第44話 藤の蔓 後編
文字数 2,632文字
ドキドキドキ。何か怖い。聞くのが怖い。でも、聞かなければ聞かないで、それはそれでまた怖い。
「いつ、誰が始めたことなのか、それは知りません」
相反する思いに引き裂かれ(大袈裟だな)、内心で身悶える俺のムンクな精神状態に気づくこともなく、住職は続ける。
「ただ、昔から言い伝えられているのですよ。『どうしても亡骸が燃えない時は、藤の蔓を一緒に燃やせ。そうすれば、亡骸は燃えて無事お骨になることが出来る』とね」
「何でですか?」
何ゆえ、藤の蔓?
「分かりません」
住職は首を振る。
「分かりませんが、ご遺体がどうしても燃えきらない時、言い伝えの通りにすると、本当にそれまでが嘘であったかのように、無事に燃えてきれいにお骨になるのです」
「えっと……」
俺は回らない頭で考えた。ともすればフリーズしそうになる頭で考えた。
「さっきの葬儀社の方が、わざわざこちらに藤の蔓をもらいに来たっていうことは……」
「久しぶりに、どうしても燃えないご遺体が出たということでしょう。あんなに慌てていたところを見ると、よほど時間が押していたんでしょうな。火葬場も、日によってはかなりな過密スケジュールになるようですから」
そういえば、この暑いのにあの人、真っ青な顔してたなぁ……。
「その、無事に燃えるんでしょうか」
住職は頷く。
「燃えるでしょう。藤の蔓が効かなかったという話は、これまで聞いたことがありませんから」
最終兵器ってか、リーサルウェポンみたいなもんなんだろうか。
……藤の蔓が?
何だかやっぱりアンビリーバボーです、住職。
「そうそう、今度五十年を勤める檀家の安倍さんのご母堂の時も、丸一日掛けても燃えず、藤の蔓を使ったと先代から聞いてます」
「そ、そうなんですか……」
いや、まあ、この場合は燃えた方がいいんだよな。燃やしてるのに燃えない方が怖いよな。
「それは、やっぱりこちらの藤の木から切ったものなんですか?」
そう訊ねながら、照りつける太陽の下、かすかな風にさわさわと身を揺らす豊かな緑の蔓を見やる。明るい風景なのに、何となく妖しく思えてくるのは気のせいだと思いたい。
「ええ。当時、五本くらい切って窯の火にくべたそうですよ。普通は一本で充分らしいのですがね」
「それって、この藤でないとダメなんですか?」
「いえいえ、そんなことはありません。山に自生してる藤の方がいい、という人もありますが、基本、どこに生えているどんな種類の藤でもよろしいようです」
「そこの公園の藤棚のでも?」
「はい。大丈夫だと思いますよ。でも、公共の場のものを勝手に切るわけにはいかないでしょう」
「ああ! 桜の枝だって勝手に切ったらそりゃ犯罪ですもんね」
俺の間の抜けた発言に、住職は少し笑った。
ま、いいですけどね。日常から掛け離れた奇怪な話だから、当たり前の常識にすぐ気づかなかっただけなんですよ……。
「それに、曲がりなりにも寺の境内に生えている藤の木ですから、仏様の慈悲がこもっているということで、必要な時にはうちに来られることが多いですね」
うーん、そりゃ、小さな、公園とも呼べないようなところで手入れもあまりされずに放置されてるような藤の木より、お寺の藤の木の方がご利益ありそうだよな。
「えーと、もしかして、こういうことかと思うんですけど──」
俺は考え考え、住職に訊ねてみた。
「なんて言うのかな、例えば、樹齢何百年の大木を切り出して運ぼうとしたら、押しても引いても動かなかったのに、酒を供えて手を合わせてお願いしたら、それまでのことが嘘みたいに簡単に運び出すことが出来たとか、霊柩車のエンジンが急にかからなくなって困った時、故人と親しかった人がお棺を撫でたら普通に動き出したとか、そういう話ありますよね」
「はい、ありますね」
「藤の蔓もそういうことなんでしょうか、つまり、その、うまく言えないんですけど、納得してもらうっていうか、諦めてもらうっていうか、そのままでいてもしょうがないですよ、っていうメッセージっていうか」
だんだん自分でも何を言ってるのか分からなくなってきたけど、住職は頷いてくれた。
「そうですね、そうかもしれません。蔓は先だけ切り取るわけですから、それが<断ち切る>という呪(しゅ)になるのかもしれませんね。俗世の未練から」
「……」
俗世の未練、か。そうだよなぁ、やり残したこととか、残していく家族のこととか考えたら、すっぱり断ち切るのも難しいよな。
俺だって、もし今死んだら。
娘のののかのこととか、ののかのこととか、ののかのこととか心配でたまらないと思う。元妻にも幸せになってもらいたいし、元義弟の智晴だってあの年でまだ独身だから気になるし。よく散歩に行くグレートデンの伝さんや、将棋大好きの降旗さんや、いつも買い物を頼んでくれる田中のお婆ちゃんや、よく漬物くれる商店街のお玉さんや……。
あああ、心残りがいっぱいだ。
そんなことを考えてたら。
ざああっ、と突風が吹いて、境内の木々の梢が揺れた。さわさわ、ざわざわ。葉擦れの音が、話し声みたいに聞こえる。いやいやそんなはずないよな、と頭を振って、何の気なしに藤棚の方を見やった時。
俺は凍りついた。
緑の葉を色濃く纏った藤の枝が、風に揺れている。ゆらゆら、ゆらゆら、まるで俺を手招きするように。
と。
バシッ!
