恋歌煎餅【竜】

文字数 3,633文字

 竜人族が住まうのどかな集落。里の中には鶏を放し飼いをし、あちこちでこっこと鳴いている。集落から少し離れた畑では秋に向けて田植えの準備をしている人がちらほらいた。足首まで泥につかりながら一本一本丁寧に田植えをしている姿はとても高齢とは思えないくらいに美しかった。天気が良いのか、田植えをしている人のほかに縁側のんびりと日向ぼっこをしている人も何人か見受けられた。
 その何人かの中に一人、凛とした佇まいの少年がいた。炭のように真っ黒な髪を腰まで伸ばし、髪色と同じ胴着を着てお茶を飲んでいる。名前はシノノメ。武術主に長刀を得意とし、この里の中では一番の腕っぷしを誇っている。通っている道場も師範と肩を並べるくらいの実力で、生徒しあるいは教える立場として日々過ごしている。
 そんなシノノメ。実は気になっている人がいる。その人物は、この里の中でもとびきり美しいと評判の少女で、立ち振る舞いから言葉遣いまでに至るまでが美しいという。シノノメと同じくらいの少年は皆、口々に「いいなぁ。きれいな子だなぁ」と言っていた。最初はそこまで気にしていなかったのだが、里の茶屋で団子を食べているときにその少女が通り過ぎていくのを見たシノノメは、思わず団子を落としそうになった。
「……美しい」
 ただ通り過ぎただけ。それだけなのだが、シノノメの頭からはその少女が離れなかった。来る日も来る日もその少女のことがきになっていたシノノメは、友人のその少女のことについて尋ねてみた。すると、この里から少し離れた雑木林を抜けた先にある豪邸に住んでいるということがわかった。それと同時に、その豪邸に住んでいる少女の父親はとてつもなく厳しい人だというのも知った。
「門限や作法などもその人から教わったのかもな」
 友人の一人はぽつりと呟いた。きっとその父親は、どの家に嫁いでも恥ずかしくないように心を鬼にして育ててきたのかもしれない。シノノメは少し引っかかる部分もあるが、その友人からの一言でより少女のことが気になりだした。茶屋で見かけたら声をかけてみたり、家の前で稽古をしているときに声をかけてみたりと続けているうちに、少女も次第に心を開いていき話すようになった。
「なぁ、少しだけ茶を共にしないか」
 自分でも思い切ったことを言ったなと思いながら返事を待っていると、少女は小さくこくんと頷きシノノメの隣に座った。一緒に団子を食べ、茶を飲み話を交わしていくうちにシノノメの気持ちは確信へと変わった。
(おれはこの子のことが好きだ)
 もう何度目かの茶屋での会話で、お互いが自然と会話ができるようになったとき、シノノメは思い切って気持ちをぶつけてみた。すると、少女は驚いたのか目を見開きながら口元を抑えていた。
(まずかったのか……?)
 シノノメの不安は的中することはなかったが、その代わりに少女の口から思いもよらない言葉が発せられた。
「もし……もし、わたしとの交際を望んでおられるのなら……わたしのお父様の申し出を受けなければなりません。それでも……それでもよろしいですか?」
 このときのシノノメに迷いはなかった。胸の奥から溢れる気持ちに嘘はつきたくないと思い、シノノメは少女の問いに力強く頷いた。すると、少女は「今からでも宜しいですか?」と言い茶屋を出て行った。どういうことかわからず、とりあえず少女の後についていくとそこは少女が住まう家だった。少女がここで待つよう合図をし中へ入って行ってしばらく、玄関が開き中へ入るように促された。シノノメは急に緊張し、さっきとは違った緊張感を覚えていた。履物をきれいに揃えてから辺りを見回すとどこもかしこもがきれいに整っていた。絵画ひとつについても、花を活けている花瓶についてもどれもこれもが恐ろしいほどに整っていた。つい辺りをきょろきょろしながら中へと進んでいくと、襖で仕切られた一つの部屋へと案内された。少女は腰を下ろし、ゆっくりと襖を開けるとそこにはまるで巨大な山のような人物が目を閉じたまま正座していた。その人物が目を開き「入れ」というと、シノノメの背中はぞくりとした。たった一言でここまで背筋がぞくりとするというのは……と不安に思いながらゆっくり中へと入った。中はまるで道場のような板の間だった。きれいに磨かれた板の間は日の光を浴び、自分が通っている道場とはまた違った輝きを放っていた。
「お前か。うちの娘と恋仲になりたいという者は」
「は、はい」
 重く響く声に怖気づきならがも、シノノメは自分の気持ちに嘘偽りなく答えた。すると、少女の父親は無言のまま壁にかけてある木剣を手にし、構えた。
「ならば、このわしを打ち負かせてみよ。できなければ……認めん」
 ただでさえただならぬ雰囲気を放っているというのに、木剣を構えたときに放たれた殺気は凄まじく普通の人であればここで退くのだが、シノノメは違った。本気でこの少女と恋仲になりたいという思いを伝えるため、使い慣れている長刀を手にし構えた。緊張感が一気に張り詰めたものとなり、シノノメは呼吸をするのに苦労した。ただ気を抜いてはやられてしまうという気持ちを忘れず、少女の父親と対峙した。
「言っておくが、手加減は無用だ。本気でかかってこないと、お主が痛い目を見ることになる」
「わ、わかりました。では……参るっ!」
 先に動いたのはシノノメだった。下から突き上げるように長刀を振るうと、父親はそれを軽く弾く。弾かれた力を利用し、今度は振り向き様に払おうと体を回転させた。するとその間に殺意を纏った木剣はシノノメの目の前にあった。寸でのところでそれを回避し、父親と距離をとった。
(あのまま体を捻っていたら……)
 ほんの数秒前のことを思い出し、さらに背筋を凍らせたシノノメ。そんなシノノメを無視するかのように父親の木剣は猛威を奮った。やがて防戦になってしまったシノノメに父親は「残念だ」と言うと、渾身の一撃をシノノメに叩き込んだ。
「ぐはっ!」
 強烈な一撃に耐え切れないシノノメは、そのまま道場の壁に叩きつけられた。その衝撃は凄まじく、しばらくは自身の手足を自由に動かせないほどだった。
「お主の実力は聞いておったが、まだまだ足りん。出直してこい」
「……っ!」
 これ以上はやっても無駄というのを言われなくても悟ったシノノメは、ただ唇を強く噛みしめることしかできなった。唇から血が滲むまで何度も何度も強く噛みしめた。やがて嗚咽が混じり、道場にはシノノメと少女二人だけが残った。

