第357話 鏡の中の萩の枝 8

文字数 2,141文字

「愉しく酔っぱらってさ、萩の鏡をモチーフにしよう、と言っていたのを覚えているよ。萩の枝の一本一本が並行世界だ、交わることはないけれど、根は同じ。咲き乱れる花は星の光、さて、どんな宇宙が広がるのか、広げようか……と友人が考え込んでいたから、私は言ったんです。広げるならばその鏡を使えばいいじゃないか、合わせ鏡にすれば見かけ上、無限に増えて見えるだろう──」

だけど、鏡面と萩の絵柄は表裏一体、背中合わせ。どうやって映すのかねぇ、とさらに混ぜっ返してやったら、ならもう一つ同じ鏡を出そう、反物質というのがあってね、と話し出すから、きりがなくて勘弁してもらいましたよ、と苦笑い。

「同じアイディアから始めても、そのプロット、筋道と結末は、それこそてんでに伸びる萩の枝ほどあると言っていた。どれを選ぶか、どこに行くか、決めた先でまた枝分かれ。だから先に結末を考えておくんだけれど、それでもどの道を通るか幾通りでも思い浮かぶ。クォ・ヴァディス! などと、時々呻いていたね、意味は何だっけ、キリストの……」

ああ、確かドミネ、を付けて『主よ、何処かに行きたまう』という意味だって、友人は言ってたっけ、と伯父さんは自分の記憶にうんうんと頷いている。

「イエス・キリストの弟子、べテロの言葉で、平たく言うと、どこへ行くんですか? ってことだな。キリストの返事は、ペテロが逃げてきたローマに赴く、ということだった。古代ローマ帝国ではキリスト教徒が迫害されていた、というのは世界史でも習うことだからご存知かと思うが、老齢のペテロはこのキリストの幻なのか何なのか、とにかく、既に十字架に掛けられこの世にいないはずの師の姿に遇わなければ、そのままローマの迫害を逃れ、どこか別の場所に行ったかもしれないし、そこでもまた迫害され殺されることになったのかもしれない。あるいは生きて布教活動を続けていたかもしれない」

現実でもそれくらいの運命の枝分かれがありますよね、と伯父さんは続ける。

「でも、その最中にいる者にはそれが見えないから、迷いようもない。あるいは、迷った挙句自分で選んだ運命を突き進む。しかし、その<運命>を決められる立場の者は悩む。テーマやら、話の流れやら、設定した登場人物の性質やら……考えることが山ほどある。そしてその通りに動かそうとするが、枝道が多くて迷う」

そこで、クォ・ヴァディス、らしい、と元に戻った。

「友人にとっては、自分の生み出した登場人物、設定、ストーリーこそが、ペテロがアッピア街道で出会ったイエス・キリストの姿のようなものだったんだろう。「どこへ行くのか?」。──結末が決まっているならそのまま進めればいい、と私なんかは思うんだが、書き手の考えはわかりません。より良い道中を、より良い景色を求めて行き惑う。友人の頭の中には、常に並行世界が、萩の大木があったんでしょう」

どの枝を選ぶか、枝から枝へどう渡るか。それが作家の個性であり、また、いかにそれを魅力的な枝に見せることができるかが、腕の見せどころであり、才能というものなんだろう、と結ぶ。

「きっと友人は、自宅の廊下を歩きながら、頭の中の<鳥居>に、クォ・ヴァディスと問いかけていたんでしょう、いつもそうやっているように。そして、たまたまその瞬間に滑って転び──どこへ行くのだと問われた<鳥居>が、この世界に落っこちたんだと私は考えていますよ。ちょうど渡りかけの枝から枝のあいだで、足を滑らせてね」

作者の死により、元の場所に戻ることもできず、行く先もわからず。だから自分の持っているものだけを頼りに<生きて>きたんだろうね、と続ける。

設定(おいたち)と、性格と、名前と。それだけを持ってこの世界に来て、たまたま空き家だった本当の鳥居さんちに嵌まりこんだ。そこが作者が自分のために用意した場所だと、<鳥居>は思う意識もなく思い込み──暮らしていたんだ、父を思う息子として」

「でも、仕事は? あの鳥居さんは仕事が忙しいことや、同僚の話もしてくれましたよ」

実体はあったのかどうか、そこも気になるけど……また伯父さんが怖がらせようとしてきそうだから、はっきり聞くのが怖い。

「そういうところはたぶん、SF小説をたしなむ何でも屋さんのほうが詳しいんじゃないかな? 私は映画の『時を駆ける少女』くらいしか知らないが、未来から来たも、別の世界から来たも、来られた方からしたら、同じようなものだと思いますがねぇ」

どうです? と笑みを含んで訊ねてくるその顔は、完全に猫ま……いや、この人は機嫌が良いだけなんだ。胡散臭さが孫の真久部さんの三倍以上に感じられるから、猫の妖怪を想像してしまうだけで。真久部さんは──うん、彼の場合は古猫の笑みくらいで収まる。それはそれで、やたら意味ありげで怖……いや、伯父さんに比べたら、うん。

つい慄いてしまう自分をなんとか誤魔化しつつ、俺は伯父さんの言ったことを考えてみる。

「記憶操作、っていうやつなんでしょうか……? 『時を駆ける少女』の場合はそうでしたけど」

未来からやってきて、主人公の少女の前に現れた少年(?)は、自分が<過去>に滞在するあいだ、周囲の人の記憶を操っていたんだっけ。自分の存在が不自然でないように、目立たないように。
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