★シブーストブリュレ【魔】

文字数 4,775文字

 辺りが寝静まった頃。空に浮かぶ満月だけが照らす住宅街裏にて、逃げる男性とそれを追う男性がいた。逃げる男性のあちこちには裂傷があり、顔にはそれよりも深い裂傷が浮かびそこから赤い液体がぼたぼたと流れていた。ひとつまたひとつと赤い雫が冷えた路地裏に染みをつくっていき、追う男性はそれを静かに辿っていった。言葉を発しない真っ赤な案内人にただ従うだけで、簡単に追うことができるなんとも単純なことだった。
 やがて逃げる男性の絶望的な声が聞こえると、追う男性はその理由をすぐに理解した。それは高くそびえる雑居の背中部分だった。登ろうにも登れそうな箇所が皆無なため、逃げる男性は空に浮かぶ満月を見上げながら悲哀の声を漏らした。そこへ追う男性がゆっくりと確実に逃げる男性に近づくと、逃げる男性はその足音にはっとし後ろを振り返った。そこには不気味なまでに優しく微笑んでいる男性が立っていたのだ。
 黒いコートに何本もの刃物を携え、腰元にはそれの何倍かの長さの刃物を両脇に一本ずつ差していた。追う男性はただにこやかに男性に近づくと、逃げる男性は「ひぃ」と情けない声を発しながら何度も雑居の背中部分に自分の背中をぶつけながら後ずさっていた。もうこれ以上逃げ場がないとわかっていても……だ。追う男性は腰元からすらりとした刃物を取り出し、逃げる男性にさっきよりもゆっくりとした歩調で近づくと、逃げる男性はその場ににうずくまり、泣き出した。
「や……やめてくれ。頼む、命だけは……」
「おやおや。数々の命を奪っておいて、それはないでしょう」
「し、仕方なかったんだ。あれは、仕事だったから……そう、仕事なんだ」
「ほう……仕事だから命を奪ってもよいと……」
「そうだ。仕事なんだ……」
「そうですか。わかりました」
 追う男性は構えを解き、戦意がないことを無言で伝えると逃げる男性はほっとしたのか余裕のある表情へと変わった。が、その余裕もつかの間、追う男性はコートから短い刃物を掴み距離を詰めると、逃げる男性の喉元に刃物を突き付けた。
「わたしも生憎、仕事中でしてね。あなたの言う通り、これは仕事中なので命を奪って良い理由になりますね」
「が……あ……は……がは……」
 刃物が刺さった個所から止めどなく赤い液体が溢れると、気道が赤い液体で詰まり逃げる男性は何かを掴もうと虚空に手を伸ばすが、何もつかめずやがて力なくぽとりと落ちた。
「やれやれ。あまり激しく動くから、あなたが余計に苦しむことになってしまったじゃないですか。……って、言っても遅かったですか」
 刃についた赤い液体を丁寧にふき取り終えると、追う男性は仕事を受けた事務所へ戻るため、踵を返した。その姿を、怪しく光る満月だけが見ていた。

 事務所へ戻る男性─カートウッド。月明りでようやく見えるその風貌は、どこか掴みどころがなく何を考えているかが全く予想できないそんな感じだった。崩さない笑顔はそれを見破られないための仮面のようにも見える。真相はわからないが、今の彼はただどことなく何かに疲れているように見えた。笑顔という名の仮面の隙間から見える疲労の色。これだけはどうしても隠しきれてないカートウッドは、それに気が付いているのかどうか……。
 ふらりふらりと寝静まった住宅街を歩くカートウッド。普段、この住宅街は買い物ができる店が多く立ち並び、休みの日になればそれはそれは多くの人で賑わい、見ているだけでも楽しくなるようなそんな街並みだ。だが、カートウッドから見る

