早摘みベリーのバブルガム【魔】

文字数 3,088文字

ない。

ない。

ない。

ないないない。

 デスクの上にあるはずのものがない。それどころか、デスク周辺がきれいに片付いているのだ。昨日まではありとあらゆるものが散乱し、目も当てられないくらいに散らかっていたはず。書類、ペン、蓋がどこかにいった胃薬。その他諸々がきちんと整理整頓されていた。おまけにデスクはぴかぴかに磨かれていて、とても気持ちよかった。
「おかしいですね。昨日はこんな状態じゃなかったはずなのですが……」
 目の下にくまを作った冥界の苦労人─オルプネーは何度も何度も今の状況を確認した。闇のように深く暗い髪に深淵の中灯る紫焔色の瞳、スリットの入ったドレスに少し高めのヒールをこつこつと鳴らし自分の作業するデスクを見て頭を傾げていた。自分の記憶が確かなら、昨日も長時間書類チェックをしていた。サインに漏れはないか、持ち込まれた書類に訂正する箇所はないかとか。無造作に置かれた書類ラックには文字通り山となってそれらが積み重なっていて、終わりなど見えない状態だった。そんなことを何度も何度も繰り返し、遂に空になった胃薬は数えきれない数となっていた。数えるのも億劫になっていて半ば無意識で作業をしていて、オルプネーは書類の山を大きな声をあげながら崩した。

 宙を舞う紙なんて知ったことか。こんな職場で長い間書類処理ばかりしていたら気持ちが滅入るのも上は知っているはずなのに、それらの改善が一向に見えない。そりゃあこうもなりますとも。ええ。なりますとも。床に書類が落ちようが、ペンが落ちようが、胃薬が飛び散ろうが気にしてたまるか。

 その時のオルプネーは今までで一番、感情を露わにした。散らばった書類などには見向きもしないで自分の部屋に戻り、惰眠を貪ろうとベッドに入って戻ってきたら……昨日見た光景とは全く違っていたというわけだ。
「これは……一体どういうことなのかしら。シャドウワーム」
 手を軽く叩き従者であるシャドウワームを呼び出し、この状況を知っているかと尋ねると低く唸って答えた。どうやら知らないようだ。シャドウワームも知らないとなると、これは他をあたるしかないと思い、オルプネーは書類提出の遅刻常習者の元へと向かった。

「ガルム君。いますか。いるならちょっと聞きたいことがあるのですが……」
 冥界の城の中でいると思われる場所に赴くも、目的の人物であるガルムには会えなかった。昼寝好きでサボり癖のある獣人ガルム。本来は冥界の門を守っているはずなのだが、じっとしているのが苦手な彼は気が付いたらどこかへふらふらと行ってしまう。門番もできない、書類の提出期限を守らない、その上字が汚いと散々オルプネーを困らせているのだがこの際頼らずにはいられない。息を切らせながら居そうな場所を探すこと数十分。気持ちよさそうに眠っているガルムを見つけた。ようやく見つけた安堵感から足の力が抜けそうになるのを堪え、オルプネーはガルムに声をかけた。
「ガルム君。ガルム君。寝ているところで申し訳ありません。教えてほしいことがあります」
「ん~……なぁに……むにゅむにゅ」
 目を擦りながら起きたガルムの意識はまだぼんやりとしていて、発せられた言葉には眠気を感じさせる程だった。
「ごめんなさい。教えてほしいことというのは、私のデスク周辺にあった書類の行方なのです」
「しょるい……あぁ、散らばっていたやつかな……」
「そうです。何か知っていますか」
「あぁ……あれならハデス様に提出しておきましたよ~。期日が近いものもあったのでぇ……」
 その時、オルプネーは耳を疑った。いつも書類を忘れるし不備だらけのガルムの口からハデス様に直接書類を提出した……と。まさかと思ったオルプネーはもう一度同じことを尋ねるも、答えは同じだった。それも種類毎にきちんと分けて提出したと付け加えられ、ますますオルプネーは信じられなかった。でも、今はその発言を信じることにし、今度はハデスに確認をしなくてはと思い、オルプネーはガルムにお礼を言いその場を後にした。

