第200話 1

文字数 1,663文字

なんとなくふわふわぼーっとした頭で、俺は慈恩堂を辞した。今日は念のため、夕方の犬散歩は入れてない。そんなわけで急ぐ必要もなく、多少ボケてても大丈夫。

真久部さん、柿の葉寿司をお土産に持たせてくれた。一緒に食べたのとは別にもう一箱買っておいたんだって。マメというか気遣いの人というか……申しわけない。でもお陰で、今晩の飯のメニューに悩まなくていいからありがたい。

んー、お吸い物は松茸の香がとても豊かなあのインスタントでいいとして、ちょっと何か御惣菜でも買って帰ろうかな──。そう思い立ち、冬至からこっち明るくなったけど、さすがにこの時間はもう暗くなった道を商店街に向かった。

アーケードの中は明るい。馴染みの総菜屋さんの店先で、豊富な品揃えにしばし悩む。ほうれん草の白和え、卯の花、ひじきと豆と薄揚げの煮物、茄子の揚げびたし、高野豆腐のふくめ煮。どれも美味そう。ここの筑前煮、別れた元妻の味に似てるんだよな……。

真久部さんが危険手当をはずんでくれたから、今の俺はちょっとリッチな気分。いや、本当は危険なんか無いほうがありがたいんだけど……お、地鶏唐揚げ、二割引き? これは買いかな……いや、大葉とチーズを巻いて揚げたトンカツも捨てがたい。鶉卵のスコッチエッグ風ミンチカツもなかなか……。

ひとしきり悩み、結局、柿の葉寿司とのバランスを考えて、茄子と豚薄切り肉の煮浸し胡麻風味と、ほうれん草の白和えにした。俺が迷うあいだそっとしておいてくれていた女将さんが、にこにこしながら唐揚げをおまけしてくれる。このあいだ、仕事のついでに顧客様と世間話にあそこのお惣菜美味しいですよと話してたんだけど、その人が買いに来てくれたんだって。

「お友だちが遊びに来るからって、たくさん買っていってくれたの。何でも屋さんの説明がとっても美味しそうだったって言ってたわよ。いいお得意様になってくれそうでねぇ。何でも屋さんには宣伝料払わなくちゃ」

さらに筑前煮まで詰めてくれる。恐縮してると、また宣伝してくれればいいから、と豪快に笑う。と、駅前のそう遠くないあたりで大きなブレーキ音が響いた。ただならぬ音に一瞬硬直したけど、それっきりで特に騒ぎの起こる様子もないから、事故じゃなかったんだなと胸を撫で下ろしていると、女将さんが何かを思い出したように眉を寄せていた。

「……どうしたんですか?」

「今日……ひどい事故があったの、知ってる? ほら、深沼通りの歩道橋の」

声を潜めてたずねてくる。

「ああ、俺、あんまり通らないけど、あそこって前から事故の多いところですよね。え、今日もそんなことが?」

そうなのよ、と女将さんは顔を曇らせる。

「そこの雑貨屋さんのご主人が見ちゃったらしいのよ……。奥さんに店番任せて、近隣の百均や複合ショップの雑貨エリアを偵察に行った帰りだったんだって。ふと見上げたら、女の人が歩道橋の手摺りにもたれてぼんやりしててね、そんなところで何ぼーっとしてるんだろうと思ってたら、いきなりすごい悲鳴を上げてもがくようにして、まるで何かから逃げるみたいにそこから身を乗り出して……」

「ええっ! 誰かに突き飛ばされたりとか?」

そんなサスペンスドラマみたいなことが、とたずねると、女将さんは首を振った。

「他に人影はなかったらしいわよ。自殺か? と思って慌てて止めようと走ったらしいんだけど、あの橋、けっこう階段あるでしょう? だから間に合わなかったんだって」

自分から下の道路に身を投げた女性は、雑貨屋さんの目の前で、ちょうど走ってきた車に撥ね飛ばされたそうだ。

「トラックに撥ねられて、歩道橋と同じ高さにまでぽーんって……」

「うわあ……」

「落ちてきたところに、対向車が来てまたぽーん……」

「えっ……」

「止まってるトラックを抜かそうと突っ込んできた車に、ぽーん……」

「そ……」

「それでまた勢いがついて、対向の後続車にぽーんと……。身を投げてから四回も撥ねられて、ようやく、っていうのもおかしいんだけど、とにかくようやく地面に落ちた、というか叩きつけられたんだって……」
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