の世界は、どこか退屈でそれこそ仮面のようだと思えてしまうのだという。一方、

の世界はというと、それこそ表の世界とは真逆で本性を表しているような、自分の欲望をむき出しにした世界だとカートウッドは思っている。裏切り、欺瞞は当たり前。中には重刑に処されても構わないから、その場で味わえる緊張感や興奮が欲しいと己の欲求を満たしたいという輩で溢れている。それこそがカートウッドの思う本来の

の世界なのではないだろうかと思っている。
「考えすぎでしょうか」
 一人そう呟きながら口元をさらに持ち上げ笑みを浮かべる。これ以上、笑っても意味がないと思いながらつい笑ってしまう。なぜなのだろうか……。
「……おや」
 いつも歩いている道に、ぽつんと明かりが灯る家があった。こんな時間に珍しいとカートウッドは思いながら、素通りをしようとした……のだが、なぜかカートウッドはこの家の中に入りたいという

が生まれた。なぜだかはわからない。だけど、中に入りたいという純粋な思いが、家の扉を開けさせた。

 ちりんちりん

 控え目なドアチャイムが家の中に響き、中へと入ったカートウッドは驚いた。そこは食堂だった。四人かけのテーブルに白いクロスが敷かれた席が二つと、四人がかけて隣同士がくっつくかどうか微妙の幅のカウンター席だけと非常にこじんまりとしていた。店内にはカートウッドとくたびれたエプロンをした初老の女性だけで、女性がカートウッドを見るとにこっと笑いカートウッドを迎えた。

。どうぞ」
 初めて入るはずなのに、

とは……。カートウッドは笑顔から真顔になり驚いていると、女性はグラスに水を注ぎカウンター席にそっと置いた。きっとそこが自分の座る場所なのだろうと察したカートウッドは丸椅子を引き、腰を下ろした。
「こちらがメニューです。決まりましたら声をかけてくださいね」
 やや大きめのメニューを受け取り、開くと子供から大人まで楽しめそうなメニューがずらりと並んでいた。飲み物も食後のデザートも潤沢にあるなか、カートウッドはメニューをそっと閉じ、女性に返した。
「お決まりですか」
「その……あまりお腹は空いていないのですが……なにか……落ち着く食べ物をお願いします」
「はい。かしこまりました」
 カートウッドは何が食べたいとははっきり言っていないのに、女性は何の疑問を抱かずに素直に返事をしながらキッチンへと入っていった。
「一体何なのですか……」
 店内に入ってきたときの挨拶といい、何が食べたいかを言っていないのにわかったように頷くことといい、カートウッドは水を口にしながら頭を抱えていた。よく冷えた水を飲むのはいつ以来だろうと思っていると、女性がキッチンから湯気を発した何かを運んできた。
「お待たせしました。ムニエルです」
「ムニ……エル」
 名前は聞いたことがある程度の料理だった。記憶の中のムニエルは、白身魚をただ蒸した料理だと思っていたのだが、実際はこんなにも温かくて優しいものなのだと知ったカートウッドは、フォークを取り柔らかくなった香味野菜を一口。柔らかいのに歯ざわりはしっかりと残っている玉ねぎの甘味、グリーンペッパーの苦み、ニンジンの食感が口の中で混ざり合いカートウッドの心をほんの僅かにほぐした。香味野菜の下には、丁寧に小骨が取られた白身の魚が隠れており、今度は白身をほぐして香味野菜と一緒に口へと運んだ。レモンの爽やかさが利いた白身魚と、塩だけで味付けされた香味野菜が混ざると、何とも言えない安心感に包まれた。
「……おいしい……ですね」
「お口にあって良かったです」
 普段、あまり食事をしないカートウッドなのだが、この時ばかりはフォークが止まらずあっという間にムニエルを完食した。残ったのは、レモンの輪切りだけであとはきれいにカートウッドが平らげてしまった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様です。こんなにきれいに食べていただける方、初めてみました。なんだか嬉しいです」
 女性はうふふと笑いながら皿を下げると、戻ってきて小さなカップに入ったデザートを持ってきた。もちろん、カートウッドは注文をしていないものだった。
「あの……これは……頼んでいません」
 すると、女性は首を横に振りながら口を開いた。
「いいえ。確かにあなた様が注文されたものです」
 どういうことか理解ができないカートウッドを後目に、女性は淹れたてのコーヒーをカートウッドの前に静かに置いた。ソーサーにはたっぷり入ったミルクと角砂糖が添えられていた。何が何だかわからないカートウッドを見ていた女性は、少し悪戯っぽく笑いながら説明をした。
「あなた様は、『落ち着く食べ物を』と注文されましたね」
「……はい」
「なので、これはわたしの勝手な解釈なのですが……あなたが食べたらきっと落ち着くだろうなというものをお持ちしました」
「……」
 フォークからデザートスプーンに持ち替え、デザートを一掬い。これは……バニラのアイスクリームか。カートウッドはゆっくりスプーンを口へ運ぶと、ほんの少しだけ塩の利いたバニラのアイスクリームに舌鼓を打った。
(バニラに……塩……ですか)
 意外な組み合わせに驚きつつも、カートウッドはデザートを食べ終えると飲み頃になったコーヒーに口をつけた。深いコクを感じるコーヒーはカートウッドの舌の上で踊り、さっきよりも心を解きほぐしていった。
「ふぅ……ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
 にこやかにデザートのカップをキッチンへと下げ、女性はそのままキッチンで洗い物を始めた。その間、カートウッドは今までこなしてきた自分の

