氷霧冷菓

文字数 5,042文字

「……休暇だと?」
「ええ。閻魔様もお体を休める時期かと思いまして」
「……ふうむ」
 書類の上を走らせていたペンを止め、しばし考え込む女性─閻魔大王。皺ひとつないぱりっとした白いブラウスに黒色のパンツ、やや高めのハイヒールを履いた一見キャリアウーマンのように見えるが、地獄を管理しているお偉い様である。さらさらに整ったピンク色の髪をかき上げ、しばらく考え始めた閻魔大王のそばでゆっくりと口を開いたのは助手の男性─小野篁(おののたかむら)だった。
「今、ちょうど盆の季節でもあり地獄も落ち着いております。ですが、それは一時に過ぎません。ここでお体を休めておかないと、間もなく帰り盆が参ります。そうなってしまってはここは大変混雑されることが予想されます」
「……そうだったな」
 確かに今、書類の仕事が激減しているなと思っていたのだがそうだったということに気が付いた閻魔大王ははっとした。なるほど篁の言うことも一理ある。だが、休みといわれてもなにをしていいかわからない閻魔大王は困った表情を浮かべた。
「でしたら、お祭りなどはいかがでしょう」
「……祭りだと?」
「ええ。我々の住む地上ではそういった催しがあるのですが……如何でしょう」
「祭りか……どういったものか気になっていたところだが……準備は……」
 前から気になっていたという祭りに心を弾ませるも、すぐにその準備について篁に尋ねると、涼しい顔をして「お任せください」と一言だけ言い、恭しく頭を垂れた。
「お前のことだからきっと睡眠を削ってでもするだろうが……無理はするでないぞ」
「もちろん。そのつもりです。では、わたしは準備に取り掛かります」
 何枚かの紙とペンを持ち、篁は閻魔大王の部屋を後にした。一人になった閻魔大王はどんな催しなのか今から楽しみでならなかった。

「閻魔様。閻魔様。起きてください」
「……あ。いかん。眠っていたのか」
「ずいぶん、お疲れのご様子でした」
 篁の声で目が覚めた閻魔大王は、目をこすりながら辺りを見渡した。そこはいつもと変わらない魂の罪を裁く広間であることには間違いはなかった。だが、少しだけ違い箇所がある。それは、外がやけに騒がしいというところだった。普段の地獄は静かすぎて逆に煩いのだが、今は音のある騒がしさに違和感を覚えていた。
「なんだ。この音楽は」
「これはお祭りを盛り上げるためのものです。ささ、閻魔様。こちらをお召ください」
「なんだ。随分と彩りが豊かな布だな」
 篁から受け取ったのは小さな可憐な花が描かれた布だった。それと妙に長い帯のようなものだった。それを篁は着衣方法が書かれたメモを渡すと、着替えるようにお願いをした。
「な、なぜだ。出かけるならこのままでもよかろう」
 恥ずかしがる閻魔大王に、篁は首を横に振り否定した。
「いいえ。雰囲気を味わうにはこの着物は必須です。どうか、篁のわがままを……」
「……仕方ない。初めてだから少し時間がかかるやもしれん」
「ええ。お待ちしております」
 そう言い、閻魔大王は布と帯と他一式の入った袋、篁から渡されたメモを持ち自室へと戻っていった。扉の閉まる音が聞こえ、篁は小さく息を吐いた。
「気に入ってくれるとよいのですが……」
 眼鏡の位置を直しながら、篁は誰もいない広間の天井を仰いだ。

「ま……待たせたな」
「いえいえ。お気になさらず……おお」
「そ、そんなにじろじろ見るな」
 普段は下ろしている髪を飾りのついた金属製の髪留め─かんざしで結い上げ、普段とは雰囲気の違う装いの閻魔大王に、篁は思わず声をあげた。紺地には淡いピンク色をした朝顔が描かれた浴衣に薄紫色の帯、赤色の鼻緒の下駄で現れた閻魔大王は履きなれない下駄に戸惑いながらゆっくりと篁の方へと向かった。
「この、下駄という履物は随分と歩きにくいのだな」
「慣れるまでの辛抱です。でも閻魔様。そのまま、外で歩いてみてください」
「外だと?」
 篁に言われるがまま、室内から室外へ出ると下駄特融の音が耳に響いた。

