闇の淑女 フランボワーズタルト【魔】

文字数 7,044文字

「追えー! まだ近くにいるはずだ! 絶対に逃がすな!」
 大柄の男たちが必死に何かを追っている。それは金品などではなく、おそらく人物。逃げられたことが相当頭にきているのか、その集団の頭は歯ぎしりをしていた。
「ボス、この近くくまなく探しましたがどこにもいませんでした」
「くそう……あいつ、どこへ行きやがった。ならば、この街周辺を虱潰しだ」
「わかりました」
 部下に指示を出し、頭はあれこれ作戦を考えてみるも、効果的なものに至らず更に歯ぎしりをする。たまりかねた部下の一人が懐から葉巻を取り出し、頭に差し出すと嫌な顔をしながらも受け取り、くゆらせる。ふうと吐くそれは吐息なのか煙なのかはわからない。しかし、さっきまでイライラしていた気持ちを少しだけ抑えることだけはできた。葉巻を咥え、頭は寒い街を大股で歩いた。

「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……こ、ここまでくれば……大丈夫……かしら……」
 既に限界を超えているはずなのに、それでも走っている女性がいた。彼女の名前はオスティー。肩や背中が見える大胆な装い、ふわりとしたドレープスカートに色鮮やかな羽根つきの帽子、胸元には完熟したブドウのような宝石、身なりはぱっと見いいところのお嬢様といったところだろうか。そんな彼女がなぜ逃げているのか。それは彼女自身もきちんと把握していないのだが、予想が正しければ彼女の父がお見合いと称し彼女をどこかに売り払ってしまおうとしていた。父親の引き出しの中には契約書や取引日時などが書かれた書類も見つかっている。父親のことを慕っていた彼女にとってその衝撃は計り知れない。そして、その晩。オスティーはただで逃げるのではと思い、自室にあった母の形見である宝石だけを持って出ることにした。数か月前に他界してしまった母は、困ったときにはこの箱を持っていきなさいと引き出しから小さな箱をオスティーに渡すと、その数時間後に息を引き取った。悲しみに開けていたオスティーに更なる悲劇─それが父親による人身売買の話である。オスティーはその箱を取り出し宝石を身に着けて静かに脱走を企てる。ちょうど窓から部屋を出たときだった。乱暴に開けられた先から出てきたのは父親だった。そして、その背後には見たことのない屈強な男の人が立ち人に対してはもちろん、その空間にすら威圧感を与えていた。
「おい、オスティー。出てこい! 出て……あれ……あいつ、逃げやがったな」
 窓が半開きになっているのに気が付いた父親が怒鳴っているのを気にしている暇もなく、オスティーは全速力で自宅から遠ざかる。運動はてんでダメな彼女にとって生きるか否かの瀬戸際、胸が苦しくなっても息が切れそうでも走れるだけ走って、とにかく家から遠ざかることだけを考えていた。
「そんな……お父様……お父様まで……」
 裏路地で息を潜めている間、ふと思い出した父親の裏切り行動にオスティーは涙を流していた。もちろん、声を出してしまっては見つかってしまう危険が高くのはわかっている。わかっているが、涙はそう簡単に止まってはくれなかった。
「いたぞー! ここだぁ!」
 ふいに男の人の声が聞こえたオスティーは、すぐに足を動かした。まだ十分に回復していないのだけど、おとなしく捕まるつもりは毛頭ない。涙を拭うのを忘れ、オスティーはまた走り出した。今は生き延びなくては。その思いだけが彼女の足を動かしていた。

