024 __________________ ‐3rd part‐
文字数 1,470文字
セイレネスというブランド名は、言及するまでもなくデザイナー僊河青蓮に由来していて、素直にセイレーンのギリシャ語読み。
英語だとサイレン、スグにパトカーや救急車を連想しがちだけれど、元元は航海用の船上や港内で使われた強力な音響装置を指したワードだ。
シチリア島に近いアンテモッサ島に住んでいた河の神アケロオスの娘たちセイレーンが、魅惑的な歌声で乗組員を誘惑し、船を座礁させたことから転じて、警戒信号の呼び名になった。
だから、人魚伝説へと発展したり、船の進路の邪魔になるマナティなど大型の水生哺乳類もセイレーンと呼ばれる。
サンショウウオの仲間にもセイレーンの名が付くモノがあるらしい。
そしてセイレーンは、二人から八人と必ず複数で出現するために、本場ではセイレネスと複数形で表される。
神話に登場する怪物という存在は、神や英雄の対極にある悪だ。
それが鎮圧や封印、退治されることは、調和のある人間本来の世界の維持であり、回復を意味する。古代ギリシアではそう考えられていた。
知性や理性の象徴である神や英雄が、怪物、つまり本能剥き出しの暴慢な力を打ち負かすメタファーとなっていて、それはまた精神分析的に、止所 ない人間のesを超自我が押さえ込むことであると解釈されているという説まである。
だ・か・らっ、右脚に怪鳥セイレーンを従えるジーンズは、その危険で魅惑的な異能を封じ込め、穿く者がその勢威を恩借できるなどとこじつけられたって次第。
当然その姿が右の膝下に多く残っている方がありがたいわけで、虎の威を借るじゃないけれど、ヴィーみたいな同じ人類とはとても思えない魑魅魍魎どもの急襲を無難に往なすため、オレには絶大な魔除けが必要なんだ。
セイレネスのジーンズは、オレにしてみればメデューサの首が飾られたアテナの盾、ヘラクレスが着ているネメアのライオンでつくった皮衣と同じ……。
「大丈夫かい? 水埜君」
その問いかけに視軸を上げれば、オレはムッシューから優しげな眼差しを注がれていた。
「あっ、いえ別に……」
赤面してくるのがわかる。
そりゃ、いつまでも物欲しそうに他人の脚を見つめていれば誰だって訝しがる。それでも救われたのは、こんな時と場合だからに相違なかった。
「わかるよ。誰かに縋って泣きたくなるくらいの美声だものね。ウン、僕でよければかまわないから……泣ける時には泣いておかないと、それだけで不幸が上塗りされてしまうからね」
そう言って、ムッシューは続いている佳音の発生源、ユールの方へと向きなおる。
オレに
オレのまだ赤いだろう額は、冷や汗まで噴き出してきた。
「いや、あの、オレはぁ、そのセイレネスの、ですね……」
不謹慎だってことは百も承知、でもムッシューの
ところがムッシュー、「セイレネス……そうか。あのコは、まさに純真でありながら抗い難い魔性の歌姫。奇にして妙な符合だね」などと、前髪の奥の目を細めて独り勝手に納得しだしてくれるあり様。
……ムッシューも、混乱した意識を、一度そのまま口に出してしまわなくてはならないほどに、ユールの歌唱力に魅了されていたんじゃなかろうか?
オレもとり敢えずそれ以上は語らず、そろそろとこの場から退座させてもらうことにした。
もう、とてもじゃないけれど居た堪れない。
英語だとサイレン、スグにパトカーや救急車を連想しがちだけれど、元元は航海用の船上や港内で使われた強力な音響装置を指したワードだ。
シチリア島に近いアンテモッサ島に住んでいた河の神アケロオスの娘たちセイレーンが、魅惑的な歌声で乗組員を誘惑し、船を座礁させたことから転じて、警戒信号の呼び名になった。
だから、人魚伝説へと発展したり、船の進路の邪魔になるマナティなど大型の水生哺乳類もセイレーンと呼ばれる。
サンショウウオの仲間にもセイレーンの名が付くモノがあるらしい。
そしてセイレーンは、二人から八人と必ず複数で出現するために、本場ではセイレネスと複数形で表される。
神話に登場する怪物という存在は、神や英雄の対極にある悪だ。
それが鎮圧や封印、退治されることは、調和のある人間本来の世界の維持であり、回復を意味する。古代ギリシアではそう考えられていた。
知性や理性の象徴である神や英雄が、怪物、つまり本能剥き出しの暴慢な力を打ち負かすメタファーとなっていて、それはまた精神分析的に、
だ・か・らっ、右脚に怪鳥セイレーンを従えるジーンズは、その危険で魅惑的な異能を封じ込め、穿く者がその勢威を恩借できるなどとこじつけられたって次第。
当然その姿が右の膝下に多く残っている方がありがたいわけで、虎の威を借るじゃないけれど、ヴィーみたいな同じ人類とはとても思えない魑魅魍魎どもの急襲を無難に往なすため、オレには絶大な魔除けが必要なんだ。
セイレネスのジーンズは、オレにしてみればメデューサの首が飾られたアテナの盾、ヘラクレスが着ているネメアのライオンでつくった皮衣と同じ……。
「大丈夫かい? 水埜君」
その問いかけに視軸を上げれば、オレはムッシューから優しげな眼差しを注がれていた。
「あっ、いえ別に……」
赤面してくるのがわかる。
そりゃ、いつまでも物欲しそうに他人の脚を見つめていれば誰だって訝しがる。それでも救われたのは、こんな時と場合だからに相違なかった。
「わかるよ。誰かに縋って泣きたくなるくらいの美声だものね。ウン、僕でよければかまわないから……泣ける時には泣いておかないと、それだけで不幸が上塗りされてしまうからね」
そう言って、ムッシューは続いている佳音の発生源、ユールの方へと向きなおる。
オレに
いつ悲啼してもいいぞっ
といった具合に、恰も自然な流れを装ってくれたようだけれど……完全な誤解だ。オレのまだ赤いだろう額は、冷や汗まで噴き出してきた。
「いや、あの、オレはぁ、そのセイレネスの、ですね……」
不謹慎だってことは百も承知、でもムッシューの
さあ
、早く来たまえ
、僕の肩で思いきり泣きなさい
といった空気に堪えられなくなって、ここは本心をバラすのが得策との判断なのだけれど。ところがムッシュー、「セイレネス……そうか。あのコは、まさに純真でありながら抗い難い魔性の歌姫。奇にして妙な符合だね」などと、前髪の奥の目を細めて独り勝手に納得しだしてくれるあり様。
……ムッシューも、混乱した意識を、一度そのまま口に出してしまわなくてはならないほどに、ユールの歌唱力に魅了されていたんじゃなかろうか?
オレもとり敢えずそれ以上は語らず、そろそろとこの場から退座させてもらうことにした。
もう、とてもじゃないけれど居た堪れない。