第296話 疫喰い桜 10
文字数 2,566文字
「うわ」
一番近いところに見えていた花びらに“鬼”が数匹、ひょいっと取りついたと思ったら、カメラのシャッターが閉まるように花びらが閉じて、しゅるん! と内側に消えていった。なんだか食虫植物みたい……っていうか、カメレオンが虫を捕食する様子のほうに、もっと似ているかも──。
静から動へ、異様に長い舌を鞭のように伸ばし、獲物を一瞬で捕らえて口の中へ。限界まで伸ばしたゴムが、手を離したとたんすごい勢いで戻るみたいに。
「……」
そんなふうに思ってしまうと、もうダメだった。疫喰い桜の花のひとつひとつが、カメレオンのピンクの舌を伸ばしたやつにしか見えなくなってしまい、直視するのがさらに辛くなる。虹色油膜の照りも、徐々にきつくなってくるように思えて……。
なのに、眼を逸らすことができなかった。逸らしたら、あのつやつやした花がにゅっと伸びてきて、ほっぺたあたりに吸いつかれそうで、とにかく見ているしかできなかった。
「ほっほっほ。疫喰い桜め、張り切っているようだ。“欲”を貪るのが大好きだからねぇ。貪欲な鯉の性ならば、なおさら貪るだろう。全ての“欲”を、欲が固まった“鬼”を貪りつくすまで」
面白くて楽しくて仕方ない、そんな気持ちを隠すことなく全開で、真久部の伯父さんが語る。
「どうだね、何でも屋さん。こういう花見は? なかなか他所では見られないだろう」
機嫌よく問われても、俺には返す言葉も思いつかない。
しゅっ、ひゅるん。しゅっ、ひゅるん。数えきれないほどの花が、数えきれないほどの“鬼”を捕らえて内へ内へと引っ込んでいく。無数の花、無数の“鬼”。
星の数ほど、砂の数ほど。
多すぎて、意味がわからないほど多すぎて、たくさん、たくさん──。
……
……
そうして、どれほどの時間が経ったのか、俺は眼を開けたまま意識を失っていたに違いない。何故なら、あれほど大きく広がっていた、世界樹のように巨大な疫喰い桜の姿が、いつの間にか普通サイズに縮んでいたんだ。普通の、っていうのも変だけど、とにかく普通の大木サイズになっている。
「ま、真久部さん。あれ、あれ、」
何で小さくなったんですか、と聞きたいのに、口がうまく動いてくれない。
「ふふ、あれだけいた“鬼”を喰らい尽くすとは──。見事なものだ、疫喰い桜。本性に忠実なお前は、本当に美しいよ」
美しい……?
「う……」
美しいか、美しくないか、その二択なら、美しいと言おう。だけど──。
「こってりを通りこして、あぶらっこくないですか……」
ふわふわとした薄紅の花満開の桜樹を彩る、ギラギラでツヤツヤでテッカテカのオーラ。なんていうの? 普通の桜が楚々とした乙女ならば、この疫喰い桜は脂ぎった中年のオッサン。そんな感じ。
「なんか……ぬらぬらしてるような気もします……」
綺麗だけど、美しいけど──ごめん、キモチワルイ。
「それがこやつの魅力なんだよ」
薄い笑みで、伯父さん。
「普通でないだろう?」
「ええ」
こんなのが普通の桜に混ざって、どっかの川辺で咲いてたら……たぶん、無意識に遠巻きにしてると思う。
「他にこんな桜はない。特別だ。そして、特別ゆえに価値があると感じる者がいる。他よりも尊いと」
「……」
ええ~? と上がりかかった声を堪える。尊いとは、俺には思えないけど──、つまりは好みの問題ってことだよな。
そんなことを考えて心を落ち着かせていると、疫喰い桜のまとう輝きが、こってりツヤリとはためくように揺れた。何だろう、俺にアピールしてるのかな? アイツ。でも、ああいうの、慈恩堂の古道具たちで慣れてるから……。
知らんふりしとこ。
──伯父さんは、そんな俺を面白そうに観察してる。探るような眼で。
「あれは、伐り倒された当時の姿だ。可哀想に、満開のときに伐られたらしいよ」
「そ、そうなんですか。さすがに、花くらいはせいいっぱい咲かせてやりたかったですね」
花の盛りに強制終了とは、無慈悲に過ぎやしないだろうかと、憐れむ気持ちくらいはあるよ、真久部の伯父さん。
「どうかなぁ? その春、花が咲き出してから、丑の刻参りが続けさまに五件あったと聞いているしねぇ」
「ご、五件」
