カシスのやわらか大福【魔】

文字数 2,353文字

 冥界。それは地の底にある日の光とは無縁な場所。不気味な光がちろちろと揺れ、どこからか聞こえる声は風の唸り声なのか亡者の嘆きか。
 オリュンポスの地下深くにある冥界にて、ハデスが統べる一つの国にて悩める女性がいた。その女性は冥界の王ハデスをいたく慕っており、ハデスのためならなんでもこなしてみせるという意気込みを持っている。その女性の名はヘカテー。紫色に艶めく長い髪に陶器のように透き通った肌、漆黒のドレスを身に着け大きな椅子に腰をかけ、深いため息を吐いていた。
「はぁ……」
 いつもの元気がないヘカテー。その理由はハデスが計画している地上奪還作戦についてである。前にどこかで資料を見た覚えがあり、その内容は妻であるペルセポネに知られないよう極秘で進めている計画であるとあったような。名前の通り、冥界だけではなく地上をも自分の領土とし支配してやろうというハデスにとっては大きな野望であり、その計画についてはヘカテーも大賛成ではあるのだが、それがあまり良い方向へと進んでいないというのも事実としてあがっている。踏み切るタイミングを誤ってしまえば、一瞬で冥界内で広まりペルセポネの耳に入るのは時間の問題。そうならないためにはどうしたらいいのかとずっと悩んでいたのだ。
「……そういえば」
 ふとヘカテーは雑誌置き場からがさがさと何かを取り出すと、一枚のチラシを見つけた。
「開運……神社?」
 聞きなれない言葉に首を傾げるヘカテー。だが、チラシに書かれているのを読み進めていくと、覇気のなかった顔がみるみるうちにきらきらと輝きだしていた。
「健康運、仕事運諸々今のハデス様に必要なものばかりご利益があるではないか! こうしちゃおれん。早速その神社に行くぞ」
 急に元気になったヘカテーは、今の季節に相応しい服装を選び地上にある神社へと向かった。

「ここか。ご利益があると言われている神社とやらは」
 今の季節、地上では正月と言われる特別な日と雑誌に書いてあったので、それに相応しい恰好をしてみた。艶やかな生地を使用した着物と呼ばれる異国の衣服をきちっと着こなし、怪しまれないよう心掛けた。
「まずは……この入口で頭を下げるのだったな」
 神社の入り口で頭を下げてから境内へと入るヘカテー。その姿はすっかりほかの地上で暮らす人たちとなんら変わりなく溶け込んでいた。慣れない手水もきちんと行い、いざ本殿での祈願も両手を合わせこれでもかと念を入れてお祈りをしたヘカテー。
「ハデス様は冥界を統べるに相応しいお方。どうか今年もハデス様が飛躍する年でありますように」
 しっかりと思いを込め、本殿を後にし今度は社務所内にて売られているものに目がひかれたヘカテーは、目に見えない何かに誘われるように社務所へと入っていった。
「なんだこれは……お守り?」
 裏面には健康運や仕事運などが刺繍されており、派手すぎないデザインでちょっとしたワンポイントにもなるとチラシに書いてあったのを思い出したヘカテー。そうとわかると、ヘカテーの目の色ががらっと変わり、社務所内にあるお守りをごそっと抱えて巫女に購入する旨を伝えた。
「ここにあるお守りは全部買い占めだぁ」
 ハデスのことになると見境なくなると自分でもわかってはいるのだが、それもハデスの計画がうまくいってほしいという願いの元。鼻息を荒くしながらほかのお守りも買い占めようとすると、どうやらこの神社の中で一番権力のあるものと思われる人(神主)が、大変申し訳なさそうに頭を下げた。そして、ヘカテーにとって衝撃的な一言を放ったのだ。
「な……なんだと……。上限があるだと!! そ、そんなこと、早く言え!」
 恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤にして怒鳴るヘカテー。それに対し神主は、落ち着いて事情を説明すると、怒りが収まったヘカテーは徐々にその理由を理解した。ほかにも健康運や仕事運がよくなりたいという人はたくさんいること、そしてその人たちの思いを大切にしてもらいたいと優しく言われ、ヘカテーは暴走していたことを素直に謝罪した。
「……本当に申し訳ない。見苦しいものを……」
「いえいえ。そこまで強く思いを持たれている方なのですね。あなたの思いは、きっと伝わりますよ。だから、もう顔をあげてください」
 ヘカテーがゆっくりと顔をあげると、そこには柔らかい笑みを浮かべた神主の顔がそこにあった。ヘカテーは涙を流しながら何度も頭を下げ、無礼を謝罪した。
「もういいですよ。さすがに全部は困りますが……一種類ずつなら構いませんよ」
 神主はそういうと、種類豊富のお守りを一種類ずつヘカテーに手渡した。
「あ……え。その……」
「お代は結構です。あなたの大事な人に、手渡してあげてください」
「……ありがとうございます」
 涙を飲みながら神主にお礼を述べたヘカテーは、社務所を出るときに何度も頭を下げ神社をあとにした。

 冥界へと帰ってきたヘカテーは、さっそく神社でいただいたお守りをハデスに献上した。
「……なんだこれは」
「これは人間界にあるお守りという、大変ご利益のあるものでございます」
「そうか。有難くもらっておく」
「ありがとうございます」
「ああ、ヘカテー」
「はい」
「いつも苦労をかけて済まないな」
「そ……そんなことは……」
「この計画がうまくいった暁には……それなりに礼をするつもりだ。だから、それまでもう少し辛抱してくれるか」
「そんな……もったいないお言葉です。わたしヘカテー。一生お仕えする所存です」
「ああ。頼りにしているぞ。これからもな……」
 こんなことを言われるなんて思っていなかったヘカテーは顔が真っ赤になり、動くことができなかった。そんなヘカテーのポケットには確かにハデスに手渡したと思われたのが、入れ忘れていた恋愛運のお守りがあった。
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