第136話 鳴神月の護り刀 5
文字数 2,440文字
嫌な感じのする鯉の香炉や、何か彫刻してある和箪笥の大きな金具、黒光りする木彫りの恵比寿様と大黒様のペア像、何故か裏返しになってる能面なんかを見ないようにして、店内の通路を伝い、そちらに近づいていく。
帳場の前に立って、きっちり九十度に頭を下げた
「昨日は、ありがとうございました!」
知らないあいだに俺にくっついていたという、悪い“糸”を切ってくれて、というつもりの「ありがとうございます」だけど、そこらへんは濁させてもらう。
「いきなり帰っちゃってすみません。午後から予定があったのを思い出して……」
読めない笑みの真久部さんは、きっとそうだと思ってましたよ、なんて言ってくれる。狸だなぁ、と思ったけど、じゃあ俺は狐か? となったのでそれ以上考えるのをやめた。
「今度、お礼に店番させていただきますね。もちろん無料で」
次回骨董市に行くときにでも、声を掛けてくださいね、と言っておく。それくらはやらせてもらわないとな。害がないとはいえ、ここの店番はやっぱり怖い。だから積極的にやりたい仕事ではないけど、ああいうのってさ。モノで返せる恩じゃないと思うんだ。
聞いていた真久部さん、にっこり笑う。
「──無料はともかく、ちょうど再来週に見積もりに出かける予定があるので、出来たらお願いしたいなぁ、と思っていたところだったんですよ」
何でも屋さんのスケジュール、再来週の木曜空いてます? 小首を傾げるようにして、そうたずねられた。
「いやー、先方が午後からしか都合がつかないというので、どうしてもその日は閉店作業を伴う店番になっちゃうんでねぇ……なかなか言い出せなくて」
夕方からのうちの店、苦手でしょう? そう言ってまた唇の端を上げる。
「よかったですよ、何でも屋さんのほうからそう言ってもらえて」
にこにこにこ、にこにこにこ。なんか嵌められたように思ってしまうのは、気のせい、だろう、きっと、多分。──精神安定のためにそういうことにしておいて、心の涙をそっとぬぐい、俺も笑顔を返しておく。
「えっと。はい、再来週の木曜ですね。まだ何も予定入ってなかったんで、空けておきます!」
あは、あははははは。──って、やっぱり、狐と狸なんだろうか。いやいやいや、そうじゃなくて。
「あの。午前中、神埼さんのところで将棋の相手をさせてもらってたんですけど、帰りにパンをたくさん持たせてくれたんです。近頃評判のパン屋さんのらしくて。今朝、散歩がてら自分の食べるクロワッサンを買うついでに買っただけだから! っておっしゃってましたけど」
美味しいらしいので、お礼といってはなんですが、おすそ分けしようと思って来てみたんです、と言うと、真久部さんは、「ああ、それで」と何か納得していた。え? 何?
