第286話 後編

文字数 1,340文字

恐怖のあまり、ついに理性をかなぐり捨てて走り出しそうになったその時。

さぁっと風が吹いた。秋の夜特有の、ひんやりと湿った空気。それは、とても良い匂いがした。

甘すぎず、酸っぱすぎず。とても爽やかで、ほんの少し草っぽい。えーっと、なんだろう……そう、マスカットとかデラウェアとか巨峰とかピオーネとか、全部混ぜて上澄みだけ取り出したらこんな匂いになるかもしれない……。

どこか麻痺したような頭で、俺はそんなことを考えていた。いい匂いのする柔らかい風に包まれて、さっきまでの恐怖とか、焦りとか、全てが遠くなって……。

月の光が、戻った。

「お地蔵さん……?」

再び明るくなった道の端、丘の根元に、俺の膝くらいの高さのずんぐりとした影が見えた。丸い頭に錫杖、赤い涎掛け。

涎掛け? いや、あれは……。

「葛の花?」

近くに寄ってよく見たら、それはお地蔵さんではなかった。丸い頭や錫杖に見えたのは、葛の蔓と葉。涎掛けに見えたのは、赤紫色の葛の花。ああ、そうだ。これは、このいい匂いは、葛の花の香りだ。

「葛花地蔵……」

気づくと、そう呟いていた。そして、ごく自然にそこにしゃがみ込むと、眼をつむり、両手を合わせていた。

 南無阿弥陀仏

唇が、勝手にそう紡ぐ。葛の花の甘酸っぱい香りが、ふわっと頬を撫でていった。いつの間にか周囲は静まり返り、聞こえるのは虫の音ばかり。さっきまであんなに恐ろしかった背後の気配も消え去っていた。

あれは、幻聴、だったのか? たった独りで淡々と知らない夜道を歩いていたものだから、ついうっかり無意識脳内麻薬に身を任せてしまっていたのかもしれない。

それとも──。

妖怪・べとべとさん?

それは無い無い、と自分に突っ込みを入れる。だって、べとべとさんならついて来るのは人間の足音のはずだし。それ以前に、架空の妖怪だし。

まあ、そんなことはどうでもいいや。何だか分からないけど、正気を失いそうなほど怖かった気持ちが、葛の花の匂いのお陰ですっかりと治まった。それだけは確かだ。

それに、この<お地蔵さん>。葛の葉と蔓、花が絡まり合い、自然に出来上がった葛花地蔵。単なる自然のいたずらにしろ、俺には救いの主だ。

だから俺は、旧家で土産に持たせてもらったおはぎを、その前に供えた。そして、マーブルチョコの空き箱に入れておいた線香を出し、百円ライターで火を付ける。……線香と百円ライター、慈恩堂関連の仕事には必ず装備するようにしてるんだ。ちなみに塩と煙草もある。これまでも色々とあったんだよな……。

月明かりの下、おはぎの脇に供えた線香の煙が、真っ直ぐに立ち昇っていく。それを眼の端に収め、俺は改めて葛花地蔵に手を合わせた。

しばらくして立ち上がり、再び歩き出す。丘の斜面は、一面に葛に覆われているようだ。あちこちで花穂が立ち上がり、葡萄に似た甘酸っぱい香りを漂わせている。道なりに歩いて数分。ようやく駅舎が見えた。無人駅だけど、なんだか無性にほっとした。

携帯で時間を確認すれば、あと五分ほどで帰りの電車が来る。家に帰れる……ああ、その前に慈恩堂に寄って、預かり物を渡さないとな。それに、今夜あったことを話さないと──そんなことを考えながらホームに立つと、さあっと風が葛の花の香りを運んで来る。

見上げれば、中秋の名月。
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