 からん  ころん  からん ころん

「この下駄からなのか。この音は」
「ええ。不思議な音でしょう」
「……ああ。悪くない」
 さっきまで不安な表情だった閻魔大王の顔は少しだけ晴れ、今では篁の手を取りながら賑やかな音楽の鳴る会場へと足を向けていた。ゆっくりではあるが確実に祭りの会場へと向かっている閻魔大王がふと足を止めた。
「なんだこの数は……」
 閻魔大王の視線の先には、数えきれないほどの出店と呼ばれる小さな販売店が軒を連ねていた。真っ赤に熟れた果実や透明な袋に入った飲み物、ふわふわの雲のような甘いものなどが閻魔大王の鼻と目を心地よく刺激した。
「これを……お前はまた一人で」
「これくらは何とでもなります。大事なのは、閻魔様が楽しんでいただけるにはどうしたらようか、それだけを考えました」
 この小野篁という人物。人間でありながら昼は人間界で、夜は地獄で働くというかなり変わった人物。仕事だけに目を向けていた閻魔大王に作業スペースを手配したり、効率よく仕事ができるよう色々と提案をくれたのも篁だった。今では篁のサポートあっての仕事となり、閻魔大王にとっては欠かせない存在となっていた。
 そして今回のお祭りの件。閻魔大王が楽しむにはどうしたらよいかを優先的に考えた結果、数多くの出店を出し、賑わいを持たせたり音楽を奏でたりと手配をしていた。その手際の良さは最早恐怖を覚えるほどだと、閻魔大王はいつか呟いていた。
「さ、閻魔様。行きましょう」
「え……あぁ」
 篁に手を引かれ、弱く引っ張られるように続く閻魔大王。落ち着いて閻魔大王の手を引く篁、反して辺りを見回す閻魔大王。そんな二人に出店の主人たちは元気よく声をかけた。
「焼きそば、いらないかい?」
「綿菓子、出来立てが一番美味しいよ」
「りんご飴、大きいの用意してあるよ」
「鈴かすてら、今ならサービスしちゃうよ」
 閻魔大王は何か気になったのか、篁の手をきゅっと握りながら「少し待ってくれないか」と言い、足を止めた。
「どうかなさいましたか」
「ああ。少し気になったものがあってな」
「どれでしょう」
 今度は逆に閻魔大王が篁の袖を引くように歩くと、閻魔大王は「ここだ」と言い指さした。暖簾には「たこ焼き」と書かれており、店内では元気な店主が慣れた手つき二本の金具で丸いものをひっくり返していた。
「いらっしゃい! 今なら出来立てだよ」
「篁。これ、いいか?」
「もちろんです」
 暖簾をくぐり、閻魔大王が嬉々としながら丸い物を指さしながら作られている工程を見ていた。液体を丸い型の中に流しいれ小さく切られた赤い食材を入れ、しばらく放置。店主がタイミングを見計らい、ころころと丸い物をひっくり返すと香ばしい音が閻魔大王の耳をくすぐった。それを追いかけるように食欲をそそる香りが閻魔大王の表情を緩ませる。
「ほい! 熱いから気を付けてくれよ!」
「あ、ああ。あっつい!」
 丸い食べ物の上に黒い液体と薄く削った茶色い紙のようなものが楽しそうに踊っている様を、熱がりながら眺めている閻魔大王に篁は薄く笑った。
「閻魔様。これはたこ焼きという食べ物です。よく冷まして食べてください」
「わかっている。では、どんなものか……はふっ」
 細い棒を突き刺し、熱気を飛ばしながら口へ運ぶ閻魔大王。その表情はいつも見せる真剣な顔とは別の、どこか少女のようなあどけなさだった。
「はふっ……ほ……本当だ。中が……かなり熱い……でも、美味だな」
 口をもごもごさせながらも舌鼓を打つ閻魔大王に、篁は「それはなによりです」と小さく頭を垂れた。その後も食べごろになったたこ焼きを食べ終えた閻魔大王は満足そうに息を漏らすと、店主に「馳走になった」と挨拶をしたこ焼き屋を後にした。その後もいくつかの店を見て回り、楽しそうにはしゃぐ閻魔大王を見た篁は心の中で「思い切ってやってよかった」と呟いた。

