第39話 七夕 凌霄花の夢
文字数 2,627文字
濃い橙色をした凌霄花 が、太陽の光を弾いてる。
──あれは太陽の眷属なんだよ。
そう言ったのは父だったか。
──だから、木でも壁でも手当たりしだいに絡みついて上へ上へと伸びてゆき、遠く高く空を目指して紅炎 みたいな花を咲かせるんだ。
思い出すのは、懐かしい声。
雲間越しにでも日差しは眩しくて、俺はつい眼を眇める。
かつて父と母と双子の弟と暮らしていた家の小さな庭には、不自然なほど大きな凌霄花の木があった。寒くなると葉を落とし、夏になればまた濃い緑の葉を繁らせ色鮮やかな花をつける。
そのさまは、明るい夏の光という光を一身に浴びているというのに、いつもどこか小暗いように感じられたのを思い出していた。
「……」
かすかな風に花が揺れる。昨日の雨に洗われてか白っぽい昼の日差しの下、いくつもの炎が揺らいでいるようだ……。ああ、そういえばあの時、母は何と言ったんだっけか──。
「鬼火みたいですね」
いきなり後ろから声が聞こえて、飛び上がりそうになった。
「真久部さん……もう、びっくりするじゃないですか」
そこには、古道具屋慈恩堂の店主が立っていた。片手にコンビニ袋をぶら下げている。
「どうしたんです、こんなところに突っ立って」
──どうしてだろう? 自分でも分からない。
「いや、あの凌霄花が……」
それ以上続けられなくなった。あの凌霄花が、何なんだろう? 全然分からない。
「鬼火みたいねって、母も。あの、花が……」
支離滅裂に言葉を紡ぎ始めると、空に薄く広がる雲が離合集散の末に割れてゆき、徐々に日差しが増してきた。──凌霄花の濃緑の闇が、さらに昏くさざめいて……。
「何でも屋さん」
ひんやりとした手が俺の腕を掴んだ。
「……え?」
振り返ると、真久部さんがすぐ近くまで来ていた。掴まれた手が痛い。
「ダメですよ、そっちに行っちゃ」
「え、なに……?」
訳も分からず、手を引かれるまま一、二歩踏み出す。と。
バシ、バシ、バシ
背中を叩かれた。え、何?
「真久部さん…?」
いきなりのことに、声には非難が含まれていたと思う。なのに、聡いはずの人が知らぬふりで提案してくる。
「アイスクリーム買ってきたんだけど、何でも屋さんもどう? 暑いから、ついいっぱい買っちゃって」
見せてくれたコンビニ袋の中には、コペンダーツのカップアイス。俺なんかだと年に一度も買わないような高級アイスクリームだ。それが段重ねに入っているのに気圧されて、つい毒気を抜かれてしまった。
「リッチですね、真久部さん……。って、溶けちゃいませんか?」
コンビニではドライアイスなんて入れてくれないよな。
「そこの店が一番アイスの品揃えがいいんだよね。だから近くまで来たついでに」
「いや、慈恩堂までここからだと十分ほどかかるでしょ?」
「一個だけだとすぐ溶けるだろうけど、たくさんあるから大丈夫」
冷凍庫の隅で特にカチカチに凍ってるのを選んできたから、とにっこり笑う真久部さんは自然な感じで俺を誘導し、自分の店のある方に歩き出す。
「僕一人だと食べきれないし。ちょっとくらい時間大丈夫でしょ?」
「いや、まあ……」
昼飯食べに帰ろうとしてたところだし。
「今日はそういえば七夕だよねぇ」
「そうですね。でも珍しく雨じゃないので助かります」
夕方から町内会の七夕祭を手伝いに行かなくちゃならないし。 濡れるの気にしなくていいのはホント助かる。
「毎年七月七日は雨の日が多いものね。織姫と彦星のせっかくの逢瀬に、無粋だよねぇ」
「でも、晴れてても天の川なんて滅多に見えないですよね、街の灯で空が明るくて」
「雨より、人間の方が無粋ってことかなぁ」
そうかも知れないですね、と答えると、真久部さんがあはは、と笑った。
「宇宙にも雨が降るんだよ。知ってる?」
「えーっと……流星雨?」
「そう。あれらは星の欠片だ。彗星が砕けた塵。地球の大気に触れて燃えれば流星雨だけど、そのまま地球を通り越して飛んで行く欠片もある。遠くへ、もっと遠くへ。宇宙の通り雨みたいなもんかな」