ってことは、短期間に五人もいたってことだよな、そんな外法に手を染めるほど誰かを恨んだ人が。バッティングしなかったのかな。丑の刻参りは、他人に現場を見られたら呪いが成就しないというから、先客と後から来たのとで「見たなぁ!」「見たがどうした、邪魔だ!」とかバトッたりとか……。
「極めつけが首吊り未遂でねぇ。この木はいけない、一刻も早く伐らなければ、となったそうだよ」
マスク越しにもわかるくらい、ニィッと唇の両端を吊り上げて、俺の反応をうかがう意地悪な薄いオッドアイの瞳。黒褐色と榛色、甥っ子の真久部さんと同じ。でも、そっちの真久部さんとは違い、奥に熾火のような小暗いきらめきを宿しているように見える、どこか疫喰い桜の輝きにも似た、薄暗い──。
「未遂、だったんですよね? いや、まさか、それまでもそういうことが──?」
いかんいかん。呑まれては。知らないよ、伯父さんの趣味嗜好なんか。俺はあなたの理解者になれないよ、あなたの甥御さんと同じく。
ふ、とスタイリッシュ仙人は息をつき、怪しい笑みを収めた。普通の怪しさになっただけだけど。
「──いや、そっちは初のことだったらしいな。もしも完遂されていたなら、アレはさらに力をつけていただろう。だからまあ、潮時だったというわけさ。そのまま放置すれば、ドロドロと怨念を抱いた者たちを誘いに誘って、早晩、世の理から外れるような存在になっていただろうからなぁ」
「……」
あの真っ黒い小さな“鬼”みたいになった人たちが、うようよと、ハエのように……。なんか、南のほうにそういう花があったな。ハエたちに大人気らしい──。
「さ、桜界の、ラフレシア」
つい、連想してしまった。そしてうっかりこぼした言葉に、伯父さん大ウケ。そんな、咳き込むほど笑わなくても。あ、涙まで拭いてる。
「やれやれ、今日一番の大笑いだ。何でも屋さんは本当に楽しい人だねぇ。あの子が気に入ってるのもわかるよ」
──甥っ子のほうの真久部さんが気に入ってくれているのは、俺が慈恩堂の店番をできる貴重な存在だからだよ。ご本人がそう言ってる。笑いは求められてないと思う……たぶん。求められてない、はず。
一番近いところに見えていた花びらに“鬼”が数匹、ひょいっと取りついたと思ったら、カメラのシャッターが閉まるように花びらが閉じて、しゅるん! と内側に消えていった。なんだか食虫植物みたい……っていうか、カメレオンが虫を捕食する様子のほうに、もっと似ているかも──。
静から動へ、異様に長い舌を鞭のように伸ばし、獲物を一瞬で捕らえて口の中へ。限界まで伸ばしたゴムが、手を離したとたんすごい勢いで戻るみたいに。
「……」
そんなふうに思ってしまうと、もうダメだった。疫喰い桜の花のひとつひとつが、カメレオンのピンクの舌を伸ばしたやつにしか見えなくなってしまい、直視するのがさらに辛くなる。虹色油膜の照りも、徐々にきつくなってくるように思えて……。
なのに、眼を逸らすことができなかった。逸らしたら、あのつやつやした花がにゅっと伸びてきて、ほっぺたあたりに吸いつかれそうで、とにかく見ているしかできなかった。
「ほっほっほ。疫喰い桜め、張り切っているようだ。“欲”を貪るのが大好きだからねぇ。貪欲な鯉の性ならば、なおさら貪るだろう。全ての“欲”を、欲が固まった“鬼”を貪りつくすまで」
面白くて楽しくて仕方ない、そんな気持ちを隠すことなく全開で、真久部の伯父さんが語る。
「どうだね、何でも屋さん。こういう花見は? なかなか他所では見られないだろう」
機嫌よく問われても、俺には返す言葉も思いつかない。
しゅっ、ひゅるん。しゅっ、ひゅるん。数えきれないほどの花が、数えきれないほどの“鬼”を捕らえて内へ内へと引っ込んでいく。無数の花、無数の“鬼”。
星の数ほど、砂の数ほど。
多すぎて、意味がわからないほど多すぎて、たくさん、たくさん──。
……
……
そうして、どれほどの時間が経ったのか、俺は眼を開けたまま意識を失っていたに違いない。何故なら、あれほど大きく広がっていた、世界樹のように巨大な疫喰い桜の姿が、いつの間にか普通サイズに縮んでいたんだ。普通の、っていうのも変だけど、とにかく普通の大木サイズになっている。
「ま、真久部さん。あれ、あれ、」
何で小さくなったんですか、と聞きたいのに、口がうまく動いてくれない。
「ふふ、あれだけいた“鬼”を喰らい尽くすとは──。見事なものだ、疫喰い桜。本性に忠実なお前は、本当に美しいよ」
美しい……?
