不揃いぼうろ

文字数 6,627文字

 藤の花が咲く季節。甘い香りにを放つ花々に思わず頬が緩む。天気が良いのも手伝ってか、気持ちまでも弾んでいく。その藤の花に手を添えて香りを楽しむ好青年─光源氏。容姿端麗に加え、知識や礼節どこをとっても欠点が見つからない程までの好青年が清々しいまでの天気と変わらないくらいに笑う。
「源治様。もうそろそろ戻りましょう」
 お付きが宮へと帰ることを告げると、残念そうにしながらもそれに従い牛車に乗り込む。牛車にも季節を彩る花々が飾られ、その牛車が通るだけで季節を感じられるなんとも雅な乗り物に、思わず立ち止まって楽しむ民も少なくなかった。その牛車の中、つまらなそうに窓の外を眺めている正妻、葵を見た光源氏は優しく声をかける。
「どうした。そんな頬を膨らませながら外を見て」
「源治様。別に……頬など膨らませてなど……」
「良い良い。そうさせたのはわたしなのだろう。謝る。すまなかったな」
「源治様……私こそ、すみません。その……」
「悪いのはわたしだ。もう良い。帰り道に団子でも買うて行こう」
 それに機嫌をよくしたのか、葵は微笑みながら頷いた。自分の足で見る花もいいが、牛車に揺られながら眺める花もまたいいなと光源氏が呟くと、葵は小さく頷いた。藤に交じり桜や桃の花も咲き誇り、愛でるには絶好の場所だった。光源氏に気が付いた民は大きな声をかけ、手を振る。親の手を引かれて歩く子供もそれに負けまいと大きな声を上げて光源氏に手を振る。それに柔らかな笑顔で応える。

 藤並木を通過してしばらく、牛車は突然止まった。何事かと光源氏が御者に尋ねると、そこには道の真ん中でなにやら困っている女性がいた。その女性は地面に尻をつき、左右を見回している。何かを探しているようにも見えた光源氏は牛車から降りてその女性に近づき、声をかけた。
「どうされましたか。何かお困りですか」
 声をかけられた女性は体を震わせながら振り返ると、目を涙で腫らし唇を噛みしめていた。
「あ……あ……」
「どうかされたか。どこか具合でも悪いとか……ふむ」
 光源氏が視線を落とすと、その女性を困らせた原因を見つけた。きっとこれに違いないと光源氏はその女性に微笑みながら声をかける。
「もしかして、鼻緒が切れてしまったのですか」
「あ……は、はい。その……」
「大丈夫。安心なされ。わたしが直すから中で待ってくれますかな」
 光源氏に担がれ、牛車の中に入った女性は恐る恐る視線を巡らせた。華やかな装飾が施された天井絵、丁寧に作られた座席には職人のこだわりに溢れた細工が施されていた。
「どうぞ。腰を下ろしてください」
「は……はい。し、失礼します」
 腰を下ろすもなんとなく気持ちが落ち着かないのか、まだ牛車の中をきょろきょろとしている女性に葵は微笑んだ。
「あの人に任せておけば大丈夫です。きっとすぐに直りますから、安心してください。そうだ、お茶でも用意しましょうか」
「い、いいいいえ。そ、そこまでしていただかなくても……お、お気遣いありがとうございます」
 女性は首を何度も左右に動かし、申し出を断った。それが面白かったのか、葵は声に出して笑うとそれにつられて女性も笑った。ひとしきり笑った後、牛車の扉が開き、光源氏が顔を覗かせ履物の修理が終わったことを告げた。ゆっくりと牛車から降り、履物の具合を確かめると最初に履いていたときよりもしっくることに驚いた女性は思わず声が漏れた。周りを歩き履き心地を確かめた女性は何度も光源氏にお礼を述べた。
「はは。そこまで喜んでもらえると直した甲斐があったな。ところで、貴女のお名前は?」
 そう言われた女性は顔を真っ赤にしながら、か細い声で名を名乗った。
「ろ……六条御息所といいます……あ、あなた様は……?」
「私は光源氏ともうしま……え?……あの六条家の方だとは……ここで巡り合えたのも何かの縁です。またお会いできたときは、ゆっくりお話でもしましょう」
「あ……は、はい。あたしで……よければ……」
「是非! 今日はもう行かねばならないので、また後日」
 牛車に乗る前に一礼をし、中へと消えていった光源氏を見た六条御息所は、ただ無言で見送ることしかできなかった。その見送る頬は桃色に染まっていた。


