甘くてほろにが♪ピーチジンジャーエール

文字数 4,052文字

 見渡す限りの書類の海に埋もれながらうめき声を出しているのは、竜人族の軍人─ステファニーだ。彼女はとある指揮官の副官としているのだが、その仕事量は指揮官……いや、それをも上回っているのかもしれない。今、右も左も見渡す限りの書類の海に書かれている物は、始末書や顛末書、活動報告書、備品管理書、健康管理書、収支報告書、会議報告書など様々だ。それらを仕分けして片付けようと奮起するも、次から次へと増えていく書類はきちんとまとめた箱の容量を大きく超えてしまい、最早境界がわからなくなっていた。本来は指揮官の仕事なのだが、なぜかその処理をすべき指揮官は席を外したまま帰ってこず、その指揮官の次に偉い副官であるステファニーへと流れてしまったということだ。これを丸々部下にさせることなんでできないという強い気持ちが、必死に書類の海を泳いでいる彼女の活力となっている。それと同時に、指揮官への強い不満も積み重なっていくというのも事実で、彼女の不定期な溜息には何かが混じっていると、書類を運んできた部下が感じたという。
 ようやく一区切りついたステファニーは、立ち上がり大きく伸びをした。長時間座っていたせいか腰の辺りに鈍い痛みが走ったのを感じた彼女はまた深い溜息を吐いた。
(書類の整理が終わったら……いつのも場所へいってやるんだから……もう……)
 いつもの場所へ行くことを決心した彼女は、今度はそれを活力にし残った書類を片っ端から処理し始めた。その速度はさっきとは比べ物にならないくらに速く、あれだけ溜まっていた書類がみるみる内に消えていき、間もなく箱の底が伺えるまでになった。もう一息と自分に言い聞かせ、ラストスパートをかけようとしたときだった。
「ふ……副官! た、大変です! ゴブリンの群れが現れました!!」
「ええ!! ちょっと……なんなのよもう……はぁ、仕方ないわ。状況を教えてちょうだい」
「はい。南方向からゴブリンの群れがこちらに向かってきております。それも大勢の……」
「……追っ払わないとまずいわね。近くには村もあるし採掘場だってある。そこに侵入させちゃだめよ。今すぐ軍を配備してちょうだい」
「はい! ですが、指揮官の指示を待たなくていいのですか?」
「……今、この状況で動けるのは私しかいないわ。本当は指揮官の指示を仰ぎたいところだけど……いないもの。やるしかないわ。指揮は私が執るわ」
 ステファニーは書類を放り投げ、代わりに軍帽を深くかぶり速足で作戦準備室へと向かった。実戦経験はあるものの、いざ戦うとなると全身が強張り呼吸も荒くなる。増してや今回は自分が戦うのではなく現場の指揮を執らなければならないというものが付くと、体がぎしぎしと軋む音が聞こえそうな程、緊張していた。でも、今はそうも言ってられない。この周辺に住んでいる人たちを守らないと……。
「お待たせ。今はどういう状況かしら」
「はい。今は速度を緩めながらも確実にこちらへと向かっております。しかし、ゆっくりとはいえ村へと近づかれると速度を上げる可能性もありますので油断ができません」
 地図を指さしながら部下が感想を述べると、ステファニーは腕組みをしながら考えていた。確かに村への侵入は何が何でも防がなくてはいけない。しかし、採掘場へと続く道は途中で二手に分かれており、こうなってはこちらも戦力を二つにわけなければならない。そう思うとどうしようかと考えるあまり、つい唸り声が漏れてしまう。
「……仕方ないわ。こうなったら私も現地に行くわ。そこから指揮を執りながら戦うわ……」
「す……ステファニー様……それは……」
「仕方ないでしょ。こうするしか方法がないんだから。ほら、わかったら行くわよ」
 ステファニーは半ば諦めたように剣を取り、腰に差した。こうなったらやるしかないと決心したステファニーは重要視している町へ続く道の防衛を担い、採掘場へと続く道は部下に任せることにした。ステファニーの作戦は物資がたくさんあるであろう町へと向かってくると予想し、町への配置を厚めにした。採掘場への道はそこまでゴブリンたちが重要視しているとは思えないが……それでも腕に覚えのある部下を配置した。町へと続く道に比べれば少ないかもしれないが、ひとまずはこれで安心ではある。
「……来たわね」
 双眼鏡を覗き、ゴブリンの群れが移動をしてきたことを確認したステファニーは剣を抜き、戦闘態勢へと移った。一匹の戦闘力はそれほど苦戦するものではないが、数で攻められると対処がしにくくなってしまうのが厄介な相手ではあるが、ステファニーは自身の力を信じゴブリンの集団を睨みつけた。きいきいと鳴きながら迫ってくる様子は不気味で、まるで楽しそうに笑っているかのようだった。しかし、その手には斧や短剣を握っており冗談でも遊びに来たという様子ではないのは明らかだった。
(あと少しで分岐だ……さぁ、蹴散らしてくれる)
 ステファニーが固唾を飲んで待ち構えていると、ゴブリンの群れは村へと向かう……と見せかけて全員で採掘場へと走っていったのだ。
「まずい! 全軍、採掘場へと向かうのだ!」
 ステファニーの予想は見事に外れ、戦況は一気に不利なものへと成り代わった。採掘場へと向かう道へと向かうステファニーだが、それまでに部下が何人残るだろうか……いくら手練れとはいえあれだけの数だ。一斉に襲われたら一溜りもない。しかし、その指示を出したのは間違いなくステファニー自身だ。ステファニーは自身への不甲斐なさに唇を強く噛み締めた。
(私は……私はまだまだ力不足だということか……指揮官には遠く及ばないな……)
 視界が急にぼやけたことに気が付いたステファニーは、硬い手甲でそれを拭いながら部下が奮闘している場所まで駆けた。あと少しで到着するというところで、目の前から突然ゴブリンが飛び出しステファニーに覆いかぶさろうとした。それを反射的に防ごうと手を交差させたとき、そのゴブリンが小さく呻きながら宙を舞った。高々と打ちあがったゴブリンはやがて地面へと叩きつけられ、そのままぴくりと動かなくなった。どさりという音にステファニーは恐る恐る手を動かすと、そこにはどこかで見たことのある背中があった。続いて流れるような金色の髪に燃えるような炎のようなマント、太く長い尾……まさかと思い、顔を上げるとそこには思っていた人物が嬉しそうな顔をしながら立っていた。
「ぞ……ゾット指揮官……」
「これはこれはステファニーじゃないか。大丈夫かい?」
「は……はい。大丈夫ですが……って、今までどこにいらしてたのですか?」
「あははぁ。ごめんごめん。とりあえず、こっちを先に片付けちゃおっか」
 ステファニーの上司であり、この軍の指揮官であるゾットが楽しそうに剣を抜きゴブリンの群れへと突っ込んでいった。笑いながら軽々と振るうその剣の前にゴブリンたちは成す術もなく切り伏せられ、あっという間に群れを一掃してしまった。
「ふぅ……これで静かになったかな。よし、帰ろうか」
「……その前にゾット指揮官。聞きたいことが」
 ステファニーはゾットのマントをぐいと引っ張り、ゾットの腰辺りについている土汚れを指摘した。そこから視線を落とすと、草がこすれてついたものや落ち葉のようなものが付着していた。大体のことは予想はできるのだが、これは本人の口から言わせたほうがいいと思いあえて理由を尋ねた。
「……なんだい? そんな怖い顔して。せっかくの可愛い顔が台無しだよ」
「そんなことはどうでもいいです。私の質問に答えてください。この土汚れはなんですか?」
「……言わなきゃだめかい?」
「当然です。職務を放棄してまで付けていいものだといいのですけど……?」
 気まずい雰囲気になってきたとわかったゾットは観念し、この近くで昼寝をしていたと白状した。わかっていても実際に聞いてしまうとここまで気分がげんなりとしてしまうのはなぜだろうか……ステファニーはやれやれと頭を振ると、今回の件は報告書に上げないがその代わりに条件を提示した。それは、残りの書類をすべてやってもらうことだった。それを聞いたゾットは難色を見せたが、仕方ないかといいその条件を飲んだ。
「……ある程度は処理していますので、そこまでは多くないかと」
「そっか。すまなかったね。助かったよ」
 にこやかに笑うゾットを見たステファニーは、なぜかそれで許せてしまう自分の甘さに肩をすくめると自分も帰ることにした。

