第119話 鳴神月の呪物 10
文字数 2,121文字
──いや、これは虚ろだ。
不意に、あの老人に似た声が男の頭の中に響いた。
──虚ろは真なる空、真なる空は、虚ろなる故に力を持つ。
その力は強大ゆえ、焦点を結べば一瞬にして──。
「──見ていた老人も驚いたことでしょうね」
くすっと真久部は笑った。
「え?」
びっくりしたように彼が顔を上げるので、真久部は悪戯っぽく小首を傾げてみせる。
「言ったでしょ? 老人はマッド・サイエンティストだって。お金を掛けた一大プロジェクト、自分の施した術の成果を見届けたいと考えても、何ら不思議はありません」
「どこから見てたんですか、そんなの……」
「村を見渡す峠の上から」
「峠?」
「ええ。大規模な術ですからね。それくらい離れていないと全体が見えません」
「……」
「それに安全でもない。老人はね、安全な場所から眺めるつもりだったんです、動物たちの怨念が村の半数を喰らう様子を。自分の仕掛けた術でどんな呪物が完成するのかと、様々に考えを巡らせながら」
真久部が言うのを聞いた彼は、身震いした。
「──でも、半数どころじゃなかったんですよね? 正直な男のせいで村全体に呪物が行き渡っちゃったんですから……」
単純に考えても二倍。だから、老人が思っていたより規模が大きくなったんでは? と恐々といった様子で彼が指摘するので、真久部は答えてやる。
「もちろん、老人は念のために周囲に強固な結界を張ってたんだよ。一流の術師は用心深いものです」
防弾チョッキに、防刀スーツを重ねるくらいの感じかなぁ。そう例えてみると、確かめるように彼は言った。
「つまり、それくらい危険ってことなんですね……」
乾いた唇を舌で湿し、さらに訊ねてくる。
「……もしも、老人の計算通りに男が呪物の半分をネコババしていたとしたら、それを受け取ることのなかった村人の半分はどうなったんですか?」
「障りの風に煽られて、殆どが命を落としていただろうね」
「障りの風?」
「瘴気の嵐です。呪言により、呪物から解き放たれた怨念たちの跋扈する村は、生身の人間のいられる場所ではないですから。──その場合、もしその残りの半数に救いがあるとすれば、魂と肉体が呪物に取り込まれずに済んだということだけかな」
それは大きな救いだけど、と付け加えながら真久部は続ける。
「こんな言い方は刺激的に過ぎるけど──、老人に実験場と見込まれた時から、男と男の村には破滅しかなかったんですよ」
「本当に実験、なんですか──?」
信じたくない、といった表情になった彼に、そうですよ、と真久部は頷く。
「今まで作ったことのないものを作ろうとしていたんだもの。老人にとっては実験みたいなものですよ。既に知られている方法を元に、材料を変え、条件を変え、手法を変え、それが結果にどう影響するのか、最終段階を観察して検証、次回に役立てようと考えていたわけでね。──そういう意味では、失敗しようが成功しようが別にどちらでも良かったんです」
まあ、老人としては、これから花火を見る子供みたいにワクワクしていたというわけですよ、と言うと、そんな心境、想像も出来ないです、と彼は嫌そうに吐き捨てた。もとより、老人の心境を理解はしても、共感はしない真久部も、嫌な考え方ですよねぇ、と彼に同意する。
「しょせん、マッド・サイエンティストですから。彼らにとっては興味と好奇心だけが正義。その赴く先が非道でも、彼らにとっては正道であり、周囲はそれを否定してはならないと彼らは思っています──。賢い狂人なんて、凡人には手に負えない。係わらないのが最善ですが、あちらから寄って来られたらねぇ……」
「──逃げるしかないですね。幽霊より怖いです」
そう、生きてる人間が一番怖いって言いますしね、と彼に頷いてみせながら、真久部は先を語ることにした。
「さて、準備万端で峠に陣取った老人は、最後の呪言を唱え始めました」
術のトリガーとなる呪文です、そう言うと、彼がゴクリと唾を呑む音がした。
「唱え始めてしばらくすると、山の動物たちの怨念が村に広がり始めました。贈り物に見せかけた呪物から、解き放たれたんです」
脈動するように伸び縮みする、ドロドロした黒いアメーバ状の何か。呪物からグネグネと這い出し、空気に混ざり込むように、次の瞬間ぶわっと膨らんで──。
「そ、そういうの、目に見えるものなんですか……?」
ついつい、といった感じで彼が訊ねてくる。
「視える人には見えるようですね。術者である老人には見えて当然でしょう」
「……」
彼は背中を震わせた。魔除けの水無月と小豆煎餅でマシになっていた顔色が、さっきからまた悪くなっている。
「失敗してもいいけれど、期待もある。老人にとっても初めての試みでしたから、自分の仕掛けた術でどんな呪物が完成するのかしないのか、結果が楽しみで仕方がなかったようですね。そうして、呪言の最後の最後の言葉を放った瞬間、老人の眼下で吹き荒れていた動物たちの怨念が、一点に凝り固まるかと見えました」
一瞬の静寂。