 それからというもの。六条御息所の頭には、あの春日を思わせるような笑顔の光源氏が忘れられなかった。そして、その笑顔の主に恋をしてしまったかもしれないという思いが、六条御息所の頬を更に薄桃色に染め上げた。一人部屋で顔を覆いながら六条御息所はあたふたしていた。
「そ……そんな。あたしがそんな……ねぇ……そんなはずはない。きっとそうよ……ね」
 六条家という名のある家の生まれではあるが、ただそれだけ。ただそれだけなのに、あの人はお話をしたいといってくれたあの言葉が頭から離れない。
「はぁ……本当にお話をしてくださるのでしょうか。こんなあたしに……」
「失礼します。文をお届けに参りました」
「あ、はい。ありがとう。誰かしら」
 侍女から文を受け取った六条御息所は息を飲んだ。流れるような字は確かにこう読めた。

 光源氏 と

「そ……そんなことって……」
 まさか本当にこんなことがあるだなんて思っていなかった六条御息所は、文を開けて中を確認したいようなしたくないような気持ちになり、しばらく右往左往してから意を決し文を開くことにした。そこには日時と場所が書かれていて、そこでお話をしたいというものだった。これは何かの間違いではないか……そんな思いがよぎり、確認のために何度も読み直してみても結果は同じだった。間違いなく、日時と場所が書かれた文だった。
「ど……どうしましょう。本当にお話ができるなんて……夢のようだわ」
 すっかり気分がよくなった六条御息所は、文を胸に押し当て喜びに浸っていた。

 文を頼りに書かれた場所へと向かう六条御息所。間違っていなければきっとここであっているはず。たどりついたのは豪勢な宮殿だった。赤を基調とした門の前には屈強な男性がぎろりとこちらを睨む。どうしたらいいかわからず、六条御息所は文を見せてみた。すると、険しいから一遍し満面の笑顔で門扉を開けてくれた。くぐった先に広がっていたのは、贅をつくした庭や装飾品の数々に、たくさんの従事者が行き交い談笑をしている姿だった。
(ここは……きっと、あたしには違いすぎる世界)
 心のどこかでそう思ってしまった六条御息所は、昨日までのうきうきした気分はどこかへ行ってしまい、代わりに陰鬱した気持ちになっていた。すっかり落ち込んでしまった六条御息所は、談笑している人たちの邪魔にならないよう体を小さくしながら書かれた場所へと向かうと、そこにはすでに何人かの女性が待機していた。
「あら、ほかにも招待された方がいたのですね」
「ほんと。これで全員かと思いましたわ」
「ほら、ぼさっと突っ立ってないであなたも座りなさい。もうじき、源氏様が見えますよ」
 源氏という言葉を聞いた六条御息所は、何かを思い出したかのように反応し用意された椅子に腰を下ろす。向かって右に座っている活発な女性は空蝉、左に座っている上品な女性は夕顔とそれぞれ名乗った。六条御息所も名乗ると、二人は顔を見合わせて驚き、笑った。
「まさか、あの六条家の方もいらっしゃるなんてねぇ。びっくりしたわ」
「ええ。ところで、あなたはどこで源氏様と出会ったのかしら?」
 光源氏が来るまでの間に、それぞれが光源氏の素敵だと思うところを思いつく限りに出し合った。その一つ一つが共感できるもので、六条御息所の意見に空蝉や夕顔も大きく頷いていた。徐々に緊張が解れてきた六条御息所も、次第に笑顔を見せるようになり一緒になって笑えるようになった頃、襖から女性の声が聞こえた。
「失礼します」
 少し遅れて三人に文を出した本人、光源氏が現れた。今日もまばゆい笑顔に胸が高鳴りっぱなしの六条御息所は思わず俯いてしまった。と、そこへ光源氏が歩み寄り優しく声をかけた。
「顔を上げてください。せっかくの素敵な笑顔をもっとわたしにみせてください」
「え……」
 光源氏にされたわけでもないのに、自然と顔が上がった六条御息所の顔はあのときと同じで涙で目が潤んでいた。そして恥ずかしそうに顔を背けると光源氏は大きな声で笑った。
「そんなに恥ずかしがらなくても良いではないか。良い良い。今日はたくさん語り合おう」
 光源氏が手を鳴らすと、中で待機していた侍女たちが一斉に現れてみんなで楽しく語らいができるよう準備を始めた。手際もよく運ばれたものはどれも美しく切り細工されていて、手を付けるのが勿体ないくらい。
「遠慮することはない。今日は飲んで食べて語ろう」
 さっきまで笑っていた三人の表情は一気に緊張が走り、どうしようかと迷っていると光源氏が率先してアケビに手を伸ばし、口に運んだ。
「うん。今年のアケビも熟していて美味い。ほら、早く食べないとわたしが全部食べてしまうぞ」
 ごくりと喉を鳴らしながら手を伸ばしたのは夕顔だった。夕顔はアケビの隣にあったハシバミを口に運んだ。カリカリと軽やかな音と共に木の実の甘さがいっぱいに広がり、夕顔の顔が一気に綻んだ。それに続くように空蝉、六条御息所も用意されたものに手を伸ばし楽しんだ。
 大いに盛り上がり、語らいは終わり三人は道すがら感想を言い合っていた。
「はぁ、とても楽しい時間だったわね」
「ええ。あの果物、とっても美味しかったわぁ……それに、笑ってる源氏様。素敵だった」
「あら、あなたもそう思ってたの? いい笑顔よねぇ? ねぇ、あなたもそう思いません?」
「え……ええ」
「はぁ……あんな素敵な笑顔が見られるならなんだってするわ」
「だめよ。葵様がすでにいるでしょ?」
「そうだったわ。はぁ……でも、またお会いしたいわ」
 空蝉と夕顔の会話についていくことができず、六条御息所は胸のあたりをただたださすっていた。まるで何かを吐き出そうとしているかのように……。