「これは……おれの実力不足が招いたことだ。もっと精進せねば……」
 まだ夜が明けない時間。シノノメは長年お世話になった自宅に別れを告げ、自身を磨く旅に出ることを決意した。強くなって戻ってきたとき、また勝負を受け付けてくれるかはわからないが……それでも、シノノメは少女に対する思いは真剣そのものだった。静かに自宅の戸を閉め、誰にも別れを告げずに里を出ようとしたとき、里の入り口に人影が見えた。その人影は近付くにつれて段々とはっきりし、それがあの少女だということに驚いたシノノメはどうしてここにいると尋ねた。すると、少女は目に涙を浮かべ、シノノメに抱き着いた。
「わたしも……わたしもあなたのことが……だけど、お父様が……」
「……すまない。おれにもっと実力があれば悲しませることはなかったのだが……」
「……」
 少女は無言で首を横に振った。少女が泣き止むまでしばらくしていると、少女は涙を拭いながらシノノメに一着の着物を手渡した。それは赤を基調とした春を思わせる色とりどりの花が描かれた着物で、一目で女性ものの着物であるというのはわかる。シノノメが首を傾げていると、声をしゃくりあげながら少女は言った。
「この着物を、わたしだと思って連れて行ってくださいませんか」
「だ、だがしかし……道中で傷ついてしまったり破れてしまったりするかもしれない。こんな上等な着物を……」
「いいんです。そのときに受けた傷や破損は、わたしの痛みでもあるのです。あなたが受けた痛み、わたしにも受けさせてください。一緒に行けない代わりに……どうか」
 少女の思いを受け取ったシノノメは、さっそくその着物に左半分に袖を通した。今まで自分が着ていたものよりも着心地がよく、肌触りもよかった。こんな上等な着物を贈ってくれた少女に感謝をしてもしきれないシノノメは、少女の手を握り誓った。
「いつ戻ってくるかわからない。だが、必ず戻ってくる。今よりも強くなって帰ってくる。だから……それまで待っていてくれるか?」
「……はい。何年でも待ちます。どうか……どうか無事で帰ってきてください。シノノメ様」
 最後に優しく少女を抱きしめ、何も言わず里を後にしたシノノメ。振り返ることもせず、ただ真っすぐに前を向き一歩一歩踏みしめて。少女はシノノメの姿が見えなくなるまで何も言わず見送った。どうか無事に帰ってきますようにと強く強く念じながら。
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