「今日はどうしてか急にミネストローネスープを作りたくなってねぇ。昼はそれと冷凍しておいたご飯で済まそうと思っていたところなんですよ。そうか、何でも屋さんがパンを持ってきてくれるから、具沢山のスープだったのか……」
うんうん、と、台所に通じる引き戸の上の暖簾をじっと見ながら独りうなずいているこの人が、やっぱりちょっぴりほんのり怖い……。まさか、予知能力? そんなこと思ってたら、ぱっとこっちを見て、またにっこり笑った。
「せっかくだから、何でも屋さんもここでお昼をどうです? スープ、作りすぎたんでいっぱいあるんですよ」
「え、あ、ありがとうございます……」
そこ、上がって待っててください、と言い置くと、真久部さんはゆっくりなようでいて、素早い動きで引き戸を開け、台所に消えていった。
「……」
御呼ばれに来たわけじゃないけど、まだ話したいことがあるしな──。お言葉に甘えて、俺はもうすっかり慣れてしまった帳場の畳エリアに上がらせてもらった。
隅に立てかけてあったちゃぶ台を広げて待つことしばし。その間の慈恩堂店内の怪しさについてはもう語るまい。──いくつかある古時計たちの時を刻む音が少しずつズレているのが、なんだかお互い追いかけっこのフーガみたいに聞こえるとか、対抗するように蓄音機からレコードが終わって空回りするときの、ぶつぶつ切れるような針の音みたいなのがかすかに響いてくるとか、古い鉄瓶の口から薄い蒸気が上がるのが見えるような気がするとか、そういうのは意識しちゃいけない。
視界の隅でやたらに主張してくる鯉の貴石画を見ないようにしていると、大きな盆を両手で持った真久部さんが戻ってきた。あ、片足で引き戸を閉めてる。
この人もたまにはそういう行儀の悪いことすることがあるんだな、と妙に感心していると、足元に気をつけながら畳エリアに上がってきて、お待たせしました、と目の前に湯気の立つスープの入った皿とトマトのサラダ、形の良いお握りに海苔を巻いたのをのせた皿を置いてくれた。
「うわあ! すごい贅沢な感じです」
思わず歓声を上げてしまう。真久部さんって、何気に料理上手なんだよな。うん、俺より絶対上手いと思う。
ちょっとわくわくしながら受け取った空の皿にパンをのせていると、「独りで食べるより、誰かと食べるほうが美味しいですからね。ちょっと品数を増やしてみました」なんてさらりと言いながら、ポットの湯でお茶を淹れてくれていた。いつもながら手早い。
「いただきます!」
スプーンを握って、まずミネストローネ。うーん、美味い。自分でも似たようなの作るけど、真久部さんのほうがずっと味がいいな。神埼の爺さんのくれたパンも美味い。カレーパンだけど、ほかのものの味がわからなくなるような感じじゃなくて、上品な辛さ。冷たいトマトで舌を休めたら、もっちりほくほくお握りをひと口、ふた口。いやー、いい米使ってんなー、なんて脳内グルメリポートしてるうちに、お巡りさんに不審者扱いされて嫌な思いをしたことが、いつの間にか遠くなってるのに気づいた。
帳場の前に立って、きっちり九十度に頭を下げた
「昨日は、ありがとうございました!」
知らないあいだに俺にくっついていたという、悪い“糸”を切ってくれて、というつもりの「ありがとうございます」だけど、そこらへんは濁させてもらう。
「いきなり帰っちゃってすみません。午後から予定があったのを思い出して……」
読めない笑みの真久部さんは、きっとそうだと思ってましたよ、なんて言ってくれる。狸だなぁ、と思ったけど、じゃあ俺は狐か? となったのでそれ以上考えるのをやめた。
「今度、お礼に店番させていただきますね。もちろん無料で」
次回骨董市に行くときにでも、声を掛けてくださいね、と言っておく。それくらはやらせてもらわないとな。害がないとはいえ、ここの店番はやっぱり怖い。だから積極的にやりたい仕事ではないけど、ああいうのってさ。モノで返せる恩じゃないと思うんだ。
聞いていた真久部さん、にっこり笑う。
「──無料はともかく、ちょうど再来週に見積もりに出かける予定があるので、出来たらお願いしたいなぁ、と思っていたところだったんですよ」
何でも屋さんのスケジュール、再来週の木曜空いてます? 小首を傾げるようにして、そうたずねられた。
「いやー、先方が午後からしか都合がつかないというので、どうしてもその日は閉店作業を伴う店番になっちゃうんでねぇ……なかなか言い出せなくて」
夕方からのうちの店、苦手でしょう? そう言ってまた唇の端を上げる。
「よかったですよ、何でも屋さんのほうからそう言ってもらえて」
にこにこにこ、にこにこにこ。なんか嵌められたように思ってしまうのは、気のせい、だろう、きっと、多分。──精神安定のためにそういうことにしておいて、心の涙をそっとぬぐい、俺も笑顔を返しておく。
「えっと。はい、再来週の木曜ですね。まだ何も予定入ってなかったんで、空けておきます!」
あは、あははははは。──って、やっぱり、狐と狸なんだろうか。いやいやいや、そうじゃなくて。
「あの。午前中、神埼さんのところで将棋の相手をさせてもらってたんですけど、帰りにパンをたくさん持たせてくれたんです。近頃評判のパン屋さんのらしくて。今朝、散歩がてら自分の食べるクロワッサンを買うついでに買っただけだから! っておっしゃってましたけど」
美味しいらしいので、お礼といってはなんですが、おすそ分けしようと思って来てみたんです、と言うと、真久部さんは、「ああ、それで」と何か納得していた。え? 何?
