第317話 彼岸花の向こうに 3
文字数 1,796文字
「これを飲みなさい」
煎茶茶碗を渡される。普通よりさらに温めにされたお茶を、言われるまま飲み干した。──そのまま、俺は放心していたようだ。
「味はするかい?」
たずねられて、俺はのろのろと顔を上げた。阿加井さんと老婦人が気づかわしげに覗き込んでくる。
「味……、ですか……。あ……」
上手く口が動かない。だけど、何をしゃべっていいのかもわからなかった。
「これをお上がりなさい!」
言葉を理解するより早く、口の中に何か丸くて軟らかいものを突っ込まれた。驚いて、眼を白黒させてしまったけれど、味はわかった。
「どうです? わかるかしら?」
緩慢に舌を動かし、顎を動かしながら、俺はなんとか首を頷かせた。
「……甘い、です」
「そう。良かったわ」
老婦人はホッとしたように微笑んだ。その笑みは上品で、とても俺の口に茶菓子を詰め込んだのと同じ人とは思えない──。
「でも、今そこに父と母が……俺が中学生のとき、死んで」
「それは幻よ。夢よ」
きっぱりと、言い聞かせるように彼女は言う。
「ただの──影みたいなものですよ」
「影……」
でも、本当にそこにいたんだ──。考え込む俺に、阿加井さんが追い打ちを掛ける。
「あの世の影であり、この世の影──ただの影法師だ」
「ここでしか、会えない影でもありますよ」
知っているはずでしょうに、と挑むようにつけ加え、彼女はまだぼんやりしている俺に向き直った。
「何でも屋さん。阿加井の庭の、この場所ではね。彼岸花の咲くこの時期だけ、あの世とこの世の境目が曖昧になると言われているんですよ。あなたはご両親に会えたのね……もう何十年もそういう人はいなかったのに、きっとあなたは運がいいのだわ」
うらやましいわ、ぽつんとそんなことを言い、彼女は群生する彼岸花を見やる。その目は遠くの山より、もっと遠いところを見ているようだった。
「馬鹿々々しい」
阿加井さんが言う。言葉とは裏腹に、口調は優しげだ。
「執着してるから会えないんですよ。あなたもご存知でしょう」
「執着? そうかしら」
不思議そうにたずねる顔は、童女のよう。
「執着でしょう」
「わたくしは聞いてみたいだけなんですよ。どうしてそんな誤解をしてしまったのかと」
「あなたがずっと思っていたのは、兄だけだったのにね」
「……」
「でも、本人に会ってそれを聞いてしまえば、あなたは気が済んでしまうでしょう」
「そうね」
「そうして、今度こそ忘れてしまうでしょう。もしかしたら兄は、それが嫌で姿を現さないのかもしれませんよ」
「あなたたち兄弟は、どちらも意地悪だわね」
彼女はふっと目を伏せた。
「──もう、忘れてしまいたいのに」
呟いた声が風に溶ける。言葉を含んだ風が、彼岸花をそよがせて空へ、遠くの山へと吹き渡ってゆく。午後の日差しに溶ける赤。その朱金の色は、何かを俺に思い起こさせた。
夜と朝の間を繋ぐ赤──。夕焼けと、朝焼け……。
無意識に、俺はそれを口に出していたらしい。
「そうだね、黄昏の色だ」
「夜明けの色だわ」
二人の軽いやり取りが、何故だか遠くなる──。
「『私たちはすべて、踊る光の万華鏡。太陽の光に踊り、宙の闇に踊らされる万華鏡──』」
あれ? 俺、今、何か言ったっけ。二人が、すごく驚いたような顔で俺を見てる。
「『踊り続けるのに疲れて……赤い世界に逃げたんだ。慌ただしく移り変わる光と闇、そのあわいに現れる、黄昏と夜明けの静かな薄明り。赤く透き通った光は、彼岸花の色。あんまり綺麗で美しくて、静かで──つい、戻るのを忘れてしまった』」
「……あなたは、馬鹿だわ。そこは── 一度行ったら戻れない世界よ」
彼女の声が、震えている。どうしてだろうと、俺はやっぱりぼんやりしたまま思っている。
「『そうですね。考えなしでした。あなたに、いつまでも覚えていてほしいような、忘れてしまってほしいような……私は卑怯だ。朝に向かうとも、夜に向かうともしれない赤い空のように、曖昧な心のまま──』」
あなたの心を信じられなかったのは、私の心の弱さ、とまた俺の口が紡ぐ。
「『あなたのような闊達な女性には、私のような面白みのない男より、自由気ままでいて、人好きのする、明るく陽気な弟のほうが合うのではないかと……』」
「──同族嫌悪という言葉を、知らなかったんですか、兄さん」
短い沈黙のあと、そんなふうに思っていたなんて、と阿加井さんが小さく呟く。
「そうよ!」