「え……そんな……」
 入り組んだ裏路地を走り、辿り着いた先は行き止まりだった。すぐに引き返そうと振り返るも、既に追手が迫ってきていて万事休す。
「へっへっへ……もう逃げられないぜ……お嬢さん」
「さぁ、おとなしくこっちへ来てもらおうか。傷つけたらお頭うるさいんでね」
「……っ!」
 オスティーは無意識に母の形見である宝石を握りしめた。すると、宝石からどろりとした気体が溢れ、少しずつ形成していく。
「な……なんだ……」
「え……なんなの……」
 形成し終えたそれは、まるでオスティーの分身だった。違うところといえば、体はチリのような物質なのだがそれでいて漆黒を纏っている。目は真っ赤に燃える太陽のような輝きを放っているところだろうか。
「…………」
 分身のオスティーが本体のオスティーの前に立ちはだかる。まるで本体のオスティーを守るかのように。お互いに何が起こっているかわからない中、最初に動いたのは男の方だった。
「なんだか知らねぇが、来ねぇならこっちからいくぜ」
 男が拳を振り上げ、分身のオスティーに殴りかかろうとしたとき、男は分身のオスティーに吸い込まれてしまった。囚われた男は声をあげていたのだが、次第にその声も闇の中へと吸い込まれ、そこには何も残らなかった。
「な、なんだそれ……逃げろ!」
「ま、待ってくれよ!」
「…………!」
 分身のオスティーは逃げた男を追いかけ、背中に触れた。触れられた二人は何かに引っ張られるようにしながら分身のオスティーの中へと引きずり込まれていった。
「…………」
 一体何が起こったのか……気が動転している中、必死に頭を働かせる。確か、母の形見であるこの宝石を握ったら……この化け物みたいなものが現れて、あの人たちをやっつけちゃった……?? そんなことが起きてしまうの? わからない……。
「…………」
 頭の中で整理をしても上手くまとめることが叶わぬまま、分身のオスティーは宝石の中へと戻っていった。しんと静まり返った裏路地にオスティーの息遣いだけが聞こえる。
「……でも、この力を借りれば……きっと逃げ切れるわよね……」
 母の形見をぎゅっと握り、小さく頷くと増援が来る前にもっと遠くへ逃げようと自身に言い聞かせた。

路地裏を抜け、見通しのいい街道に出た。見通しがよければ自分の居場所もわかってしまうというリスクはあるものの、そこを抜けないと先へは進めない。呼吸を整え、なるべく足を早く動かして移動していると物陰から二人の男が現れた。突然のことに驚くオスティーを男たちは逃がさなかった。
「さぁ、おとなしくしてもらおうか」
「は……離してください!」
「暴れても無駄だよ。ここは誰も通らないからね」
 両脇をがっちりと抑えられてしまい、宝石に触れることができないオスティーはとにかく暴れることしかできなかった。
(誰か! 誰か助けて!!)
 オスティーは口元までも抑えられ、声を発することもできない状態ではあるが最後の最後まで抵抗を試みた。
「…………」
「な、なんだこいつ……う、うわぁ! く、くるなぁ!!!!」
「こ、こっちくるな!! ああぁぁぁ!!」
 急に拘束感がなくなったことに違和感を覚えたオスティーは目を開くと、さっきまでオスティーを拘束していた男は消え失せており、代わりにあの分身のオスティーが音もなく佇んでいた。
「ま……まさか……あなた……」
「…………」
何も言わずとも、なんとなくオスティーはこの分身が言っているのがわかる。どうやらこの分身はオスティーが危険なときに現れるらしい。声を発さずとも現れ守ってくれる存在だと再確認したオスティーは分身の自分にお礼をした。
「助けてくれてありがとう」
「…………」
 分身はまたオスティーの胸元の宝石の中へと戻り、辺りはまた静けさを取り戻した。
「このあたりは人通りがない……皮肉ね。それはあなたたちにも言えることなのに」
 既にいなくなった男たちに言われた言葉を返すと、オスティーはまた歩き出した。

「だいぶ遠くまで来たと思うけど……」
 どのくらい移動したかもわからないが、ひとまず見知った場所ではないことであることを確認すると、オスティーは手近なベンチに腰を下ろし、空を見上げた。屋敷を出たときは真っ暗だったのに、今は朝を告げようとしていた。もうそんなに時間が経っていたのかと驚きつつも、なにより腰を落ち着かせて休めたことに一番驚いていた。
「私、よくここまで走ってこれたわね……」
 屋敷で走ることなんて滅多にないのに、まさか命を狙われてこんなに走ることになるなんて……。そこでまた思い出されるのは父親のこと。なぜ父親はそこまでしなくてはいけないのだろう……その理由を探すにも今はもう聞けない。聞こうものなら捕まってしまうのがおちである。
「でも、この力を使えば話してくれるかしら……」
 胸元で光る宝石を見つめながらオスティーは呟いた。確かにこの力を使えば話してくれるかもしれない。でも、それが真実ある証拠がない以上は鵜呑みにすることはできない。結局、諦めるしかないという結論に至ったオスティーは立ち上がり軽く伸びをし、緊張をほぐす。
「この先に街があればいいのだけれど……」
 あるかどうかもわからないまま歩くのは不安だが、何もしないよりはましだと考えるようにし、朝日を全身に浴びながら再び歩き出す。