「今日はどうしてか急にミネストローネスープを作りたくなってねぇ。昼はそれと冷凍しておいたご飯で済まそうと思っていたところなんですよ。そうか、何でも屋さんがパンを持ってきてくれるから、具沢山のスープだったのか……」
うんうん、と、台所に通じる引き戸の上の暖簾をじっと見ながら独りうなずいているこの人が、やっぱりちょっぴりほんのり怖い……。まさか、予知能力? そんなこと思ってたら、ぱっとこっちを見て、またにっこり笑った。
「せっかくだから、何でも屋さんもここでお昼をどうです? スープ、作りすぎたんでいっぱいあるんですよ」
「え、あ、ありがとうございます……」
そこ、上がって待っててください、と言い置くと、真久部さんはゆっくりなようでいて、素早い動きで引き戸を開け、台所に消えていった。
「……」
御呼ばれに来たわけじゃないけど、まだ話したいことがあるしな──。お言葉に甘えて、俺はもうすっかり慣れてしまった帳場の畳エリアに上がらせてもらった。
隅に立てかけてあったちゃぶ台を広げて待つことしばし。その間の慈恩堂店内の怪しさについてはもう語るまい。──いくつかある古時計たちの時を刻む音が少しずつズレているのが、なんだかお互い追いかけっこのフーガみたいに聞こえるとか、対抗するように蓄音機からレコードが終わって空回りするときの、ぶつぶつ切れるような針の音みたいなのがかすかに響いてくるとか、古い鉄瓶の口から薄い蒸気が上がるのが見えるような気がするとか、そういうのは意識しちゃいけない。
視界の隅でやたらに主張してくる鯉の貴石画を見ないようにしていると、大きな盆を両手で持った真久部さんが戻ってきた。あ、片足で引き戸を閉めてる。
この人もたまにはそういう行儀の悪いことすることがあるんだな、と妙に感心していると、足元に気をつけながら畳エリアに上がってきて、お待たせしました、と目の前に湯気の立つスープの入った皿とトマトのサラダ、形の良いお握りに海苔を巻いたのをのせた皿を置いてくれた。
「うわあ! すごい贅沢な感じです」
思わず歓声を上げてしまう。真久部さんって、何気に料理上手なんだよな。うん、俺より絶対上手いと思う。
ちょっとわくわくしながら受け取った空の皿にパンをのせていると、「独りで食べるより、誰かと食べるほうが美味しいですからね。ちょっと品数を増やしてみました」なんてさらりと言いながら、ポットの湯でお茶を淹れてくれていた。いつもながら手早い。
「いただきます!」
スプーンを握って、まずミネストローネ。うーん、美味い。自分でも似たようなの作るけど、真久部さんのほうがずっと味がいいな。神埼の爺さんのくれたパンも美味い。カレーパンだけど、ほかのものの味がわからなくなるような感じじゃなくて、上品な辛さ。冷たいトマトで舌を休めたら、もっちりほくほくお握りをひと口、ふた口。いやー、いい米使ってんなー、なんて脳内グルメリポートしてるうちに、お巡りさんに不審者扱いされて嫌な思いをしたことが、いつの間にか遠くなってるのに気づいた。