第31話 コンキンさん 3 

文字数 3,029文字

 ぼばっぶぼっぶぶぼっぼっぼっぶっぶっぼっばっ


道路の緩いスロープの向こうから現れたのは──、同じ車だと思うんだけど、なんだろう……初めに見た時はツヤツヤピカピカ、まるでゴキ、いや、その、お台所のあの害虫の羽根のように滑らかな輝きを放っていたのに、今は……。

過酷なパリ・ダカールラリーから辛くも生還した車体のように、砂埃だの何だので薄っすらと汚れている。今日は一体何千キロ走行したんだ? って聞きたくなるくらい。

俺が唖然と見ていると、


 ぼっばっばっぼぼっぼすっべこんべこん


何とか普通に走っているように見えていた車が、俺の目の前で


 べこんばすんべこんべこん


ついにそのエンジンを止めてしまった。

うぃーんと運転席側の窓が開き、そこから若い男が顔をのぞかせる。染めすぎて艶を無くしたパサパサの髪が不潔っぽい。

「な、なあアンタ、さっきもここに居なかったか?」

上擦った声。問い掛けてくる、その顔色は悪い。

「……」

周囲は見渡す限り丈高い草叢の、似たような風景だ。だから、この男からすれば俺が最初の場所から動いていないように見えても不思議じゃない。でも、どう説明すればいいかなぁ。

「なあ!」

俺が悩んでいると、焦れたように声が大きくなった。こんな車に乗ってるようなヤツはすぐ暴力に訴えるイメージがある。喧嘩売られたらやだなぁ……。

「君がペットボトル捨てた時に居た場所は、ここじゃない。あっちに向かって百メートルほどだよ」

俺は東の方向を指差した。大して離れてない。車ならすぐだ。

「こっから百メートル……」

男は呟いた。

「百メートルどころか、もっともっと走ってるよ! 何でどこにも着かないんだよ! 景色がずっと同じなんだ……」

おかしなことを言う男に、俺は首をひねった。

「え? この道を行ったり来たりしてるだけだったじゃないか、君。そりゃ景色も変わらないよ」

「そんなはず……」

「いやいや、ずっとこの車のエンジンの音が聞こえてたよ。うるさ、いや、特徴的だからすぐ分かる」

俺は道路の先を指で示した。

「俺が最初にこの車を見た時、ペットボトルポイ捨てして向こうの方に走って行った。俺はそのまま草を掻き分けて奥に分け入ったんだけど、しばらくしたらまた同じエンジン音が聞こえてきた。だから、戻ってきたんだと思ってた。それがまたもや遠ざかったと思ったら、同じようにまた近づいてきて……わざわざ行ったり来たりしてると思ってたんだけど、違うのかい?」

「違ぇ! そんなことしてねぇ……!」

男はハンドルに伏せて、わめいた。

「俺は、ずーっとずーっと真っ直ぐに走ってたんだ。Uターンなんかしてねぇ! 脇道も曲がり角も無かった。ずっと同じ道を走ってたんだよ! それなのに……なんでだよ……!」

何でと言われても……。

「居眠り運転してたんじゃないのか?」

あるいは、おかしなドラッグ、とか? うわあ。事故ったらどうするんだよ。

「ギンギンに眼開いてたよ。居眠ってなんかいねぇ!」

それに、俺は酒とタバコ以外はやらない主義だ、と男は胸を張った。

「そ、それは立派な心掛けだね。だけど、本当にずっとこの車のエンジン音が前の道を行ったり来たりしてたんだけどな──」

俺はうーん、と唸りながら答えを求めて空を見た。そこには白い綿を敷き詰めたみたいな雲が一面に広がってるだけだ。ところどころ薄く光る、明るい雲。色んな色調の緑に覆われた初夏の山が良く映える……。

あ!

「もしかしたら、あの道を走ってたんじゃないか? ほら、えーっと何だっけ、あそこの何とかスカイライン」

俺は、風にざわめく草原(くさはら)と疎らな木々の向こう、だんだんと林になり森になり、山になってる辺りを指さした。

「あそこの山肌に道路があるのが見えるだろ? ジグザグになってる。傾斜が急なんだろうな」

ああいうの、スイッチバックっていうんだっけ? 確か。

「あの道を走ったんなら、右から左へ、左から右へ、長い距離を走りながら上るわけだから、エンジン音が行ったり来たりしているように聞こえても不思議じゃないと思う。あっちは山で、こちら側は開けてるから、音もよく響くだろうし」

わざわざ煩くなるように改造してあるエンジンならば、この一帯に響き渡るんじゃないか? 自分の名推理(?)にひとり納得していると、男が言った。

「俺、山道なんか走った覚えない」

「いや、だけど、Uターンとかしてないって言ってたよね」

「してない! してないけど、山道を走ったっていうなら、どうして周りの景色が変わらなかったんだよ……ずっと、ずーっと、道の両側は草しか無かった」

「……」

うーん、ジグザグ・スカイラインを上って下りて、逆の方からまたこの道に戻ってきたんだと思ったけど、違うんだろうか。

他に考えられる可能性としては……。

「スピード出しすぎて、ランナーズハイならぬ、ドライバーズハイになってたんじゃないか? 脳内麻薬のせいで記憶があやふやなのかも」

それだと半分寝てるみたいなもんだし、と続けると、男は首を振った。

「そんなわけ……」

言葉では否定しかけるが、声に力が無い。俺はふう、と溜息をついた。

「まあ、事故ったわけでもないし、何だっていいんじゃない? ただ、今後は気をつけたほうがいいと思う。幸運は毎回続かないから」

そうでないと、目を開けたまま電信柱に突っ込むことになるよ、と俺は男を諫めた。

「で、俺に何か用?」

道でも聞きたかった? と訊ねてみる。ま、そうなんだろうけど。道に迷ったら、そこにいる人に聞くのが一番早いもんな。ちゃんと目を開けてたら迷いようもない一本道なんだけどさ。

「そうじゃねぇ……いや、そう、だったのかな。対向車にも全然会わなかったし、アンタ以外に人影も見つからなかったし」

そりゃこんな畑も田んぼも無い野っ原に、普通は滅多に人はいないわな。煩い改造車ドライバーには好感持てないけど、これだけ憔悴してたら仏心のひとつも湧いてくるってもんだ。だから、「ちょっと車を脇に寄せて、降りて外の空気でも吸ってみれば」と提案しようとしたところで、その音が聞こえた。


 コーーォン
 コキーーン


びくっとした男が、辺りを見回そうとする。

「な、何だ、この音」


 コーーーーン
 コーォォォン


どこから聞こえてくるのか分からない。


 コーーーーォンーンーン
 コキィィィーーーーィンンン


空は相変わらず明るい曇り空で、丈高い草叢を渡る風は強い。
だけど──


 コォォーーーォォォンーーンーーンン
 コキィィィーーーーーーィィンンンンンン


まるで風を薙ぎ払うかのように、音が迫ってくる。乾いた硬い木を打ちつけるような、音の狂った木琴を力任せに叩いているみたいな──

聞いたことのない音にびくつきながら、不安そうに目をきょろきょろさせている男を、俺は車から引き摺り出した。突然のことに抗議する男を無視して、腕を掴んだまま走る。普通だったら俺よりガタイのよさそうな若い男を、その意志を無視して引っ張って走るなんて無理だ。これが火事場の馬鹿力ってやつか。

そんなどうでもいいことが頭をかすめたが、とにかく夢中で俺は祠を目指して走った。
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