 戻ったゾットは自分の机の上にある書類の山に驚愕した。さっき、ステファニーからある程度は済ませたと聞いたはずなのだが、その量の多さに思わず開いた口が塞がらなかった。
「す……ステファニー……ステファニー! て、手伝ってくれないかー??」
 ゾットの悲鳴はステファニーに届くことなく、ただ空しく響いた。

 一方、呼ばれたステファニーはというと、いつもの場所と呼ばれる小さなバーにいた。こぢんまりとした店内を一目で気に入ってから何かある度にここで飲んで憂さ晴らしをしている。バーのマスターはステファニーの顔を見るや否や、慣れた様子で彼女好みのドリンクを作ると何も言わずにそっとテーブルを滑らせた。
 澄み渡る青空のような液体に浮かぶ千切れ雲のような食塩。手に取ったステファニーはじっくりとグラスを眺めてから一気に煽った。喉を締め付けるような痛みのあとに追いかけてくるミントの爽やかさがステファニーの気持ちを解し、心から安心した吐息を漏らす。
「マスター。おかわりもらえるかしら」
 少し眠たげな声で注文するステファニーに、無言で頷きドリンクの作り始めた。その間、ステファニーは俯きながら今日あった出来事についてぶつぶつと愚痴り始めた。それについてはマスターはいつものことだと思い、何も言わなかった。ただ、彼女がまたここに来て、自分の時間を大切にしてほしいという思いを込め、新しいドリンクをそっと差し出すマスターの顔はどこか嬉しそうだった。
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