 ハデス。この冥界を統べる王であり、オルプネーの上司でもある。言ってもいいなら劣悪な環境改善を訴えている相手でもある。強面ではあるが、実は奥さんであるペルセポリスには頭があがらないという噂がどこかで流れていたような気がする。そんな人物に会うのも慣れているオルプネーはハデスのいる部屋の扉を軽くノックした。しばらくして中から「入れ」と低い声が聞こえたのを確認し、扉を押し開けた。
「失礼します」
 闇そのものを纏いつまらなそうに頬杖をつきながらオルプネーを見ている人物─ハデス。下級の悪魔であれば目を合わせることもできず、その圧倒的な魔力の前に気絶をしてしまう。いや、気絶で済むならまだ可愛い方かもしれない。最悪、その実態がなくなってしまうかもしれない。
「オルプネーか。何用だ」
「はい。以前、ハデス様から頼まれていた書類なのですが……ガルム君がこちらへ持っていったと聞きまして。確認に参りました」
「書類……? あぁ、これか。全部綺麗にまとまっていて見やすかったぞ。よくやった」
「……え?」
「それとだな。お前は前から劣悪な環境にうんざりしていると言ってた件だが、近く改善案が通りそうだ。だから、それが通るまでの間だけ辛抱してもらえないか」
「……え?」
 怒られる覚悟で聞いてみたのが、思わぬ返答にオルプネーは戸惑ってしまった。それも前から訴えていた労働環境を改善してくれるだなんて……オルプネーは言葉に詰まりながら聞き返した。
「え……そ、それは本当……ですか?」
「ああ。もちろんだ。時間がかかってしまって申し訳なかった」
「そ……そんな。ありがとうございます……」
 本当だと返事を貰い、オルプネーは嬉しさのあまり涙を流した。それを見たハデスはオルプネーの涙を拭い何度も謝罪をした。

 最終的な確認も取れ、オルプネーは自室に戻るとそこは今まで見たことのないくらいに事務要因が並んでいた。デスクも今までよりも大きく、作業がしやすくなっていた。書類を積むラックも従来のものよりも大きくなり、引き出しタイプから深い箱のタイプに代わり、上から入れれば自然と古い書類から出せる仕様になっていた。そのほかにも事務作業に必要なものが揃っていることにオルプネーは感極まった。チェアの座り心地も今までのよりもふかふかしていて長時間座っても疲れにくいものへと変わっていてそれにも感動していた。
 そしてなにより。ガルムだけでなく食欲旺盛なモルモーも事務作業を手伝ってくれるという今まででは考えられないくらいに事務作業が捗った。それらが手伝ってか書類の山はあっという間になくなり、どのくらいぶりに見るだろう未処理の書類がゼロとなった光景にオルプネーは満足そうに溜息を吐いた。
「いつもこのくらい捗ればいいんですけどね……でも、これからは……あぁ、とっても楽ちんです」
 仕事終わりにお茶を啜りながらオルプネーは呟いた。






「うふふ。いつも忙しいあなたにほんのちょこっとだけご褒美の夢をみせてあげる」
 群青色の山羊角の悪魔─リリープは小さく息を吹いた。そこから生まれるシャボン玉に映るオルプネーに向かって小さくウインクをした。本来は夢で惑わして楽しむのだが、これも何かの気まぐれかリリープはそんな彼女に今までの正反対の夢を見させていた。
「たまにはこういうのも悪くないんじゃないかしら? うふふ。目が覚めるまでの間だけど、気に入ってくれるといいんだけど」
 リリープはオルプネーが映ったシャボン玉が割れるまで満足そうに微笑みながら眺めていた。
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