桜色のそよ風

文字数 4,309文字

 春は、シュクレがパティシエになろうと強く思った出来事があった。それはまだシュクレが見習い期間の時に起こった。勤めていたスイーツショップで一人前になるための課題として、デコレーションケーキを一人で作らないといけないというものがあった。味はもちろん、見た目にも美しく華やかなものではないといけないとい決まりがあり、見習いであったシュクレには難題のように感じた。お店が終わってからも一人で何度も何度も練習し、あともう少しというところでホイップクリームが曲がってしまったり溢れてしまったりと失敗ばかりが続くのだが、持ち前の諦めない気持ちを武器に寝る間も惜しんで練習に励んだ。
 しかし、そんな諦めない気持ちにひびが入る出来事が起こった。寝る間を惜しんで練習し、そのままお店の手伝いをして数日が経過したときだった。ふと眠気に襲われてしまったシュクレは焼き立てのパウンドケーキを取り出す際、急に睡魔に襲われ膝がかくんと折れ、熱くなったオーブンの縁で火傷をしてしまった。さらに運悪く、熱さの反射で持っていたパウンドケーキの型を落としてしまい、キッチンに鈍い音が響いた。その音にはっとした時にはもう遅く、ふかふかに焼きあがっているはずのパウンドケーキは床に落ちた衝撃でぐちゃぐちゃになりシュクレはただ立ち尽くすことしかできなかった。その音を聞きつけた先輩パティシエが何事かとやってくると、棒立ちのシュクレに落ちたパウンドケーキの型を見てすべてを察し、まずはシュクレの手当をしようとシュクレの腕を掴み事務所まで連れて行った。その間、シュクレはショックだったのか一言も発さずただ崩れたパウンドケーキを見つめていた。

「大丈夫かい?」
「…………」
「珍しいじゃないか。君がこんなことするなんて……なにかあったのかい?」
「…………」
 先輩パティシエが優しく声をかけるも、ショックの抜けないシュクレは何も発さず、ただの抜け殻に近い状態だった。包帯を巻き終えた先輩パティシエは救急箱をしまい、とりあえず何があったかを聞こうとシュクレの前に座り声をかけ続けた。やがて落ち着いたのか、シュクレは先輩パティシエの目を見て話すようになり、顔色もいつもの淡いピンク色に戻っていた。
「……シュクレ。一体なにがあったのか……話せるかい?」
「……はい。わたし、今度このお店で一人前になる試験があるんです……」
「あぁ、デコレーションケーキをつくるってやつだね。うんうん」
「わたし、どうしてもホイップクリームがうまく絞れなくて……絞れても途中で失敗してしまうことが多くて……そればかり繰り返していたんです。でも、練習すればきっとうまくなると思って寝る時間を削って練習していました……」
「そっか……って、ええ? じゃあ、ここ最近、満足に寝ていないのかい?」
「……はい」
 一連の流れを理解した先輩パティシエははぁと大きく溜息を吐き、小さく困ったなと漏らした。すっかり怯えてしまったシュクレに追い打ちをかけるつもりはないと思いながら、先輩パティシエは口を開いた。
「……シュクレ。君がパティシエになりたいという気持ちはすごく伝わったよ。でもね、自己管理もろくにできない、今の君にパティシエは難しいと思う。今日はもう休んでいいから、明日までに頭を冷やしてきなさい。いいね」
 先輩パティシエは事務所の扉を静かに閉め、出て行った。先輩パティシエが出て行ってしばらく、一人になったシュクレの目から大粒の涙が溢れ、真っ白なエプロンの上に次々と落ちていく。エプロンに広がるシミを見つめながら、シュクレは声なき声で泣いた。

 先輩パティシエに言われるまま、シュクレは今日の業務を終え、自分の家へと帰っていった。その間もさっきの出来事がよほどショックだったのか、時折涙を浮かべては袖口でそれを拭いながら歩いていた。
「わたしは……わたしは……早く一人前のパティシエになりたい……です……」
 嗚咽交じりに自分の気持ちを吐露し、自分の気持ちに嘘がないことを言い聞かせる。しかし、それに行動が伴っていないことが悔しく、どうしたらいいのかがわからなくなっていた。
「わたし……絶対に……みんなを笑顔にするパティシエに……なるんです……ぜったい」
 自宅に着いてからも、何度も何度も言い聞かせているうちに、シュクレはいつの間にか夢の中へと吸い込まれていった。それは自宅に帰ってこれた安心からなのか緊張感から解放されたからなのかは不明だが、今のシュクレにはただ安らげる時間が与えられたというのは事実だった。
その寝顔は今までの怯えた顔ではなく、どこか嬉しそうな表情を浮かべていた。

 翌朝。すっきりと目が覚めたシュクレはカーテンを開け、きらきらと輝く朝日を全身に浴び、軽く伸びをした。昨日まで悩んでいたことが嘘のように心も体もウキウキが止まらず、身支度を手早く済ませてすぐにお店へと向かった。

