第3話 慈恩堂でお留守番。中編
文字数 4,187文字
さっきから確かに心臓がどっくんどっくんいってるし、背中は強張って痛いくらいだし、異様な寒気はしてるけど、怖いの? 怖がってるの、俺?
うわ、情けない。
と、思うそばから皮膚が粟立ってきた。自覚した途端、くらり、と眩暈がするような。
そんな俺の様子をじっと眺めていたらしい店主が、溜息をつくのが聞こえた。
「もういいよ。……気のせいでも、妄想でも」
「え? 何が?」
どうしたんだろう、唐突に。
わけが分からなくて問い返した俺に、店主は複雑な表情を向けた。
「分からないんなら、なおそれでいいよ。幸せな人だね、きみは」
そう言ったかと思うと、店主はいきなり俺の肩を払うように叩いた。
ばしっ!
その途端、どこからか分からないけど、悲鳴のようなものが聞こえたのも、やっぱり俺の気のせいなんだろう。うん。
そう、気のせいなんだろうと思いたい、んだが。
……じっと虚空を睨みつけている店主が、怖い。
俺には見えないんだけど、彼には何か見えてるんだろうか。
まさか、そんなはずないよな。ははははは。それにしても、このバターサンド、美味いなぁ。近くで売ってるとこあったら、今度、娘のののかにも食べさせてやりたい。
ただひたすら包み紙をほどいては食べる、を繰り返しているうちに、店主がようやく纏う雰囲気を和らげ、深く息を吐いた。もぐもぐ菓子を頬張る俺を見て、苦笑している。
「これ、そんなに好きなら、まだまだあるのでお土産にさしあげますよ。たまに食べると美味しいですよね」
「お、おひうはいあう(お気遣いなく、だ!)」
「そんなに慌てて返事しなくてもいいですって。あーあ、口の周り、ついてますよ?」
慌てて口元をぬぐう俺に、店主はおしぼりを渡してくれた。
「それにしても──」
ぽつり、と呟く店主。
「動物に好かれる人って、ああいうのにも好かれやすいのかもしれないなぁ」
店主の言葉に、俺は思わず固まった。そして、バターサンドを喉に詰まらせてしまった。
げっほげっほげっほ!
がっほがっほがっほ!
んがっ!ぐぐぐっ!
……サ○エさんかよ、とセルフ突っ込みする余裕もなく、あんまり苦しくて、涙まで滲んでくる。そのせいで、ものすごく重要なことを聞きそびれてしまったことを、俺は忘れてしまった。
──「ああいうの」って、何のこと? 好かれやすいって、どういうこと?
この時、訊ねなかったことを後悔することになるとも知らず。
ああ、俺ってやつは……。
「ああもう、大丈夫ですか? 良く噛んでから飲み込まないと、大人でもうっかりすると窒息するのに──」
店主は慌てて俺の背中をさすったり、とんとん叩いたりしてくれた。ようやく落ち着いたところで、ぬるめの白湯を飲ませてくれる。素直に受け取りつつ、俺、放心状態。
「良かった、大丈夫なようですね。もう少しでハイムリック法を試すとこでしたよ」
力なく笑う店主。
……心配させてすんません。
「あ、もうそろそろ時間だ。この後は犬の散歩ですか?」
柱時計に目をやった店主が聞いてくる。
「いや、小学生の子供の送り迎えです。そろばん塾のね」
さっきの苦しみの余韻でまだ少し頭がぼーっとしてるけど、こんなことじゃいかんな。気合入れないと。
「ああ。そういえば親御さんたちの間で人気なんですってね。順番待ちだそうじゃないですか」
「へ?」
順番? 何の?
「きみに子供の送り迎えを依頼する順番。──あれ、もしかして知らなかった、とか?」
不思議そうに訊ねる店主に、俺はぶんぶんと頷いた。う、勢いつけすぎて眩暈が……。
「昨年末、その時送ってた子供を庇って怪我したでしょう?」
「ああ。そういえばそんなこともあったけど……」
「それに、一昨年でしたっけ、学習塾の子供たちを暴漢から守ったそうじゃないですか」
「あれは……」
何て説明すればいいのか分からなくて、俺は言葉を途切れさせてしまった。
だって、誰が信用するよ、死んだ双子の弟が一時的に俺の身体を乗っ取って、頭まで麻薬にヤラれたジャンキーを叩きのめしたなんて。
「あれは、何も覚えてないっていうか……俺も怖かったし、とにかく夢中で、気づいたら終わってたっていうか……いやもう本当に情けないですよね。はは……」
──笑ってごまかしておこう。
明らかに不自然な笑みを顔に貼り付ける俺の、苦しい心の裡を知ってか知らずか、店主は続ける。
「まあ、とにかく。このあたりの親御さんの間では、きみは<子供の守護神>とか<街角のお地蔵さん>とか呼ばれてるんだけど──全然知らなかったみたいだね、その様子じゃ」
俺は今度は横に首を振った。今度は眩暈は起こらなかったけど、強く振った拍子に首の筋がびんと引っ張られ、攣るように痛んだ。あたたた……。
「そ、そんな二つ名で呼ばれてるなんて、俺、全然知らなかったです」
痛むところを抑えながら、何とか俺は答える。
「はあ……まあ、そういうのもきみらしいけどね」