もしその進路に宇宙船みたいなものがあったら、ぶつかって穴が開くかもだけど、と真久部さんは悪戯っぽく笑う。
「その途中でまたどっかの星の重力に捕まるか、そのまま飛んで行くか──ただの塵なのに、そんなふうに考えるとロマンがあるよね」
「でも、孤独ですね……」
宇宙空間って、真っ暗で何も無いっていうイメージがある。そこをずっと、もしかしたら永遠に飛び続けるのかと思うと、とても寂しい気持ちになった。
「──遠い宇宙を行くと、鬼火が見えてくると言うよ」
「鬼火? 宇宙に?」
何か相反する言葉を聞いたと思って聞き返すと、真久部さんは頷いた。
「赤色巨星といって、太陽の成れの果てだよ。真っ暗な宇宙の中で名前のとおりに赤く燃えるさまが、まるで鬼火のようだと」
遠く飛び続ける星の欠片にもし心があったとしたら、それはどんなふうに見えると思う? と真久部さんが聞いてくる。
「とても……魅力的に見えるんじゃないかな…… 」
何も無い真っ暗な空間に、ぼうっと浮かぶ鬼火。孤独で、寂しくて……たとえそれが怖いものだとしても、近寄って行きたくなるかもしれない。
そう答えると、真久部さんが「それだよ」と言った。
「え? それって?」
「孤独で寂しい心につけ込むんだよ。アレは。気をつけないと取り込まれてしまう。きみはたまに危なっかしいね、何でも屋さん」
それだけ言って、真久部さんはどんどん先に歩いていく。
何のことだろう? 鬼火……さっきの凌霄花のこと……? そうだ、濃緑の葉が暗い空のようで、そこにたくさんの鬼火が燃えて……。
「何でも屋さん!」
呼ばれて顔を上げると、真久部さんが俺を待ってくれていた。
「ダメだよ、あんまり考えちゃ。ほら、早く来ないと溶けちゃう!」
そう言って、コンビニ袋を振ってみせる。
「……え?」
コペンダーツのアイスが溶ける、だと? それは困る! 俺は慌てて真久部さんを追った。
何か心配してくれてるみたいだけど、俺なんて高級アイスひとつでこんなに簡単に釣られちゃうんだから。
だから、きっと大丈夫だよ、真久部さん。
──あれは太陽の眷属なんだよ。
そう言ったのは父だったか。
──だから、木でも壁でも手当たりしだいに絡みついて上へ上へと伸びてゆき、遠く高く空を目指して
思い出すのは、懐かしい声。
雲間越しにでも日差しは眩しくて、俺はつい眼を眇める。
かつて父と母と双子の弟と暮らしていた家の小さな庭には、不自然なほど大きな凌霄花の木があった。寒くなると葉を落とし、夏になればまた濃い緑の葉を繁らせ色鮮やかな花をつける。
そのさまは、明るい夏の光という光を一身に浴びているというのに、いつもどこか小暗いように感じられたのを思い出していた。
「……」
かすかな風に花が揺れる。昨日の雨に洗われてか白っぽい昼の日差しの下、いくつもの炎が揺らいでいるようだ……。ああ、そういえばあの時、母は何と言ったんだっけか──。
「鬼火みたいですね」
いきなり後ろから声が聞こえて、飛び上がりそうになった。
「真久部さん……もう、びっくりするじゃないですか」
そこには、古道具屋慈恩堂の店主が立っていた。片手にコンビニ袋をぶら下げている。
「どうしたんです、こんなところに突っ立って」
──どうしてだろう? 自分でも分からない。
「いや、あの凌霄花が……」
それ以上続けられなくなった。あの凌霄花が、何なんだろう? 全然分からない。
「鬼火みたいねって、母も。あの、花が……」
支離滅裂に言葉を紡ぎ始めると、空に薄く広がる雲が離合集散の末に割れてゆき、徐々に日差しが増してきた。──凌霄花の濃緑の闇が、さらに昏くさざめいて……。
「何でも屋さん」
ひんやりとした手が俺の腕を掴んだ。
「……え?」
振り返ると、真久部さんがすぐ近くまで来ていた。掴まれた手が痛い。
「ダメですよ、そっちに行っちゃ」
「え、なに……?」
訳も分からず、手を引かれるまま一、二歩踏み出す。と。
バシ、バシ、バシ
背中を叩かれた。え、何?