「はぁ。祭りとはこんなに楽しいものなのか。知らなんだ」
「お気に召しましたか」
「ああ……。大満足だ」
 すっかり心が満たされた閻魔大王からはあの厳しい顔はなく、篁の目に前にいるのは自然に笑っている一人の女性だった。小さな丸椅子に腰を下ろし、足をぱたぱたさせ天を仰いでいる閻魔大王を横で見ている篁は何を思っているのだろう。その表情は少し憂いたものを帯びていた。
「さ、そろそろ広間に戻るとするか」
 閻魔大王がゆっくりと立ち上がり、広間へと向かおうと出店地帯を出たときだった。突然、閻魔大王がバランスを崩し、前へつんのめった。
「いたたた……なんだ。何が起きたのだ」
「大丈夫ですか。閻魔様」
「ああ。私は大丈夫なのだが……」
 そういって閻魔大王の視線を辿っていくと、閻魔大王が履いていた下駄の鼻緒が切れていた。篁はすぐに跪き、閻魔大王に片足を自分の膝の上に置くようお願いをした。その間に鼻緒を直せるかもしれないと思った篁だが、作業は困難を極めた。あともう少しというところまで修理はできたのだが、その先がどうしても直すことができない。どうしたものかと考えた結果、篁は壊れた下駄を自分の鞄にしまい、閻魔大王に背を向けて低く屈んだ。
「閻魔様。どうぞ」
「な……なにをしてるのだ」
「どうやらわたしでは下駄を直すことはできなようなので、こうするしかないのです」
「な……な……」
 篁は閻魔大王をおぶろうとしているのだが、閻魔大王は頬を赤くしながら言葉に詰まっていた。だが、こうしても埒があかないと観念し閻魔大王は篁に一言断り、篁の背中におぶさった。
「では、しっかりつかまってくださいね」
「た……たたた篁。その……お、重くないか。重かったら言ってくれ」
「そんな。滅相もない」
「そ……そうか。それなら……いいが」
「閻魔様。申し訳ないです」
 突然、篁が謝った。まさか謝られるとは思っていなかった閻魔大王は「なぜ謝る」とその理由を問うた。すると、悔しそうに唇を噛みしめながら口を開いた。
「わたしのチェック不備で閻魔様に不快な思いをさせてしまいました……。申し訳ございません」
「な……なんだ。そんなことか。別に謝らなくてもよい。気にするな」
「で、ですが」
「お前は私を楽しませようと色々と工夫をしてくれている。その事を十分知っている。だから……その……謝るな」
「……はい」
 すべてを完璧にこなそうとする篁。手を抜くことを許せない性格故なのか、こういった事態があると自分を責めてしまうというところがある。業務に大して支障をきたすものでなくても、何か小さなミスがあるとこうもしょげてしまう。気にしなくてもいいと言っても、中々頑固なのかしばらくは渋い顔をすることがある。
「篁。お前の働きは私が一番知っている。だから、そうしょげるな」
「……はい」
「それにな、お前は少し気張り過ぎる部分がある。だから、ほんの少しでいいから緩めていいんだ。でないと、お前が辛くなるだけだぞ」
「……はい」
「そ……それにだな。私には……その……お前がいないと……困る……というか、なんだ……その」
「……閻魔様?」
「とっ、とにかく! お前はもう少し余裕のある構えがあってもいいという事だ!」
 急に語気を強め発する閻魔大王に驚きながらも、篁はその言葉を耳にするとどこか救われたような表情へと変わった。なぜなら、人間界にいるときはミスが許されないことばかりだから。それが続き、いつしか地獄でもそれをしなくてはいけないと思い込んでいた。しかし、地獄ではそこまで厳しい規定は設けていない。というか、閻魔大王がそういったことを仕切っている以上、篁は補佐でしかないから。人間界では自分が主に、地獄では補佐という役割の切り替えが上手くできていなかったということに気が付いた篁は、閻魔大王に聞こえないよう感謝の意を伝えた。

 広間まで戻った篁は、そのまま閻魔大王の自室付近までおぶっていこうとしたが「ここまでで良い」と閻魔大王に言われ、ゆっくりと屈んだ。地に足が着いた閻魔大王は下駄を手で持ち、素足のまま自室へと向かうと言って篁に背を向けた。
「篁」
「はい」
 名前を呼ばれた篁は反射で背筋をぴんと伸ばし、その場で直立をした。その声はいつもの緊張感のあるあの声だった。
「……楽しかったぞ。また企画してくれると嬉しい」
「は……はい。ぜひ」
「世話になったな。ありがとう」
 そう言い残し、閻魔大王は広間を後にした。一人残った篁は静かになった広間にいつまでも立っていた。
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