溜息混じりにそう答えつつ、店主はまるで手品のように俺の目の前に湿布薬を差し出した。
「首の筋、大丈夫かな? 違えてない?」
「はあ、まあ……いきなり動かしたせいだと思います」
もらった湿布をありがたく貼らせてもらい、恐る恐る首を前後左右に曲げてみる。うん。大丈夫だ。そう告げると、店主の表情が和らいだ。
「居眠りしてて冷えたのかもね。トシ取ってくると、ちょっと動かしただけで有り得ないところが攣ったりしない? 足の指とか、土踏まずとか」
「あー、それ、ありますね。何だろうなぁ。子供の頃は無意識に動かしてるのに、大人になってトシ取るにつれ、使わなくなってる筋肉がつっぱるのかも」
「そうかもしれないね。いずれにせよ、身体は冷やしちゃいけないよ。女性はもちろんのこと、おじさんだって気をつけなきゃ。僕だってこう見えて、らくだのシャツにステテコを愛用してるんですよ」
あれ? ステテコじゃなくて、パッチだったっけ? などと、ひとり首を傾げる店主。
「夏はちりめんのステテコだから、冬はやっぱりパッチか。本当はダマールがいいんだけど、高いからねぇ。らくだのシャツとパッチの上下が精一杯かな」
……
……
涼やかな目元、整った鼻、少々薄めだが形の良い唇。手入れはしてないようなのに、理想的なカーブを描く眉。顔の輪郭はしっかりしていて、決して女性的ではない。
しなやかな身体つきをしたこの年齢不詳の男前が、服の下にそんな秘密(?)を持っていたなんて! 知り合いに、元の性別には絶対見えない女装の達人がいるけど、そいつのガーターベルトより衝撃的だよ……。
「あの……」
俺は忠告せずにいられなかった。
「下着の話はしない方が……」
「え? どうして?」
男同士じゃないですか、と店主は心底不思議そうだ。
──どうして、どうして? なんだよ。少しは自覚しろよ。
「清純派グラビア・アイドルが、冬はババシャツ愛用してます! とか言ったら、もしそれが本当だとしても普通は引くでしょ? あなたがハラの出た、もとい、貫禄のあるオヤジ、いや、その、えっとまあとにかく、そんなような見かけならともかく、その涼しげな容貌で、らくだの下着上下はないですよ……」
イメージを大切にしてくださいよ、イメージを!
力説する俺を、店主はものすごく不思議そうに見つめていた。
……精神的に、疲労困憊しまくった留守番だった。
ぼーっと歩いていたら、歩道の車止めに足を取られて危うく転びかけた。ダメだダメだ、こんなんじゃ。これから後藤さんちの慎一くんを家まで迎えに行って、そろばん塾まで送っていかないといけないんだから。
塾が終わる頃にまた迎えに行って、安全に家まで送り届ける。それでようやく今日の仕事が終わる。その間に晩飯の支度しなくちゃな。ああ、忙しい。
そう、俺は忙しいんだ。
だから、いくらあの骨董屋で消耗しようとも、へたれているわけにはいかない。だいたい、消耗っても、俺、誰も来ない店でぼーっとしてただけで、うっかり居眠りしちゃってたくらいだし。消耗するような理由はない!
たぶん。
何に対してか力んだら、くしゃみが出た。うう、寒い。肩をすぼめてポケットに手を入れると、指先に封筒の感触。
今日の店番の報酬だ。
「……」
その中身を思い、俺は複雑な気持ちになった。どうしてかって、約束の金額より多いんだよ。多いのはうれしい。何たって、慈恩堂店主、一万円も色を付けてくれたんだ。一万円だよ、いちまんえん。
一万円稼ごうとしたら、あれやってこれやってそれもやって──とにかく、そう簡単にはいかない。半日居眠りしててもらえるもんじゃないんだ。だからこそ、コワイ。
──今度また店番頼むよ。いやー、いい人材を見つけたなぁ。
本当にうれしそうな店主の言葉。
これまで、誰一人としてまともに店番を勤め上げた人間はいないっていうんだよ。ある者は店に入って早々に逃げ、ある者は店主が帰るまで店の前で待ち続け、またある者は店内で失神していた、と……。
いや、確かに俺は一応店主が帰って来るまで店番してたけどさ(居眠ってしまったけど)。そんな話聞いたら怖いじゃないか。それに、変な夢も見たし……。
だけど。
──次からは、その倍の料金を払わせてもらうね。買い付けに行ったりするの、苦労してたんだよ。本当にきみは貴重な存在だ。まるで、夏草冬虫! いや、反対巻きのオウム貝かな。んー、真冬のアブラゼミ?
倍の料金はともかく、ってか、それはうれしいんだけど、なんなんだ、そのたとえ。
「よく分からんセンスだ……」
無意識に呟く。
つまりは、希少価値がある、と言いたいんだろうけど、それだったらもっとこう……ホワイトタイガーとか、四葉のクローバーとか、青い薔薇とかって、あれ? 俺、なんでメルヘンてかファンタジーな方向に……。
自分の考えでちょっと寒くなってしまった。俺も他人のセンスをどうこう言えないな。
軽く落ち込みつつ、とぼとぼ歩いていると、声を掛けられた。
「おじさん!」