第316話 彼岸花の向こうに 2
文字数 1,882文字
むしった草を袋に詰めているあいだに、阿加井さんはお茶の道具を四阿に運んでいたようだ。
「せっかくだから、何でも屋さんも一服いかがです?」
「いや、でも……こんな格好じゃ……」
誘ってもらえてうれしいけれど、汗かいてるし、軍手だって草の汁と泥まみれだし……。
「手なら、そこの蹲踞 で」
指されたほうを見ると、石を刳り貫いて作られた水鉢に、真新しい柄杓が添えてある。きれいなそれを汚れた手で触ることを躊躇していると、阿加井さんが柄杓を取って俺の手を流してくれた。
「ありがとうございます」
「いえいえ。正式な茶会でもなし、こんな庭の端の四阿で、格好を気にすることはありませんよ。さ、どうぞ」
恐縮しながら四阿に向かうと、そこには聞いたとおり先客があった。一日早く来たというその人は、既に供されていたお茶を手にしながら、軽く会釈してくれた。
「すみません、こんな格好で……」
さらに恐縮してしまう。だってその人はとても威厳のある老婦人だったんだ。九月も下旬だけどまだまだ暑いというのに、きっちりと和服を召している。
茶碗を置いた老婦人はゆったりと微笑んで俺の言葉を受け取ると、あとはただ黙って静かに彼岸花を眺めていた。
風の音、たまに聞こえる車の音も、鳥の声と大差ない。静かで騒がしい山の中と同じように、いろんな音が風に混じって聞こえてきて、それ故にすべてが遠いような……。
揺れる赤い花たちを見ながら、彼女は誰にともなく呟いた。
「今年も、会えないようですわね」
ただ確認するためだけに、発した言葉。
「そうですか」
立てたお茶を、俺に渡してくれながら、事務的に応える阿加井さん。
「冷たいわね」
「私は期待しておりませんのでね」
淡々としたやり取りのあと、二人はまた沈黙する。会えないって、他の招待客のことかな、と思ったけれど、なんとなく違うような気がした。
他に会話はなく、彼らはただ彼岸花を眺めている──いや、その向こうの透垣の、さらにその向こうを見ているんだろうか?
静かな時間が過ぎる。時折交わされる二人の会話は、言葉だけだと友好的とはいえないけれど、刺々しいわけではなく、いたたまれない雰囲気とかそういうのではない。何となく、俺はこの場を辞すための言葉を見つけられず、この人たちは何か同じものを待っているのかもしれないと、ぼんやりとそんなことを思っていた。
透垣の向こうは、遠くに霞む山。雲の影か、今はその半分が暗く沈み、その半分がくっきりとした輪郭を見せている。空が高くて、眩しくて──。
「え……」
知らず、俺は声を漏らしていた。
「父さん?」
俺が中学生の時に死んだはずの父が、生前の姿のまま彼岸花の波の向こうに立っている。
「母さん?」
気づくと、母もその隣に立っている。二人は、微笑んでいた。九九をうまく言えるようになったとき、自転車に乗れるようになったとき。本当にうれしそうに笑ってくれた。子供の成長を見守り、喜ぶ、その親の顔。
「え、なんで……」
父も母も、薬物中毒者に殺された。逃げてきたその男の、子供もろとも惨殺されてしまったんだ。犯人は心神喪失ということで措置入院になったと聞いたけど、そいつのその後のことなど知らない。両親の、あの無残な姿を覚えてる。双子の弟と、ただ身を寄せ合って手と手を握り合い、必死で正気を保ったあの日──。
「父さん、母さん!」
必死になって呼ぶと、二人は少し困ったような顔になった。こっちに来てはダメだというように、首を振る。
「なんで! 俺もそっちへ! ── だって」
弟の名を口にして、俺は軽く混乱した。だって、弟は、ああ、弟も死んだんだ。麻薬を憎んで警察官になって、捜査の途中で襲われ刺され、血まみれになって……。
あの時の胸の痛み。弟が心臓を刺されたであろう、あの瞬間に感じた、命を切り取られるような痛み。
「 」
弟の名前。
「 」
弟の名前を呟いた。
と。
──ダメだよ、兄さん
「え?」
声、声が。弟の──
「何でも屋さん!」
気づくと、俺は阿加井さんに羽交い絞めにされていた。
「ダメよ」
老婦人にもきつく手を握って諫められている。何で? 何が? ああ、父と母が、生前のような綺麗な姿で──。
そう思って彼岸花の向こうを見やると、透垣の向こう、遠くの山が、いつの間にか雲の影を払って明るく輝いていた。高い空のどこかで、のどかな鳥の声。
「……今、そこに俺の両親が」
力が抜けて座り込みそうになっる。そんな俺の背中を、阿加井さんが抱くように支え、老婦人が手を引いて、元の四阿に連れて行き、座らせてくれた。俺、いつの間にここを出て、あんな彼岸花畑の傍まで行ってたんだろう……?