「あいてっ!」
住職に肩を叩かれた。かなり強く叩かれたんだと思う。痛い。つい涙目になって振り返ると、住職はじっと俺の目を見て、言った。
「いけませんよ、魅入られては」
困ったような顔で微笑んでいる。
「こんな明るすぎる日は、却って心に隙が生じるようですね」
へ? どういうこと?
えっと……何だったんだろ? 頭のどこかがちょっと白くて……。
「大丈夫ですよ、あなたは。心配することなど何もありません」
「はあ……」
「きっと、あなたには藤の蔓は必要ありません。大丈夫」
そっか。俺、大丈夫なのか。
って、何が大丈夫なんですか、住職!
釈然としないながらも、休憩を終えて俺はまた草むしりの仕事に戻った。縁側は涼しかったけど、日の遮るもののない庭はやっぱり暑い。
また風が渡って、藤の蔓が揺れる。その葉陰が、妙に小暗く見えたのはきっと気のせいなんだろう。
「いつ、誰が始めたことなのか、それは知りません」
相反する思いに引き裂かれ(大袈裟だな)、内心で身悶える俺のムンクな精神状態に気づくこともなく、住職は続ける。
「ただ、昔から言い伝えられているのですよ。『どうしても亡骸が燃えない時は、藤の蔓を一緒に燃やせ。そうすれば、亡骸は燃えて無事お骨になることが出来る』とね」
「何でですか?」
何ゆえ、藤の蔓?
「分かりません」
住職は首を振る。
「分かりませんが、ご遺体がどうしても燃えきらない時、言い伝えの通りにすると、本当にそれまでが嘘であったかのように、無事に燃えてきれいにお骨になるのです」
「えっと……」
俺は回らない頭で考えた。ともすればフリーズしそうになる頭で考えた。
「さっきの葬儀社の方が、わざわざこちらに藤の蔓をもらいに来たっていうことは……」
「久しぶりに、どうしても燃えないご遺体が出たということでしょう。あんなに慌てていたところを見ると、よほど時間が押していたんでしょうな。火葬場も、日によってはかなりな過密スケジュールになるようですから」
そういえば、この暑いのにあの人、真っ青な顔してたなぁ……。
「その、無事に燃えるんでしょうか」
住職は頷く。
「燃えるでしょう。藤の蔓が効かなかったという話は、これまで聞いたことがありませんから」
最終兵器ってか、リーサルウェポンみたいなもんなんだろうか。
……藤の蔓が?