について考え始めた。闇に紛れて数々の依頼者を殺めてきた自分は、この先も果たしてこの仕事ができるのだろうか。それとも、もうそろそろ足を洗ったほうがいいのだろうか。だが仮に、足を洗った後に自分ができることは一体何だろう。コーヒーをすすりながら考えていると、洗い物を終えた女性がカートウッドに話しかけた。
「お客様は……料理人……なのですか?」
 まさかの言葉にカートウッドは首を横に動かし、否定した。
「わたしが……ですか? いいえ」
「そうですか。たくさん刃物をもってらっしゃるから、てっきりそうだと……失礼しました」
「わたしがもし料理人だったら……どうしますか」
 少し意地悪な質問を投げかけると、女性は少し悩んでからにこやかに笑いながら答えた。
「きっと素敵な料理人だろうなぁと思います。たくさんのお客様を笑顔にしてくれるような……そんな料理人だと」
 予期せぬ答えにカートウッドは困惑していた。こんな怪しい自分を見て料理人だと言うこの女性は……カートウッドが今までに味わったことのない感情が胸の内で小さいながらも脈打ち、次第にそれは「やりたい」という

へと変貌した。
「ありがとうございます。恥ずかしながら、料理の知識はからっきしなのですが……これから少しずつ勉強していきたいと思います」
「まぁ。あなたのような料理人がいてくれたら、わたしもなんだか嬉しいわ。うふふ」
 暗殺者が料理人……か。異様な取り合わせだが……悪くないかもしれない。カートウッドは席を立ち、お会計をしようと財布を取り出すと女性はそれを拒んだ。
「今日のお代は結構よ。あなたと楽しくお話ができた。それだけでもうわたしは満足よ。ここは不定期に開けてるけど……よかったらまたきてくれると嬉しいわ」
「そう……ですか。では、また」



 からんからん

 女性の入店時と退店時の挨拶が逆だった……。普通は変だと思うのだが、今はそれがカートウッドの気持ちを開かせるきっかけになったのかもしれない。こぢんまりとした店内は賑やかな場所が得意ではないカートウッドにとって丁度よく、つきすぎず離れすぎない女性の対応に心躍った僅かな時間。自分のことを料理人と言った時のあの朗らかな笑顔は、今後の自分の道しるべになるかもしれないと思ったカートウッドは、事務所へはいかず自分の家へと戻った。
「きっかけをありがとうございます。


 ここは表が裏になる街。そして、裏が表になる街でもある。笑顔という仮面が裏になる日は、そう遠くないのかもしれない。
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