の」
「はあ……」
俺以外が運ぼうとしたら、重くて持ち上がらなかったというアレね。あのホテルの屋上で祀られることになってたらしいけど、重機でも持ち上がらなかったなんて、今でも信じられないというか、ただの普通の石だったんだけどなぁ……。
「あれ、僕も持ち上げようとしたけど、無理だったって言ってたでしょう?」
思い出していると、なんでか、真久部さんは据わったような目をしてる。
「え? はい」
「失礼の無いよう、試すぶんにはそうそう悪いこともないだろうと思ったんだけど──」
触っただけで、あ、これはダメだな、と思ったらしい。一応力をこめてはみたけど、案の定、地面と一体化してるみたいに、ぴくりとも動く気配がなかったとか。
「心の中で、謝罪はしたんだけれどねぇ……実は、あの石を動かそうとした人は、みんな何か小さな失せものがあったらしいんだよ」
話を持ってきた知り合いは、そのことを黙っていたんだけどね、と平坦な声で続ける。
「十枚つづりで買った宝くじの、一枚も当たらなかったとか」
……十枚つづり三千円とかだと、三百円は当たるんじゃなかったっけ。
「大事に大事に取っておいた、次回二十パーセントオフのレシートクーポンを無くしたとか」
……偶然じゃない?
「本当の意味で梃子でも動かない石に苛立って、足蹴にした者は、昔の事故の骨折治療で足に入っていたボルトが、いつの間にか無くなっていたんだそうです」
……。
「急に歩けなくなって、当時の病院で診てもらったら、レントゲンにボルトが写っていなくて大騒ぎになったとか。足に怪我をしたわけでもなく、どこにも傷も何もない。なのに、入っているはずのボルトだけが消えた」
……怖い。
「お気に入りのペンを無くしたり、大事なマスコットを無くしたり、ね。結婚指輪を無くした者もいたそうです、件の知り合い同業者ですが」
ついでに奥さんも失った そうです、と皮肉な笑み。
「あの……真久部さんは何を無くしたんですか?」
「人は迷い、神も迷う。あの子の迷いは、寂しさ。だけど、寂しいからといって、あの子は迷い人を連れて行ったりはしない。──鎖を越えて薄の中に踏み出し、行方不明になる人は、迷いに誘われて、自ら迷いに行った人が大半だよ。方向音痴を自覚してる人は、見えている順路を外れたりはしないでしょう」
そして、そういう人たちのためにあのベンチがあるのだと、真久部さんは言った。
「あの場所は地元の人以外は立ち入り禁止。だけど、あの反対側の薄原で迷った人も、気がつけばベンチの前だといいます。地形の錯覚で歩き続けたせいなのか、それとも──僕は、あの子の優しさだと思っていますよ」
かつて、<怖い大人に追いかけられている子供>をいつも助けていたように、あの子はたとえ夢うつつの状態であっても、薄の迷路に迷って恐怖している人を、人の側に属する<物>であるベンチの前に導いているのだろうとそう言い、真久部さんは冷めたお茶で喉を潤す。自然の中に人工物があれば、人が戻ってきやすいのはたしかだけれど、あの子にもいい目印になるんでしょう、と。
「あの子は眠っている。でも、夢の中でうつつを感じてもいる。あの薄の原はあの子そのものだから、そこで起こることを、自分のことのように感じてる──」
僕が道に迷って危うかったのを、何でも屋さんが引き戻してくれたとき、何があったのか後で話すと言ったのは、あの子の無意識が聞いているから、と続ける。
「あのとき、あの子は僕と追いかけっこでもして、楽しく遊んでたんだと思う。あの子のいるあの場所と、僕のいるこの世界の狭間になったあの道で──あの子に、夢のつもりが現実で、実は僕を危険に晒してしまっていたなんて、知ってほしくなかったんだよ」
「……」
もしも知ったら、薄のあの子は悲しむだろう──。俺もそう思う。
「僕の不注意が原因ですしね」
と、さらに苦い顔をするけれど。
「不注意っていっても……しょうがなかったんじゃないですか? なんかよくわからないけど、今回たまたま
プールの監視員みたいにね、とお道化て言うと、黒褐色と榛色のオッドアイがふっと和む。
「そうなんだけど、そちらじゃなくてね……。今回、僕はいつもなら必ず肌身離さず持っているものを、持ってなかったんだよ。そのせいであんなことに」
あの子が望まないことにならなくて、本当によかったです、と真久部さんは溜息を吐く。
「忘れちゃったですか?」
用意周到なこの人が、珍しい……とか思っていると。
「忘れたんじゃないんだよ。失ったというか、失わされたというか──」
「落っことしたとか?」
「そういうことでもなく……」
「?」
煮え切らない。どうしたんだ、真久部さん。いつもは胡散臭かったり怪しかったりする笑みを浮かべている唇が、苦々しげに引き結ばれて、何だかどこだか悔しそう……?
「今回のお仕事、ね。石の」
「はあ……」
俺以外が運ぼうとしたら、重くて持ち上がらなかったというアレね。あのホテルの屋上で祀られることになってたらしいけど、重機でも持ち上がらなかったなんて、今でも信じられないというか、ただの普通の石だったんだけどなぁ……。
「あれ、僕も持ち上げようとしたけど、無理だったって言ってたでしょう?」
思い出していると、なんでか、真久部さんは据わったような目をしてる。
「え? はい」
「失礼の無いよう、試すぶんにはそうそう悪いこともないだろうと思ったんだけど──」
触っただけで、あ、これはダメだな、と思ったらしい。一応力をこめてはみたけど、案の定、地面と一体化してるみたいに、ぴくりとも動く気配がなかったとか。
「心の中で、謝罪はしたんだけれどねぇ……実は、あの石を動かそうとした人は、みんな何か小さな失せものがあったらしいんだよ」
話を持ってきた知り合いは、そのことを黙っていたんだけどね、と平坦な声で続ける。
「十枚つづりで買った宝くじの、一枚も当たらなかったとか」
……十枚つづり三千円とかだと、三百円は当たるんじゃなかったっけ。
「大事に大事に取っておいた、次回二十パーセントオフのレシートクーポンを無くしたとか」
……偶然じゃない?
「本当の意味で梃子でも動かない石に苛立って、足蹴にした者は、昔の事故の骨折治療で足に入っていたボルトが、いつの間にか無くなっていたんだそうです」
……。
「急に歩けなくなって、当時の病院で診てもらったら、レントゲンにボルトが写っていなくて大騒ぎになったとか。足に怪我をしたわけでもなく、どこにも傷も何もない。なのに、入っているはずのボルトだけが消えた」
……怖い。
「お気に入りのペンを無くしたり、大事なマスコットを無くしたり、ね。結婚指輪を無くした者もいたそうです、件の知り合い同業者ですが」
ついでに
「あの……真久部さんは何を無くしたんですか?」