第64話 秋の夜長のお月さま 2

文字数 2,129文字

鏡のように静まり返った水の面に、木の葉が一枚落ちたくらいの波紋。ゆらり、ゆらゆら。透明な湖の底から眺める月のような……。

あれ、俺、今どこにいたっけ?

思わず周囲を見回すと、月に照らされて相変わらずの白い道、尻の下には固い感触。さっき道端の石に座ったままだ。不思議に思って首を捻っていたけど、あることに気づいてハッとした。

虫の声が聞こえない。

さっきまであんなに賑やかだったのに。そういえば、しーんとした時に聞こえるような耳鳴りすら聞こえない。

「……」

話に聞く、宇宙空間てこんな感じなんだろうか。昔観た映画を思い出す。反乱を起こした宇宙船のコンピュータに、宇宙服を着ただけの生身のまま外へ放り出され、星の輝き以外何も無い空間に漂い出て……。

いや、まさか。ここは普通に地球は日本の田舎の地面。さっきまで俺そこ歩いてた。

空を見上げると、円い月。手に持ったままの煙草の煙がかすかに棚引いてる。何だかおかしな感じだけど、とりあえず、店主の指示を守って煙草をもっとふかせることにした。

──それにしても、月が明るい。街灯も無いこんな道で、全てがはっきり見える。万年筆書きの店主の指示書どころか、文庫本の活字ですら読むのに苦労しなさそうだ。

そんなことを思いながらぼーっと煙を吹いていると、パシャっと水のはねるような音がした。それから、水の流れる音。

え?

驚いているあいだにも、さらさらと涼しげな水音は響く。さっきまでの無音の世界のどこかに、小さなせせらぎが生まれたみたいだ。

月光が揺らぐ。月のおもてに光がはねる。

ああ、そうか。これは月の光が空を流れる音なんだ。銀の砂をまき散らすみたいに、淡く光りながら風とともにさらさらと流れていく。見惚れていると、すいっと何かの影がよぎった。あれ、魚? 尾ひれが透明で、時々銀色に光る。

月光に満たされた風の中を、銀色の魚が泳ぐ。すいすいととても気持ち良さそうだ。時々跳ね上がり、とてもきれいな鈴のような水音をたてる。

 ぱしゃん しゃららん

遊んでるみたいだ。いいな、俺も空を泳いでみたい。そんな馬鹿なことを思った時、ふと違和感に気づいた。身体が動かない?

何だこれ。外で、座ったまま金縛り? 嘘だろ?

そう思いたいけど、指先すらぴくりとも動かない。──どうしよう? 焦りかけたけど、空を泳ぐ魚は風と月光の中で楽しそうだ。

ま、いいか。

何故か、そんなふうに思った。見てるだけでもきれいだし、魚が身を翻すたび、空気が澄んでくるみたいで心地いい。煙草の煙も月の光に溶けるみたいに……。

ん? 煙草。

いかん、金縛られてる場合じゃない。根元まで燃えたら指、火傷する。嫌だ、起きて目まで開けてるのに、寝煙草でセルフ小火なんて!

「……!」

動かなきゃ。早く、早く。だけどどうしたら……。店主! 煙草吸えっていうから吸ってみたけど、こんな妙な金縛り……。

立ち上る煙だけがゆらゆらと動いてる。ゆらゆら、ふらふら。そんな煙が重なり重なり、スクリーンみたいに……。あれは、影? いや、映像だ。──誰だ、あの間抜け面は? 俺だ。同じ服着てる。ってことは、スクリーンじゃなくて鏡……?

あっちの俺も、片手に煙草を持ったまま固まっているかと思いきや、ゆらゆらふらふら踊り始めた。何だあれ? 盆踊り……いや、どじょうすくいか? 安来節? 股関節に厳しそうな踊りだな。足先で隠れているドジョウを探って、笊を──って、あ、泥が跳ねた。顔を拭う仕草。

獲ったドジョウを魚篭に入れて──って、エア笊にエア魚篭なのに、何なんだあれ、ちゃんと持ってるみたいに見える。すごい。いや、でもホント、誰なんだあれ。俺、なのか? だけど俺、どじょうすくいなんて踊ったこと無いぞ。顔がそっくりだからって、死んだはずの弟でもない。見れば分かる。

「……」

道端で座ったまま金縛りに遭ってる俺が、元気にどじょうすくいを踊ってる俺を見てる。シュールだ。

固まったまま、動けないことも忘れて唖然とそれを見ていると、いきなり寒気がした。

「……」

怖い。何か分からないけどすごく怖い。さっきまでの金縛りは単に身体が動かないってだけだったけど、今は身体がずっしりと重い。重くて苦しい。脂汗がにじむ。怖い。重い。──怖い……。

まるで鏡に囲まれた四六の蝦蟇(ガマ)のように、たらーりたらりと脂汗を流す俺。その目の前で、<俺>は暢気にどじょうを掬いまくってる。ヤツは全然何も感じてないみたいだ。俺はこんなに怖いというのに、ヤツめ、どういうつもりだ。

わけの分からない恐怖と、八つ当たりじみた怒りに震えていると、今もドジョウを捕まえて、そいつに逃げられるところを踊っている<俺>の足元に、黒い影が湧き出してきたのに気づいた。

ドロリとしたタールのような、粘っこい影。生き物のように伸び縮みするさまに、得体の知れないおぞましさを感じる。胃が恐怖のあまりひっくり返りそうだ。頭が痛い。酷い耳鳴りがする。──<俺>は足元に這い寄る混沌に気づいていない。

おい、逃げろ!

心の中で、俺は<俺>に叫んだ。  
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