「よかった。街があった。それに港もあるからここから船に乗れば……」
 オスティーの歩いた先には港町があった。少し寂れてはいるものの、海の男たちによる活気のいい声はオスティーの心を弾ませた。ずらりと並んだ海産物、フルーツ、野菜とまるでマルシェのような賑わいにオスティーはなんだか嬉しくなってきていた。
 まだ生きている海産物が並ぶお店に立ち寄ったオスティーは、足を止めてその生き物をじっと見つめていた。すると、そこへ低い声の男性が近付いてきた。
「いらっしゃい! 新鮮な海産物はどうだい?」
「あ……ええっと……」
「他にも俺が仕入れた各国のアクセサリーもあるぜ」
 白髪が目立つも、年齢を感じさせない筋肉質な男性に圧倒されながら、オスティーは言葉を選んでいる。それでもお構いなしに男性は続ける。
「お嬢ちゃんならこれがいいんじゃねぇか」
 そういって選んでくれたのは金色のブレスレットだった。派手な色味ではあるがオスティーの服装を見てちゃんと選んでいるのがわかる。実際に装着してみると、そこまで突出して輝かず静かな装いだった。
「……きれい」
「いいねぇ。その反応。選んだ甲斐があるってもんよ」
「あ……あの。お代は……」
「あ? ああ。いいって。お嬢ちゃんのその顔見てたら……その……なんだ。代金なんて取れねぇ……サービスだ」
「え……いいのですか?」
「ああ。男に二言はねぇ。来てくれてありがとな!」
 豪快な物言いで少し驚いたが、とても優しいと感じたオスティーは深くお辞儀をし、別れを告げる。男性もオスティーに軽く手を振り見送った。
「……なんか、悪いことしちゃったかしら……」
 男性がくれたブレスレットを見ながらオスティーは呟く。しんみりしていると、オスティーの横を乱暴に通り過ぎる人影にぶつかる。よけきれずよろけるオスティーを見たさっきの男性は、すぐ介抱に駆け付けた。
「お、お嬢ちゃん。大丈夫かい」
「え、ええ。ありがとうございます」
「おや。あなたがそんなにお優しいだなんて知りませんでしたよ。ネルソン」
「……ベルファスト」
 ぶつかってきた男性─ベルファストと呼ばれた男性は、ネルソンと違い真っ黒な髪に右目付近につけたモノクル越しに商売相手に冷ややかな視線を送る。さっきまで穏やかだったネルソンの声色は一気に低くなりベルファストを睨む。
「おい……このお嬢ちゃんは関係ねぇだろ。それに、ぶつかったのはお前だ。謝るのが当然だろう」
「何を言っているのです。この女性はブレスレットを見つめたまま立ち止まっていたのですよ。それも私の進路上にね」
「それはお前は悪い。お嬢ちゃんに謝れ」
「嫌ですね」
 ぎりりと睨み合う二人にどうしていいかわからなくなったオスティーの目に、あまり見たくないものが映ってしまう。
「ごめんなさい。失礼します」
 その場から逃げたオスティーの背を見つけた男たちは一斉に追いかける。あともう少しでここから離れられるというのに……オスティーは歯がゆい気持ちのまま港町を駆け抜ける。

「あいつ……どこへ行きやがった」
「確か、こっちに逃げたのが見えました」
「逃がすなよ」
 複数の男たちが会話をしているそのすぐ背後で息を潜めているオスティー。さっき思いついたことが使えるかもしれないと思い、もう少しだけなりを潜める。
「あ、いたぞ! あそこだ!」
 タイミングを見計らい、飛び出したオスティーを数人の男たちが追いかけてくる。オスティーは背後を何度も確認し状況を確認していく。うん。これならいけるかもしれない。
 広い通路に出て、作戦を始める。きっとこれなら……と成功することを祈りながら……。
「よおし。ようやく観念したか……」
「さっさと捕まっていればいいものを」
 手を嫌らしく動かしながら男たちはオスティーに近付き、あと数歩のところで確実に捉えられるタイミングでオスティーからオスティーの分身へと変わった。
「な……なんだ……!!」
「あっ……!!!」
「くそ! 罠か!」
 追ってきた男たち全員をうまく騙すことに成功したオスティーは、ほっと胸を撫で下ろした。今のうちに船に乗り込んでしまいたいのだが……うまくいくかはまだわからない。まずは港に戻ることにしたオスティーの気持ちはただ逸るばかりだった。

