夜桜わらび餅【魔】

文字数 4,190文字

 一本の桜の木の下で舞い散る桜の花びらを見ている一人の妖(あやかし)がいた。名は虎桜丸(こおうまる)。人に危害を加えない大人しい妖で、この付近に住んでいる村の人はみな虎桜丸のことが大好きだ。陽気な性格でノリもよく、人と話すことはもちろん話を聞くことも大好きな半獣半人(虎と人間のハーフ)である。頭のてっぺんからはピンと尖った虎の耳、爪は鉤爪のように鋭く尖っている。腰のあたりから伸びるしましまの尻尾は嬉しそうに横にふりふりしている。がっしりとした体躯は人でありながら獣のようにしなやかな筋肉がみっちりと詰まっているようにも見える。
 そんな人に対して危害を加えない虎桜丸だが、過去には

元気が過ぎたときがあったという話がある。今は亡きこの村の長であった人物によって改心した人と半獣半人のお話。

 ある月夜が美しい晩。まだ虎桜丸に名前がなかったときまで遡る。虎桜丸は屋根の上を獣のように駆けていた。両手両足をしっかり使い、人でありながら獣のように駆ける姿に、見かけた村の人は大きな声をあげて驚いた。
「そんなにおれが珍しいかよ」
 低く唸るように虎桜丸は言った。そんなに驚く人間のほうがよっぽど珍しいやと思いながら駆け続ける虎桜丸。屋根の切れ目で大きく跳躍し、次の屋根の上に着地をし変わらぬ速度で駆けた。やがて虎桜丸の視界に目的のものが映ると、虎桜丸はふふんと鼻を鳴らしさらに速度を上げた。それは月の光に照らされた大きな桜の木だった。虎桜丸はその木を抜いて自分の寝床に持っていこうとしていたのだ。
「こんなにきれいな木が寝床にあったら……最高じゃねぇか」
 そう考えるだけでわくわくが止まらない虎桜丸はラストスパートとばかりに屋根を力強く蹴り、跳躍。まるで一枚の絵画になりそうなその美しさに、見上げる村の人たちは驚きよりも感嘆の息を漏らした。
「……きれいだ」
「敵ながらあっぱれじゃのう」
 村を象徴する桜の木を盗もうとする虎桜丸に憤慨していた村の人は、このときだけ月夜と桜、きれいに跳躍する虎桜丸が一体となり美しい瞬間を生んだことに感謝をしていた。そのきれいな跳躍も、重力の前ではやがて終わりを迎える。鮮やかな着地をした後、虎桜丸は桜の木目掛け駆けた。これであの桜の木はおれのものだと核心した虎桜丸の思いは、一人の老人によって阻まれた。
「おいじいさん。そこをどきな。でなきゃ八つ裂きにしちまうぜ?」
「ほっほっほ。元気のいい若者じゃのう。わしはそういうの好きじゃのう。だがな……」
 白い和服を着た老人は右手にある杖をすっと虎桜丸に向けた。向けられた虎桜丸は一瞬、刃物かなにかを向けられたかのような錯覚をし、半歩後退った。向けられたものが何か確認した虎桜丸は驚いた。向けられているのはただの杖だった。なのに、なんでこんなにも近づいてはいけないと体が言っているのか。
「みんなが大事に育てたこの木を奪うというのであれば……容赦せんぞ」
 口調は穏やかなのだが、なぜだかその穏やかさが怖い。人間にしては半端ない殺気を放っているとわかった虎桜丸は、ここまで来て退くわけにいかないとばかりに獣の力を発揮し老人に飛び掛かった。
「それはおれのものだ! もう容赦しねぇ!」
「この戯けがっ!」
 飛び掛かってくる虎桜丸の腹を目掛け、老人は杖を横に薙いだ。覇気を纏った杖は虎桜丸のちょうど肋骨あたりに直撃すると、虎桜丸はまるで肺の中にある空気を衝撃によって絞り出された感覚になり、次いで視界がぐらりと歪んだ。遅れて脳に酸素が供給されていないせいで思考も追いつかない状態で地面に伏した。
「て、てめぇ……ふざけんなよ」
「ふざけているのはどっちじゃ。この馬鹿者」
「ばっ!?」
 まさか自分が人間に反撃されると思っていなかった虎桜丸は、老人に見下されていた。今までに味わったことのない屈辱に唇を強く噛み締めた。噛み締めた個所から赤い液体が伝い、地面にぽたりと落ちた。老人の反撃が思いのほか効いたのか、虎桜丸はしばらく体を起こすことができずにただ老人に見下されることしかできなかった。
「さっきも言ったであろう。この桜の木は、村のみんなが大事に育てたものだと。そんな大事な桜の木をお前のようなものに渡すわけなかろう」
「……くそ……くそ……」
 虎桜丸は悔しいのか、拳を握りしめ何度も地面に叩きつけていた。そして老人を見ている目からは涙を流していた。涙を流していることに気が付いた老人はゆっくりと虎桜丸に近付き膝をついた。
「……やるならひと思いにやれよ」
「何を言うておる。そんなことはせん」
「へっ。敗者に情けは無用だ」
「……ちょっと爺の話を聞いてくれるかの」
 そういった老人は虎桜丸の隣にどっこらせと腰を下ろし、虎桜丸と一緒に桜を見ていた。そして静かに口を開いた。
「わしが生まれたときにはもう、この桜は立派になっておっての。毎年こいつが咲く季節は村のみんなで飲んで歌って踊ってのどんちゃん騒ぎじゃった。そうして村のみんなで春を迎えることが楽しみになってな。早く暑い季節が終わらんか、早く木枯らし吹き去ってくれんか、早く凍える季節終わらんかって言いながら過ごしておったんじゃ」
