第47話 合歓の木の夢 3
文字数 1,811文字
何それ怖い。思わずそそけ立つ二の腕を気にしている間も、店主は続ける。
「手も足も自分のものじゃないみたいに重たいし、このまま行き倒れて死んでしまうのかと、そう思った時、その人はようやく気づいたんだ。これはひだる神に取り憑かれたんだと」
ひだる神は、一説によると餓死した人の霊だという。あるいは、旅の途中で横死した人の。その無念の思いが怨霊となって通りかかる者に取り憑き、自分と同じ目に遭わせて取り殺そうとするのだそうだ。
「ひだる神に取り憑かれた時の対処法は決まってる。口に何か食べ物を入れるんだ。そうすれば身体が動くようになり、命が助かる。その人の場合、いつもお守り代わりに小さいおむすびを腰に付けたポーチに入れてたから、何とかそれを取り出して口に入れ、ゆっくりと噛み締めた。そうしているうちに、嘘のように怠さが着え、身体が動くようになったという」
「……」
俺は背筋を慄かせた。そ、そんなことが本当にあるのか? お伽噺というか、ただの怪談じゃなくて……? いや、でも──。
「俺、今日は町から出てませんよ?」
そんな恐ろしげなもんに出会うようなとこに行ってないぞ。山登りなんかしてる暇無いし。
「ひだる神は、何も山にしかいないわけじゃないんだよ、何でも屋さん」
店主の表情は硬かった。
「野にも、山にも海にも。田舎でも都会でも。人のいるところには、必ずひだる神が潜んでる。一瞬の隙を見せたばかりに、取り憑かれてしまうんだ……」
──それって、もしかしたらこの店の中にもいるかもしれないってこと?
そういう気持ちをこめて店主を見つめるも、店主もただ黙って俺の顔を見ているだけだ。
カッチカッチカッチ……
古時計の音が響いてる。店の中の、あの鬼神像や、仏像、布の掛かった姿見。和裁の裁縫箱や、縮緬細工の蛙、金具が鈍く光る飴色の姫箪笥、透かし細工の櫛。あっちの隙間やこっちの暗がり、そっちの影から今にも何かが飛び出して来そうな気がして、俺は無言になった。
置かれてる品物も怖いし、黙ってしまった店主も怖い。
久しぶりに物凄く怖いよ、慈恩堂……!
「……」
と、店主が急に下を向いた。え、何? ひだる神が憑いたのか? 俺のが取れたら店主に移った?
声も出せずに心の中で慌てふためいていると、店主の肩が震え出した。そういえば、店主はまだ丁稚羊羹を食べてない……! これは、早く食べさせないと! そう思い、ちゃぶ台の上に手をつけずに置かれてる皿を取って手渡そうとしたら。
「ぶはっ! ははははは!」
笑い出した。え、何?
「本当に、もう。何でも屋さんたら脅かしがいがあるなぁ」
さっきまでとの落差が激しすぎて、俺はフリーズしてしまった。脅かしがいがある、ってことは──、さっきのひだる神の話は嘘ってこと?
「……作り話で俺をからかったんですか?」
怒っていいやら、呆れていいやら。何だか馬鹿らしくなった。手当てしてもらったけど、これじゃあ心理的貸し借りプラマイゼロだ。いや、感謝はしてるよ? 美味しいお菓子も食べさせてもらったし。でも、こんなに笑われると、さすがに俺でもさ?