鳳仙花の実のように、彼女の言葉が鋭くはじける。
煎茶茶碗を渡される。普通よりさらに温めにされたお茶を、言われるまま飲み干した。──そのまま、俺は放心していたようだ。
「味はするかい?」
たずねられて、俺はのろのろと顔を上げた。阿加井さんと老婦人が気づかわしげに覗き込んでくる。
「味……、ですか……。あ……」
上手く口が動かない。だけど、何をしゃべっていいのかもわからなかった。
「これをお上がりなさい!」
言葉を理解するより早く、口の中に何か丸くて軟らかいものを突っ込まれた。驚いて、眼を白黒させてしまったけれど、味はわかった。
「どうです? わかるかしら?」
緩慢に舌を動かし、顎を動かしながら、俺はなんとか首を頷かせた。
「……甘い、です」
「そう。良かったわ」
老婦人はホッとしたように微笑んだ。その笑みは上品で、とても俺の口に茶菓子を詰め込んだのと同じ人とは思えない──。
「でも、今そこに父と母が……俺が中学生のとき、死んで」
「それは幻よ。夢よ」
きっぱりと、言い聞かせるように彼女は言う。
「ただの──影みたいなものですよ」
「影……」
でも、本当にそこにいたんだ──。考え込む俺に、阿加井さんが追い打ちを掛ける。
「あの世の影であり、この世の影──ただの影法師だ」
「ここでしか、会えない影でもありますよ」
知っているはずでしょうに、と挑むようにつけ加え、彼女はまだぼんやりしている俺に向き直った。
「何でも屋さん。阿加井の庭の、この場所ではね。彼岸花の咲くこの時期だけ、あの世とこの世の境目が曖昧になると言われているんですよ。あなたはご両親に会えたのね……もう何十年もそういう人はいなかったのに、きっとあなたは運がいいのだわ」
うらやましいわ、ぽつんとそんなことを言い、彼女は群生する彼岸花を見やる。その目は遠くの山より、もっと遠いところを見ているようだった。
「馬鹿々々しい」
阿加井さんが言う。言葉とは裏腹に、口調は優しげだ。
「執着してるから会えないんですよ。あなたもご存知でしょう」
「執着? そうかしら」
不思議そうにたずねる顔は、童女のよう。
「執着でしょう」
「わたくしは聞いてみたいだけなんですよ。どうしてそんな誤解をしてしまったのかと」
「あなたがずっと思っていたのは、兄だけだったのにね」
「……」
「でも、本人に会ってそれを聞いてしまえば、あなたは気が済んでしまうでしょう」
「そうね」
「そうして、今度こそ忘れてしまうでしょう。もしかしたら兄は、それが嫌で姿を現さないのかもしれませんよ」
「あなたたち兄弟は、どちらも意地悪だわね」
彼女はふっと目を伏せた。
「──もう、忘れてしまいたいのに」
呟いた声が風に溶ける。言葉を含んだ風が、彼岸花をそよがせて空へ、遠くの山へと吹き渡ってゆく。午後の日差しに溶ける赤。その朱金の色は、何かを俺に思い起こさせた。
夜と朝の間を繋ぐ赤──。夕焼けと、朝焼け……。
無意識に、俺はそれを口に出していたらしい。
「そうだね、黄昏の色だ」
「夜明けの色だわ」
二人の軽いやり取りが、何故だか遠くなる──。
「『私たちはすべて、踊る光の万華鏡。太陽の光に踊り、宙の闇に踊らされる万華鏡──』」
あれ? 俺、今、何か言ったっけ。二人が、すごく驚いたような顔で俺を見てる。
「『踊り続けるのに疲れて……赤い世界に逃げたんだ。慌ただしく移り変わる光と闇、そのあわいに現れる、黄昏と夜明けの静かな薄明り。赤く透き通った光は、彼岸花の色。あんまり綺麗で美しくて、静かで──つい、戻るのを忘れてしまった』」
「……あなたは、馬鹿だわ。そこは── 一度行ったら戻れない世界よ」
彼女の声が、震えている。どうしてだろうと、俺はやっぱりぼんやりしたまま思っている。
「『そうですね。考えなしでした。あなたに、いつまでも覚えていてほしいような、忘れてしまってほしいような……私は卑怯だ。朝に向かうとも、夜に向かうともしれない赤い空のように、曖昧な心のまま──』」
あなたの心を信じられなかったのは、私の心の弱さ、とまた俺の口が紡ぐ。
「『あなたのような闊達な女性には、私のような面白みのない男より、自由気ままでいて、人好きのする、明るく陽気な弟のほうが合うのではないかと……』」
「──同族嫌悪という言葉を、知らなかったんですか、兄さん」
短い沈黙のあと、そんなふうに思っていたなんて、と阿加井さんが小さく呟く。
「そうよ!」
鳳仙花の実のように、彼女の言葉が鋭くはじける。