 夜風に揺れる桜の木を見ながら、どこか物悲しさを含ませながら老人は虎桜丸に語り掛ける。そんな話を虎桜丸はただ静かに聞いていた。さっきまでの殺気もなく、これなら大丈夫だと判断したのかもしれない。肋骨あたりに響いていた痛みも徐々に引いていき、虎桜丸は安定した呼吸を取り戻しながら耳を傾けていた。
「春が来て、夏、秋、冬。そしてまた春が来て……。季節は移ろい、人は老いていく。はて、わしはあと何回この桜を見ることができるのかの」
「……」
「わしが言いたいこと、わかってくれるか?」
「……おう」
「わかってくれて嬉しいの」
 頬を緩ませた老人の笑みを見た虎桜丸。その笑顔を見てこの木を奪うということは、この老人はたまた村のみんなの楽しみを奪ってしまうということに気が付き、今更ではあるが申し訳ないという気持ちが胸を支配していた。
「……すまねぇ」
「いやいや。わかってくれただけで十分じゃ。ところで、お主はなんて名だ」
「おれにそんなものねぇよ」
「そうか。だが、名前がないと何かと不便じゃて。この爺が勝手につけてもよいか?」
「……物好きだな」
 ほっほっほと笑いながら老人はさっきよりも強く吹く夜風に揺らぐ桜の木をじっと見た。そして唐突に口を開いた。
「……虎桜丸」
「……は?」
「今日からお主は虎桜丸じゃ。屋根の上を駆けていた姿は堂々たる虎、そしてこの桜咲き乱れる月夜に出会えたことに感謝の意を込めて……な」
「虎桜丸……か。へっ。悪くないぜ。じいさん」
「そうかそうか。それとな虎桜丸。早速で悪いんじゃが、この老いぼれの最後の願いだと思って、ひとつ頼まれてくれないか」
 老人は虎桜丸からの返答を聞く前にひとつの願いを口にした。それは、自分に代わってこの桜を愛でてほしいというものだった。「縁起でもねぇ」と虎桜丸は首を横に振ったが、老人は真っすぐ虎桜丸を見据えていた。その正直な瞳に折れたのは虎桜丸だった。「しょうがねぇ」と言い老人からの願いを受けるとゆっくりと体を起こししばらくの間、老人と大きな桜の木を眺めていた。
 老人と桜を見て数日後。老人の訃報を知った。妙な胸騒ぎがして虎桜丸が駆け付けたときには、すでに村の中は悲しみに溢れていた。それは虎桜丸も同じで、つい先日、一緒に桜を見ていたというのにこんなにも早く旅立ってしまうなんて。虎桜丸は先日、あの老人から屈辱の味を教わったばかりだというのに、今度は悲しみを味わった。
「……おいじじい。おれにどれだけ教えてくれんだよ……ったく」
 目頭が熱くなり、虎桜丸は片手で顔を覆った。老人から放たれた言葉が何度も何度も虎桜丸の頭の中を横切っていき、ひとつひとつが胸に深々と突き刺さる。一度しか会っていないというのになんでこんなにも悲しいんだ。最後に見たあの笑顔は忘れることができない。いや、忘れてはいけない笑顔だ。まだ熱い目頭をそのままに、虎桜丸は悲しみに暮れる村の人に向けて声を張った。
「おいてめぇら。いつまでもめそめそしてんじゃねぇよ。そんなんじゃ、あのじいさん。いつまでも安心できねぇよ。そんなんじゃ……あのじいさんが好きな春って季節を迎えらんねぇよ。だから……だから……よそ者が言うのもなんだけどよ、笑って送り出そうぜ」
 人であり獣でもある虎桜丸の言葉に、すすり泣く声は段々なくなり次第に決意に満ちた顔になっていった。そして虎桜丸に向かってうんと頷いた。
「へへっ。いい顔できんじゃねぇか。これからはじいさんに代わっておれがこの村、守ってやる。それがおれができる唯一の恩返しだ」
 虎桜丸は親指で自分の胸を突き、宣言。この発言に少し疑問を感じた村人もいたが、それは虎桜丸自身で解決していくと重ねて宣言をすると納得した。これからはこの村に貢献していくことを宣言した虎桜丸は、これをきっかけに寝床を村の近くへ移動しいつでも村へと駆けつけることができるようにした。そして村の人たちが困っていないか定期的に見回り、困っていればすぐに手を差し伸べるという行いを続けて数か月。すっかり村の人たちと打ち解け、まるでご近所さんのような身近な存在になっていた。
 一日の終わりを感じながら、虎桜丸は夜空を見上げていた。季節は間もなく春がやってくる。この寒ささえ乗り越えればきっとまたあのきれいな桜をみんなで楽しむことができる季節がやってくるのだと思うと、今からその気持ちが抑えきれない。
「……じいさんが感じていた気持ちってこんなんだったのかな。今ならわかる気がする」
 春が待ち遠しいと言っていた老人。あのときに感じていた老人の気持ちを、虎桜丸は少しでも似た感覚であって欲しいと思った。そして、春が来るたびに思い出すあの言葉。

 ─今日からお主は虎桜丸じゃ。屋根の上を駆ける姿は堂々たる虎、そしてこの桜咲き乱れる月夜に出会えたことに感謝の意を込めて……な。

 名前がなかった自分に名前をくれた老人の穏やかな口調が蘇ってくる。自分に色々教えてくれた上に名前までくれた老人に虎桜丸は小さく言った。
「じいさん。もうすぐ……また春が来るよ。そうしたら、また一緒に桜……見ような」
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