 光源氏との談話を楽しんで数日が経過した。あれからというもの、光源氏のことが頭から離れなくなっていた。最初に会ったときよりもより強く。時間があれば思い浮かぶのはあの輝く笑顔、そして元気が出る声音。自分とは天と地ほどの身分の差があると知りながらもああして話してくれたことが夢のようだった。そして、またどこかでお会いできた暁にはもっと色々な話をしてみたいと心から思える。

 思える。思えるのだが……。一つ、たった一つ気がかりだった。

 そう。彼は既婚者なのだ。

 誰に対しても分け隔てなく接してくれるのは、とても嬉しい。なのだが、どうしてもその部分が輝かしい彼の笑顔をくすませる。必死に振り払おうとしてもそれは振り払うほどにくすみ、そのくすみは自分の心を悪戯に侵していく。侵された心に宿るのは嫉妬という暗く、粘度の高いものへと変貌する。

 あの人をあたしのものにしたい。
 あの人の笑顔を見ていたい。
 あの人の声を聞いていたい。
 一緒にいる人が羨ましい。
 一緒にいる人が妬ましい。
 ずるい。ずるい。ずるい。

 膨れる嫉妬心は、やがて独占欲へと変わり六条御息所を支配していく。独占欲はぶくぶくと勢いよく膨れ、六条御息所の目を曇らせる。窓の外を眺めていたはずなのだが、いつの間にか歯と歯をこすりあわせていたことに気付き慌てて視線を逸らす。このままではきっとよくないことが起こるかもしれないと思った六条御息所は、外の空気を吸うため、履物を履いて門扉をくぐった。
 ふらりと外へ出たのはいいが、どこへ行ったらいいかわからずしばらく辺りを見回した。なんとなく決めた道をゆっくりと歩いていると、遠くのほうでどこかで見たことのある乗り物が動いていた。黒くて華やかなな乗り物……まさかと思った六条御息所の足は急に速くなりその乗り物を追いかけていた。
 もう少しで追いつくというところまできたのだが、苦しくなってしまい呼吸を整えるために立ち止まりながらその乗り物を見た。