何だかやっぱりアンビリーバボーです、住職。
「そうそう、今度五十年を勤める檀家の安倍さんのご母堂の時も、丸一日掛けても燃えず、藤の蔓を使ったと先代から聞いてます」
「そ、そうなんですか……」
いや、まあ、この場合は燃えた方がいいんだよな。燃やしてるのに燃えない方が怖いよな。
「それは、やっぱりこちらの藤の木から切ったものなんですか?」
そう訊ねながら、照りつける太陽の下、かすかな風にさわさわと身を揺らす豊かな緑の蔓を見やる。明るい風景なのに、何となく妖しく思えてくるのは気のせいだと思いたい。
「ええ。当時、五本くらい切って窯の火にくべたそうですよ。普通は一本で充分らしいのですがね」
「それって、この藤でないとダメなんですか?」
「いえいえ、そんなことはありません。山に自生してる藤の方がいい、という人もありますが、基本、どこに生えているどんな種類の藤でもよろしいようです」
「そこの公園の藤棚のでも?」
「はい。大丈夫だと思いますよ。でも、公共の場のものを勝手に切るわけにはいかないでしょう」
「ああ! 桜の枝だって勝手に切ったらそりゃ犯罪ですもんね」
俺の間の抜けた発言に、住職は少し笑った。
ま、いいですけどね。日常から掛け離れた奇怪な話だから、当たり前の常識にすぐ気づかなかっただけなんですよ……。
「それに、曲がりなりにも寺の境内に生えている藤の木ですから、仏様の慈悲がこもっているということで、必要な時にはうちに来られることが多いですね」
うーん、そりゃ、小さな、公園とも呼べないようなところで手入れもあまりされずに放置されてるような藤の木より、お寺の藤の木の方がご利益ありそうだよな。
「えーと、もしかして、こういうことかと思うんですけど──」
俺は考え考え、住職に訊ねてみた。
「なんて言うのかな、例えば、樹齢何百年の大木を切り出して運ぼうとしたら、押しても引いても動かなかったのに、酒を供えて手を合わせてお願いしたら、それまでのことが嘘みたいに簡単に運び出すことが出来たとか、霊柩車のエンジンが急にかからなくなって困った時、故人と親しかった人がお棺を撫でたら普通に動き出したとか、そういう話ありますよね」
「はい、ありますね」
「藤の蔓もそういうことなんでしょうか、つまり、その、うまく言えないんですけど、納得してもらうっていうか、諦めてもらうっていうか、そのままでいてもしょうがないですよ、っていうメッセージっていうか」
だんだん自分でも何を言ってるのか分からなくなってきたけど、住職は頷いてくれた。
「そうですね、そうかもしれません。蔓は先だけ切り取るわけですから、それが<断ち切る>という呪(しゅ)になるのかもしれませんね。俗世の未練から」
「……」
俗世の未練、か。そうだよなぁ、やり残したこととか、残していく家族のこととか考えたら、すっぱり断ち切るのも難しいよな。
俺だって、もし今死んだら。
娘のののかのこととか、ののかのこととか、ののかのこととか心配でたまらないと思う。元妻にも幸せになってもらいたいし、元義弟の智晴だってあの年でまだ独身だから気になるし。よく散歩に行くグレートデンの伝さんや、将棋大好きの降旗さんや、いつも買い物を頼んでくれる田中のお婆ちゃんや、よく漬物くれる商店街のお玉さんや……。
あああ、心残りがいっぱいだ。
そんなことを考えてたら。
ざああっ、と突風が吹いて、境内の木々の梢が揺れた。さわさわ、ざわざわ。葉擦れの音が、話し声みたいに聞こえる。いやいやそんなはずないよな、と頭を振って、何の気なしに藤棚の方を見やった時。
俺は凍りついた。
緑の葉を色濃く纏った藤の枝が、風に揺れている。ゆらゆら、ゆらゆら、まるで俺を手招きするように。
と。
バシッ!
「あいてっ!」
住職に肩を叩かれた。かなり強く叩かれたんだと思う。痛い。つい涙目になって振り返ると、住職はじっと俺の目を見て、言った。
「いけませんよ、魅入られては」
困ったような顔で微笑んでいる。
「こんな明るすぎる日は、却って心に隙が生じるようですね」
へ? どういうこと?
えっと……何だったんだろ? 頭のどこかがちょっと白くて……。
「大丈夫ですよ、あなたは。心配することなど何もありません」
「はあ……」
「きっと、あなたには藤の蔓は必要ありません。大丈夫」
そっか。俺、大丈夫なのか。
って、何が大丈夫なんですか、住職!
釈然としないながらも、休憩を終えて俺はまた草むしりの仕事に戻った。縁側は涼しかったけど、日の遮るもののない庭はやっぱり暑い。
また風が渡って、藤の蔓が揺れる。その葉陰が、妙に小暗く見えたのはきっと気のせいなんだろう。