─なんだか今日はいける気がする

 シュクレの気持ちはフレッシュなゼリーのようにぷるんぷるんに弾んでいた。

 お店に到着するや否や、シュクレは手を洗いエプロンを着け鼻歌交じりに材料を大き目なボウルに入れていく。それらを混ぜ合わせ隠し味をプラスし、型に流し込みオーブンへ入れてタイマーをセット。それらが焼きあがる間、シュクレは薄く伸ばした生地に自分が思い描いた動物を描きそれを元に増やしていく。型を抜き終えたものを丁寧に並べ、別のオーブンに入れてタイマーをセットし焼き上がりを待つ。
「さくさく美味しくて可愛い……なんて素敵なんだろう」
 オーブンで焼き上がりを待っている間もワクワクが止まらず、ついつい独り言が多くなるのも気にせずにシュクレは思い思いのスイーツを作っていく。
 やがてオーブンから焼き上がりを知らせるアラームが鳴り響き、しっかりとミトンを着けてからゆっくりと開けた。山なりに膨らんだそれは美味しく焼けた証拠─それは先輩パティシエが教えてくれたことだった。型を取り出し粗熱を放出している間、それに沿えるクリームを作っていく。もう今は創作意欲が止められず、シュクレの頭の中にはただ「楽しい」という気持ちで埋め尽くされていた。
 適度に甘いクリームが完成し、粗熱のとれたケーキ(パウンドケーキ)に惜しげもなくたっぷりと添え、別のオーブンに入れていたクッキーをクリームの上に静かに乗せた。その出来栄えに思わずうんと唸り、しばらく完成した自信作を眺めていた。
「完成しましたぁ! さくさくのタツノコさんクッキー付きのパウンドケーキです!!」
 初めてにしては中々の出来に、シュクレは思わず頬が緩み食べるのを躊躇していた。とそこへ、先輩パティシエがやってきて完成したシュクレのケーキを見て驚いていた。
「おはようシュクレ。って、なんだそれ。それ、シュクレが作ったのかい?」
「あ、先輩! おはようございます。わたしが作りました!」
「って、もう立ち直ったのか……さすがだな……」
「? どうしました??」
「あぁ、いや。こっちの話。それよりももっとよく見せてくれないかい? 君の力作を」
「はい!」
 荷物を適当に置き、先輩パティシエはシュクレの力作を受け取りじっくと眺めた。クッキーの焼き色やクリームの密度、そして味……まずはパウンドケーキを小さくちぎり口へ運ぶ、もむもむと口を動かし、無言のまま次はクリーム。今度はパウンドケーキとクリームを一緒にして。最後はクッキーを思い、先輩パティシエがクッキーに手を伸ばしたときだった。
「オイー! オイラヲタベルキカー!」
「え……な……なになに!??」
 突然、タツノコのクッキーが動きだし、先輩パティシエの前でうにうにと動きながら喋っている。
「オイラヲタベルトハイイドキョーダ。タベルナラオイラノウミノオヤニキョカヲエテカラダ」
「え……えっと……シュクレ? これは一体どういうこと??」
 突然動き出したクッキーに驚いた先輩パティシエ……だが、それを作ったシュクレ自身も驚いていて、ぽかんと口を開けていた。やがてシュクレは一人手を挙げてはしゃぎ、うにうに動くタツノコクッキーに挨拶をしていた。
「初めまして! シュクレって言います!」
「オウ! シュクレカ! ヨロシクナ!!」
 事態が呑み込めない先輩パティシエは口を開けたまま固まってしまい、なにがなんやらといった表情をしていた。ようやく言葉を出すことができたのは、その数分後だった。
「えっと……このタツノコ君はどうしてこうなったのか……な?」
 シュクレに質問を投げかけると、それに代わってタツノコクッキーがえっへんと胸を張りながら答えた。
「オイラガウマレタノハ、シュクレノココロナンダ。『タノシイ』トイウキモチがタカマルト、ドウブツガウゴキダスンダ。スゴイダロ」
「……すごいかもしれないけど……それって、お客さんがびっくりすると思うんだけど……そこらへんは大丈夫なのかな?」
 その質問には大きく頷き、何の問題もないと答えた。あくまで出来上がった数分の間のみとのことだったのでそれには先輩パティシエはほっと胸を撫でおろした。
「ソロソロジカンダ。シュクレガエガオニナッテ、オイラトテモウレシイ!」
「わたしもタツノコさんに会えて嬉しい! またお話しましょうね!」
 そういうと、さっきまでうにうにと動いていたタツノコクッキーはぶるぶると震えてから重力に任せるままシュクレの掌の上に落ちた。
「先輩。わたし、頑張ります! みんなを笑顔にするとびっきりのスイーツを作ります!」
 やる気に満ちたシュクレの顔を見た先輩パティシエはにっこりと笑い、そうかと頷いた。そして、ここで見た不思議な時間は二人だけの秘密とし、開店の準備を始めた。そして、開店してから先輩パティシエは店長にこっそりシュクレが作ったパウンドケーキを見せ先輩パティシエなりに評価を述べた。店長はそれを参考にするといい、シュクレの作品を受け取り一口。しばらく黙ったのち、店長の口から「美味しい」という言葉が零れた。そしてそのあとに「合格だ」と低く言い、店頭で元気いっぱいにお客さんを案内しているシュクレにそれを伝えに行った。

 後日。晴れて一人前と認められたシュクレは、店長からオリジナルの商品を作ってみないかと提案され大いにはしゃいだ。答えは……いうまでもなかった。さっそく新作のスイーツを考案しているシュクレの顔は誰よりも嬉しそうで、楽しそうだった。そして、その気持ちがシュクレに不思議な気持ちを宿らせ、後にお客さんを幸せにする役目になろうとはこのときは誰も予想していなかった。その気持ちの具現者、シュクレにさえ……。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み