 間違いない。あの人が乗っている牛車だ。

 六条御息所は足がもつれようが、苦しくなろうが構わなかった。今はあの人の笑顔が見たいという一心で牛車の隣を歩き続けた。きっと窓を開けて外を見てくれると信じていた六条御息所は一点を見ながらひたすらに歩き続けた。
 どのくらい歩いただろう。一向に窓が開く気配がないことに違和感を覚えた六条御息所は、思い切って声を出そうか迷った。しかし、自分の都合だけで牛車を止めてしまうのはどうだろうかと思い、断念した。胸のあたりにもやもやした気持ちを感じていると、窓の開く音が聞こえた。その音にすぐに反応し、六条御息所はやっと彼の顔を見ることができると思って顔を上げた。
 しかし、そこには女性がいた。前に鼻緒が切れてしまって中で待っている間に声をかけてくれた女性とは全くの別人。その人が陽なら、今窓から六条御息所を見下ろしている女性は陰だった。その人が暖なら、窓の外から六条御息所を見下ろしている女性は寒。ただただ凍てついた視線を六条御息所に向けていた。その視線は他にも何かを含んでいるようにも感じた六条御息所は、はたと足を止めた。
(これ以上は駄目。きっと……きっと……)
 六条御息所が立ち止まり、そこから少し離れたところで牛車も止まった。そして中から陰を纏う女性が速足で六条御息所に近付いてきた。それも凄まじい冷気を放ちながら歩く姿は妖怪絵巻に描かれる雪女のようだった。
「あなた。さっきから牛車の横を歩いてた女よね」
「は……はい」
「なに? 何か用なわけ? それとも源氏様に用事があるのかしら?」
「あ……あの……っ」
 もごもごとしている六条御息所に向かって、わざと大きなため息を吐いたその女はさらに冷ややかな視線を向けながら言った。
「はっきり言って迷惑なのよね。あんたのような

がこの辺りをうろうろしてるのがね。とっとと消えてくれないかしら? 源治様に悪影響が出ないうちに……ほら、消えなさい」
「ひ……ひ……」
 氷の視線が六条御息所の胸に深く突き刺さると同時に、なにかが弾けたような気がした六条御息所は牛車が去ったあともただ呆然と立ち尽くしていた。やがて冷たい風が髪を通り抜け、砂埃が立ち始めると膝ががくりと落ち、一点を見つめながらぶつぶつと呟き始めた。
「あぁ……あたしは……あたしは……あなた様を……許さない。許しません。裏切ったあなた様を……許しません」
 許容を超えた容器から溢れ出でた憎悪は、六条御息所を醜く変化させ文字通り醜女へと成り果てた。そしてその憎悪は止まることなく溢れ、六条御息所の周囲を黒く塗りつぶしていく。塗りつぶされた個所から鬼哭啾啾たる気配が漂い、周囲を支配していく。
 六条御息所がけたけたと嗤う骸に何かを指示すると、その骸はすーっと何処かへと飛んで行った。なに、簡単なことを言ったまで。さっきあたしを見下したあの女の元へと行き、あたしをこうさせた元凶を苦しめてきなさいと言っただけ。これで、あの人は毎日苦しむことでしょう。そしてあの人がいなくなったらきっとあたしは……。そう考えただけで笑いが止まらなかった。あたしを苦しめた人を呪ってやる……呪ってやる……。
「抵抗なんかしないで、楽におなりなさい」
 誰に投げかけたわけでもなく、六条御息所は嬉しそうにつぶやいた。今まで自分を押し殺してきたものがここにきて数多の骸を呼び寄せ、恨めしい人にむけてけしかける。これで苦しみながら過ごしていくのかと思うと、嬉しさと楽しさが重なり盛大な笑い声へと変換される。
「苦しみながら生きなさい。それがあなたの償いです」
 怨恨を含んだその言葉は骸を大きくさせ、さらなる憎悪を生み出し相手を苦しめる。今まで抑えつけていた感情が爆発した瞬間、六条御息所はぴたりと止まった。そして、頬から一筋の雫が流れた。
「こんな苦しい思いをするくらいなら、いっそ出会わなければよかった……あたしが出歩かなければ……鼻緒が切れなければ……こんな思いをしなくてもよかったのかもしれない……あぁ……あなた様……好きなのに憎い……なぜにこんなにも苦しいのでしょう……この苦しみはきっとあたしの罪でもあるのでしょうか……あなた様……」
 愛憎の均衡が保てず、ぼろぼろと雫を零しながら六条御息所は静かに顔を上げた。そこにはあの日、牛車から見た藤の花が揺れていた。
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