「う……」
美しいか、美しくないか、その二択なら、美しいと言おう。だけど──。
「こってりを通りこして、あぶらっこくないですか……」
ふわふわとした薄紅の花満開の桜樹を彩る、ギラギラでツヤツヤでテッカテカのオーラ。なんていうの? 普通の桜が楚々とした乙女ならば、この疫喰い桜は脂ぎった中年のオッサン。そんな感じ。
「なんか……ぬらぬらしてるような気もします……」
綺麗だけど、美しいけど──ごめん、キモチワルイ。
「それがこやつの魅力なんだよ」
薄い笑みで、伯父さん。
「普通でないだろう?」
「ええ」
こんなのが普通の桜に混ざって、どっかの川辺で咲いてたら……たぶん、無意識に遠巻きにしてると思う。
「他にこんな桜はない。特別だ。そして、特別ゆえに価値があると感じる者がいる。他よりも尊いと」
「……」
ええ~? と上がりかかった声を堪える。尊いとは、俺には思えないけど──、つまりは好みの問題ってことだよな。
そんなことを考えて心を落ち着かせていると、疫喰い桜のまとう輝きが、こってりツヤリとはためくように揺れた。何だろう、俺にアピールしてるのかな? アイツ。でも、ああいうの、慈恩堂の古道具たちで慣れてるから……。
知らんふりしとこ。
──伯父さんは、そんな俺を面白そうに観察してる。探るような眼で。
「あれは、伐り倒された当時の姿だ。可哀想に、満開のときに伐られたらしいよ」
「そ、そうなんですか。さすがに、花くらいはせいいっぱい咲かせてやりたかったですね」
花の盛りに強制終了とは、無慈悲に過ぎやしないだろうかと、憐れむ気持ちくらいはあるよ、真久部の伯父さん。
「どうかなぁ? その春、花が咲き出してから、丑の刻参りが続けさまに五件あったと聞いているしねぇ」
「ご、五件」
ってことは、短期間に五人もいたってことだよな、そんな外法に手を染めるほど誰かを恨んだ人が。バッティングしなかったのかな。丑の刻参りは、他人に現場を見られたら呪いが成就しないというから、先客と後から来たのとで「見たなぁ!」「見たがどうした、邪魔だ!」とかバトッたりとか……。
「極めつけが首吊り未遂でねぇ。この木はいけない、一刻も早く伐らなければ、となったそうだよ」
マスク越しにもわかるくらい、ニィッと唇の両端を吊り上げて、俺の反応をうかがう意地悪な薄いオッドアイの瞳。黒褐色と榛色、甥っ子の真久部さんと同じ。でも、そっちの真久部さんとは違い、奥に熾火のような小暗いきらめきを宿しているように見える、どこか疫喰い桜の輝きにも似た、薄暗い──。
「未遂、だったんですよね? いや、まさか、それまでもそういうことが──?」
いかんいかん。呑まれては。知らないよ、伯父さんの趣味嗜好なんか。俺はあなたの理解者になれないよ、あなたの甥御さんと同じく。
ふ、とスタイリッシュ仙人は息をつき、怪しい笑みを収めた。普通の怪しさになっただけだけど。
「──いや、そっちは初のことだったらしいな。もしも完遂されていたなら、アレはさらに力をつけていただろう。だからまあ、潮時だったというわけさ。そのまま放置すれば、ドロドロと怨念を抱いた者たちを誘いに誘って、早晩、世の理から外れるような存在になっていただろうからなぁ」
「……」
あの真っ黒い小さな“鬼”みたいになった人たちが、うようよと、ハエのように……。なんか、南のほうにそういう花があったな。ハエたちに大人気らしい──。
「さ、桜界の、ラフレシア」
つい、連想してしまった。そしてうっかりこぼした言葉に、伯父さん大ウケ。そんな、咳き込むほど笑わなくても。あ、涙まで拭いてる。
「やれやれ、今日一番の大笑いだ。何でも屋さんは本当に楽しい人だねぇ。あの子が気に入ってるのもわかるよ」
──甥っ子のほうの真久部さんが気に入ってくれているのは、俺が慈恩堂の店番をできる貴重な存在だからだよ。ご本人がそう言ってる。笑いは求められてないと思う……たぶん。求められてない、はず。