「いや、ごめんごめん。そんなに冷たい目で見ないで」
真夏だけど凍りそうだよ、とまだ店主はふざけたこと言ってる。
「ホント、ごめんなさい。からかったのは本当だけど、ひだる神は嘘じゃないよ。あれはね、低血糖のことなんだ」
いきなりオカルトと全然関係の無さそうな単語が出てきて、俺は「へ?」と呟いていた。多分、すごく間抜けな顔になってたと思う。
「──低血糖?」
繰り返すと、店主は頷いた。
「さっき話した顧客の体験談みたいに、山登りで急に動けなくなるのはね、血糖値が下がり過ぎるからだって、今では解明されてるんだよ」
「……物の怪みたいなのじゃなくて?」
「昔はそんなふうになる理由が分からないから、ひだる神だとか超自然なものだとして恐れられたんだろうね。だけど、実際に何か食べ物を口にすれば症状が治まるところからしても、低血糖が原因だと科学的に説明出来るんだよ」
俺を安心させるためか、店主はしきりに「超自然的なものとは違うんだ」と説明するんだけど、でも。
「俺、今日も朝はちゃんと食べたし……、今までも昼が遅くなるようなことは何度もあったけど、今回みたいなことは無かったですよ」
「手も足も自分のものじゃないみたいに重たいし、このまま行き倒れて死んでしまうのかと、そう思った時、その人はようやく気づいたんだ。これはひだる神に取り憑かれたんだと」
ひだる神は、一説によると餓死した人の霊だという。あるいは、旅の途中で横死した人の。その無念の思いが怨霊となって通りかかる者に取り憑き、自分と同じ目に遭わせて取り殺そうとするのだそうだ。
「ひだる神に取り憑かれた時の対処法は決まってる。口に何か食べ物を入れるんだ。そうすれば身体が動くようになり、命が助かる。その人の場合、いつもお守り代わりに小さいおむすびを腰に付けたポーチに入れてたから、何とかそれを取り出して口に入れ、ゆっくりと噛み締めた。そうしているうちに、嘘のように怠さが着え、身体が動くようになったという」
「……」
俺は背筋を慄かせた。そ、そんなことが本当にあるのか? お伽噺というか、ただの怪談じゃなくて……? いや、でも──。
「俺、今日は町から出てませんよ?」
そんな恐ろしげなもんに出会うようなとこに行ってないぞ。山登りなんかしてる暇無いし。
「ひだる神は、何も山にしかいないわけじゃないんだよ、何でも屋さん」
店主の表情は硬かった。
「野にも、山にも海にも。田舎でも都会でも。人のいるところには、必ずひだる神が潜んでる。一瞬の隙を見せたばかりに、取り憑かれてしまうんだ……」
──それって、もしかしたらこの店の中にもいるかもしれないってこと?
そういう気持ちをこめて店主を見つめるも、店主もただ黙って俺の顔を見ているだけだ。
カッチカッチカッチ……
古時計の音が響いてる。店の中の、あの鬼神像や、仏像、布の掛かった姿見。和裁の裁縫箱や、縮緬細工の蛙、金具が鈍く光る飴色の姫箪笥、透かし細工の櫛。あっちの隙間やこっちの暗がり、そっちの影から今にも何かが飛び出して来そうな気がして、俺は無言になった。
置かれてる品物も怖いし、黙ってしまった店主も怖い。
久しぶりに物凄く怖いよ、慈恩堂……!
「……」
と、店主が急に下を向いた。え、何? ひだる神が憑いたのか? 俺のが取れたら店主に移った?
声も出せずに心の中で慌てふためいていると、店主の肩が震え出した。そういえば、店主はまだ丁稚羊羹を食べてない……! これは、早く食べさせないと! そう思い、ちゃぶ台の上に手をつけずに置かれてる皿を取って手渡そうとしたら。
「ぶはっ! ははははは!」
笑い出した。え、何?
「本当に、もう。何でも屋さんたら脅かしがいがあるなぁ」
さっきまでとの落差が激しすぎて、俺はフリーズしてしまった。脅かしがいがある、ってことは──、さっきのひだる神の話は嘘ってこと?
「……作り話で俺をからかったんですか?」
怒っていいやら、呆れていいやら。何だか馬鹿らしくなった。手当てしてもらったけど、これじゃあ心理的貸し借りプラマイゼロだ。いや、感謝はしてるよ? 美味しいお菓子も食べさせてもらったし。でも、こんなに笑われると、さすがに俺でもさ?
「いや、ごめんごめん。そんなに冷たい目で見ないで」
真夏だけど凍りそうだよ、とまだ店主はふざけたこと言ってる。
「ホント、ごめんなさい。からかったのは本当だけど、ひだる神は嘘じゃないよ。あれはね、低血糖のことなんだ」
いきなりオカルトと全然関係の無さそうな単語が出てきて、俺は「へ?」と呟いていた。多分、すごく間抜けな顔になってたと思う。
「──低血糖?」
繰り返すと、店主は頷いた。
「さっき話した顧客の体験談みたいに、山登りで急に動けなくなるのはね、血糖値が下がり過ぎるからだって、今では解明されてるんだよ」
「……物の怪みたいなのじゃなくて?」
「昔はそんなふうになる理由が分からないから、ひだる神だとか超自然なものだとして恐れられたんだろうね。だけど、実際に何か食べ物を口にすれば症状が治まるところからしても、低血糖が原因だと科学的に説明出来るんだよ」
俺を安心させるためか、店主はしきりに「超自然的なものとは違うんだ」と説明するんだけど、でも。
「俺、今日も朝はちゃんと食べたし……、今までも昼が遅くなるようなことは何度もあったけど、今回みたいなことは無かったですよ」