 港に着いたオスティーの目に飛び込んできたのは、さっきの男の人が縛られている光景だった。それに、ぶつかった人も一緒で口論をしていた。
(ごめんなさい……きっと私のせいだ。きっと……助けてみせる)
 オスティーはネルソンとベルファストの前に立っている人物─父親の姿を確認すると、胸元から嫌なものがこみ上がってくるのがわかった。不安の塊を飲み込んだかのような気持ち悪さがオスティーを襲う。それを無理やり飲み込み静かに二人の元へと近づいていく。
「あなたたちに聞きたいことがあります。このくらいの女の人を見ませんでしたか?」
湿気をたっぷりと含んだ言葉が吐き出され、本当は口もききたくないのだが仕方なく答える。
「……見てねぇよ」
「……さぁ」
「さっき、ここで話している姿を目撃しているんですよ……大人しく居場所を言いなさい」
「だから知らねぇって言ってるだろ。それに臭い口を近づけるな。気持ちわりぃったらありゃしない」
ネルソンがぎろりと睨むと、父親はげらげらと下品に笑った。身なりは貴族なのだが行動すべてがとにかく下品だった。よだれで溢れた口元、酒と香草が混ざった吐息、人を馬鹿にしたような目線全てが不快だった。
「……まぁ、いいでしょ。ここで待っていればあの小娘はここに来るはずですから……」
 ふんと鼻を鳴らした父親の背後まで辿り着いたオスティーを確認したネルソン。無事だとアイコンタクトをすると、ネルソンは突然大声を出し辺りを驚かせた。この港町の住人は既に慣れているのだが知らない人にとっては体が震えるほどの衝撃を与えることができる。オスティーもびっくりはしたが、それより父親をとらえることだけが頭にあり大して怯まなかった。
「……そこまでです。お父様」
「オスティー……」
 小さなナイフを父親の背後に突き付けた状態で、まずは二人を開放するようお願いをした。渋々ではあるがなんとか二人を開放してもらい、あとはなぜこのようなことをしたかを聞き出すだけ。
「お前の聞きたいことはわかってる。なぁに、とってもシンプルな理由さ。それは金。わしは金のためならなんだってする。妻がいなくなった後のものは全てわしのものだ。家主であるわしのものだ。……お前もわしのものだ。オスティー」
「そ……そんな……」
 父親から聞かされたのはとんでもなく醜い話だった。欲に塗れた父親から吐き出されるのはただの不協和音であり、それが仮に真実であっても認めたくないという思いがどこかにある。でも……もしそれが本当なら……。
「お父様……私はあなたを許しません」
「お前のようなひよっこに何ができる!」
「「危ない!」」
(お願い。分身の私。もう少しだけ力を貸してくれるかしら)
「…………」
 ずずと出てきた分身は辺りにあったゴミや塵、全てを集め圧縮。ボールの大きさになったそれを父親目掛けて一気に放出すると、醜い体は海の咆哮へ一直線に飛んで行き勢いがなくなると盛大な水柱をあげて海へと落ちた。
「はぁ……はぁ……」
 父親を吹き飛ばし、緊張が解けたオスティーはぺたりと座り込んでしまった。それをネルソンとベルファストが優しく介抱する。
「先ほどは失礼しました。私の不注意をお許しください」
「あ……えっと……もういいですよ」
「そうは言いましても……あ、お詫びにこちらを」
 ベルファストは無理やりたくさんのアクセサリーをオスティーに渡すと、そそくさとその場から去っていった。茫然とするオスティーにネルソンが豪快に笑う。
「あいつなりのお礼だと思ってくれ」
「……はい」
「ところで、お嬢ちゃん。これからどこへ向かうんだい」
「それが……まだ決まっていないんです」
 するとネルソンは嬉しそうに笑うと、オスティーにウインクした。
「実は俺もなんだ。特に目的地は決めてないがあの船でどっか遠くへ……なんてどうだ」
「……いいですね。ご一緒してもいいですか?」
「お嬢ちゃんなら大歓迎だ! がはは!」
 こうしてオスティーとネルソンは宛てのない旅へと出た。飛び出してしまったけど、これもこれで悪くないと思ったオスティーは海風に撫でられながら、分身にこれからもよろしくねと小さく呟いた。
 ネルソンは大きな声で出航を告げると、街の人総出で二人を見送ってくれた。それに手を振り応えると二人は大海原へと旅立っていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み