「せっかくだから、何でも屋さんも一服いかがです?」
「いや、でも……こんな格好じゃ……」
誘ってもらえてうれしいけれど、汗かいてるし、軍手だって草の汁と泥まみれだし……。
「手なら、そこの
指されたほうを見ると、石を刳り貫いて作られた水鉢に、真新しい柄杓が添えてある。きれいなそれを汚れた手で触ることを躊躇していると、阿加井さんが柄杓を取って俺の手を流してくれた。
「ありがとうございます」
「いえいえ。正式な茶会でもなし、こんな庭の端の四阿で、格好を気にすることはありませんよ。さ、どうぞ」
恐縮しながら四阿に向かうと、そこには聞いたとおり先客があった。一日早く来たというその人は、既に供されていたお茶を手にしながら、軽く会釈してくれた。
「すみません、こんな格好で……」
さらに恐縮してしまう。だってその人はとても威厳のある老婦人だったんだ。九月も下旬だけどまだまだ暑いというのに、きっちりと和服を召している。
茶碗を置いた老婦人はゆったりと微笑んで俺の言葉を受け取ると、あとはただ黙って静かに彼岸花を眺めていた。
風の音、たまに聞こえる車の音も、鳥の声と大差ない。静かで騒がしい山の中と同じように、いろんな音が風に混じって聞こえてきて、それ故にすべてが遠いような……。
揺れる赤い花たちを見ながら、彼女は誰にともなく呟いた。
「今年も、会えないようですわね」
ただ確認するためだけに、発した言葉。
「そうですか」
立てたお茶を、俺に渡してくれながら、事務的に応える阿加井さん。
「冷たいわね」
「私は期待しておりませんのでね」
淡々としたやり取りのあと、二人はまた沈黙する。会えないって、他の招待客のことかな、と思ったけれど、なんとなく違うような気がした。
他に会話はなく、彼らはただ彼岸花を眺めている──いや、その向こうの透垣の、さらにその向こうを見ているんだろうか?
静かな時間が過ぎる。時折交わされる二人の会話は、言葉だけだと友好的とはいえないけれど、刺々しいわけではなく、いたたまれない雰囲気とかそういうのではない。何となく、俺はこの場を辞すための言葉を見つけられず、この人たちは何か同じものを待っているのかもしれないと、ぼんやりとそんなことを思っていた。
透垣の向こうは、遠くに霞む山。雲の影か、今はその半分が暗く沈み、その半分がくっきりとした輪郭を見せている。空が高くて、眩しくて──。
「え……」
知らず、俺は声を漏らしていた。
「父さん?」
俺が中学生の時に死んだはずの父が、生前の姿のまま彼岸花の波の向こうに立っている。
「母さん?」
気づくと、母もその隣に立っている。二人は、微笑んでいた。九九をうまく言えるようになったとき、自転車に乗れるようになったとき。本当にうれしそうに笑ってくれた。子供の成長を見守り、喜ぶ、その親の顔。
「え、なんで……」
父も母も、薬物中毒者に殺された。逃げてきたその男の、子供もろとも惨殺されてしまったんだ。犯人は心神喪失ということで措置入院になったと聞いたけど、そいつのその後のことなど知らない。両親の、あの無残な姿を覚えてる。双子の弟と、ただ身を寄せ合って手と手を握り合い、必死で正気を保ったあの日──。
「父さん、母さん!」
必死になって呼ぶと、二人は少し困ったような顔になった。こっちに来てはダメだというように、首を振る。
「なんで! 俺もそっちへ! ── だって」
弟の名を口にして、俺は軽く混乱した。だって、弟は、ああ、弟も死んだんだ。麻薬を憎んで警察官になって、捜査の途中で襲われ刺され、血まみれになって……。
あの時の胸の痛み。弟が心臓を刺されたであろう、あの瞬間に感じた、命を切り取られるような痛み。
「 」
弟の名前。
「 」
弟の名前を呟いた。
と。
──ダメだよ、兄さん
「え?」
声、声が。弟の──
「何でも屋さん!」
気づくと、俺は阿加井さんに羽交い絞めにされていた。
「ダメよ」
老婦人にもきつく手を握って諫められている。何で? 何が? ああ、父と母が、生前のような綺麗な姿で──。
そう思って彼岸花の向こうを見やると、透垣の向こう、遠くの山が、いつの間にか雲の影を払って明るく輝いていた。高い空のどこかで、のどかな鳥の声。
「……今、そこに俺の両親が」
力が抜けて座り込みそうになっる。そんな俺の背中を、阿加井さんが抱くように支え、老婦人が手を引いて、元の四阿に連れて行き、座らせてくれた。俺、いつの間にここを出て、あんな彼岸花畑の傍まで行ってたんだろう……?