「真久部さん…?」
いきなりのことに、声には非難が含まれていたと思う。なのに、聡いはずの人が知らぬふりで提案してくる。
「アイスクリーム買ってきたんだけど、何でも屋さんもどう? 暑いから、ついいっぱい買っちゃって」
見せてくれたコンビニ袋の中には、コペンダーツのカップアイス。俺なんかだと年に一度も買わないような高級アイスクリームだ。それが段重ねに入っているのに気圧されて、つい毒気を抜かれてしまった。
「リッチですね、真久部さん……。って、溶けちゃいませんか?」
コンビニではドライアイスなんて入れてくれないよな。
「そこの店が一番アイスの品揃えがいいんだよね。だから近くまで来たついでに」
「いや、慈恩堂までここからだと十分ほどかかるでしょ?」
「一個だけだとすぐ溶けるだろうけど、たくさんあるから大丈夫」
冷凍庫の隅で特にカチカチに凍ってるのを選んできたから、とにっこり笑う真久部さんは自然な感じで俺を誘導し、自分の店のある方に歩き出す。
「僕一人だと食べきれないし。ちょっとくらい時間大丈夫でしょ?」
「いや、まあ……」
昼飯食べに帰ろうとしてたところだし。
「今日はそういえば七夕だよねぇ」
「そうですね。でも珍しく雨じゃないので助かります」
夕方から町内会の七夕祭を手伝いに行かなくちゃならないし。 濡れるの気にしなくていいのはホント助かる。
「毎年七月七日は雨の日が多いものね。織姫と彦星のせっかくの逢瀬に、無粋だよねぇ」
「でも、晴れてても天の川なんて滅多に見えないですよね、街の灯で空が明るくて」
「雨より、人間の方が無粋ってことかなぁ」
そうかも知れないですね、と答えると、真久部さんがあはは、と笑った。
「宇宙にも雨が降るんだよ。知ってる?」
「えーっと……流星雨?」
「そう。あれらは星の欠片だ。彗星が砕けた塵。地球の大気に触れて燃えれば流星雨だけど、そのまま地球を通り越して飛んで行く欠片もある。遠くへ、もっと遠くへ。宇宙の通り雨みたいなもんかな」
もしその進路に宇宙船みたいなものがあったら、ぶつかって穴が開くかもだけど、と真久部さんは悪戯っぽく笑う。
「その途中でまたどっかの星の重力に捕まるか、そのまま飛んで行くか──ただの塵なのに、そんなふうに考えるとロマンがあるよね」
「でも、孤独ですね……」
宇宙空間って、真っ暗で何も無いっていうイメージがある。そこをずっと、もしかしたら永遠に飛び続けるのかと思うと、とても寂しい気持ちになった。
「──遠い宇宙を行くと、鬼火が見えてくると言うよ」
「鬼火? 宇宙に?」
何か相反する言葉を聞いたと思って聞き返すと、真久部さんは頷いた。
「赤色巨星といって、太陽の成れの果てだよ。真っ暗な宇宙の中で名前のとおりに赤く燃えるさまが、まるで鬼火のようだと」
遠く飛び続ける星の欠片にもし心があったとしたら、それはどんなふうに見えると思う? と真久部さんが聞いてくる。
「とても……魅力的に見えるんじゃないかな…… 」
何も無い真っ暗な空間に、ぼうっと浮かぶ鬼火。孤独で、寂しくて……たとえそれが怖いものだとしても、近寄って行きたくなるかもしれない。
そう答えると、真久部さんが「それだよ」と言った。
「え? それって?」
「孤独で寂しい心につけ込むんだよ。アレは。気をつけないと取り込まれてしまう。きみはたまに危なっかしいね、何でも屋さん」
それだけ言って、真久部さんはどんどん先に歩いていく。
何のことだろう? 鬼火……さっきの凌霄花のこと……? そうだ、濃緑の葉が暗い空のようで、そこにたくさんの鬼火が燃えて……。
「何でも屋さん!」
呼ばれて顔を上げると、真久部さんが俺を待ってくれていた。
「ダメだよ、あんまり考えちゃ。ほら、早く来ないと溶けちゃう!」
そう言って、コンビニ袋を振ってみせる。
「……え?」
コペンダーツのアイスが溶ける、だと? それは困る! 俺は慌てて真久部さんを追った。
何か心配してくれてるみたいだけど、俺なんて高級アイスひとつでこんなに簡単に釣られちゃうんだから。
だから、きっと大丈夫だよ、真久部さん。