五芒餅

文字数 2,405文字

 その男は強く降る雨の中、荷台を引いていた。中には命の次に大事な商品が所狭しと積まれていた。もちろん、悪天候でも移動ができるよう、荷台には大きな布がかけられて商品を濡らすまいとピンと強く張られていた。
 雨よけの蒲葵傘(びろうがさ)の端から大粒の雫が次から次へと落ち、冷え切った足の甲を何度も叩く。右足、左足とただ単純に交互に出せばいいだけだと男は自分に言い聞かせ、少しずつ少しずつ前へと進む。立ち止まっていいが、諦めてしまっては生活ができない。この商品すべて販売することができればしばらくは困ることはないと更に言い聞かせ、男は貴族街のある方向へと歩いた。
 目的の場所に到着ができたころには、雨脚はさらに強くなり視界を遮ってしまうほどにまでなった。間一髪とつぶやきながら、男は蒲葵傘をとり頭についた水分をぶるると振るい落とした。まだ体が濡れてしまっているが、大事な商品が濡れていないかを確認するためにピンと張られた布の隙間から中の様子を伺う。
「よし。濡れてない」
 心配していたことがすぐに払拭されたことに安心した男は、荷台にもたれてしばらくも経たないうちに睡魔に襲われ、その睡魔に誘われるまま瞼を閉じた。優しい声に導かれるがまま瞼を閉じると、あっという間に深い眠りへと落ちていった。

 目が覚めると、心配そうに男の顔を覗き込む貴族の女性がいた。慌てて立ち上がり経緯を話すと、その女性はそうだったのですかと言い、その場から立ち去って行った。
「……いつの間に眠っていたんだ……」
 荷台をそのままにし、窓から外を見ると昨日までの豪雨が嘘のよう、雲一つないきれいな青空が広がっていた。これなら商売もきっとうまくと核心した男はうんと頷き、荷台を外に引きながら声を張った。
「さぁさぁ、優雅な時間のお供に読み物や絵巻物は如何かな。数多く用意しておりますのでどうぞお集まりください」
 その声に誘われた貴族たちはあっという間に、男の周りを取り囲みこれはどんなものだこれは面白いのかと矢継ぎ早に質問を受けていた。男は聞きこぼすことなく質問に答えている間、貴族の男は一つの絵巻物に惹かれ手に取った。紐を解き中を見ると、そこには桔梗の花が咲く庭の真ん中に美しい女性が描かれた絵巻物だった。その女性は目を閉じ、黙想をしているように見えた。貴族の男はその様子を気に入り、声を張っている男に声を掛けその絵巻物を購入した。貴族の男は絵巻物を大事に抱え、自分の家へと帰っていった。
 貴族の男は自室で購入した絵巻物を広げて眺めていると、寝室の方から何かが割れる音が聞こえた。男がそれを確認しようと部屋を出たとき、絵巻物に描かれた女性の口元が微かに持ち上がった。寝室から戻った男は特に問題ないと思い、椅子に腰を下ろすと今度は男の部屋に召使いが入ってきてなにやらひどく慌てた様子で固まっていた。
「ど……どうしたのだ。そんなに慌てて」
「お……お……嬢様が……た……」
 普段は物怖じしない召使いがここまで狼狽えているということはただ事ではないと思った男は、足元がおぼつかない召使いに案内を受けて着いた先では娘がうつ伏せになって倒れていた。
「お……おい! どうした!! 何かを詰まらせたとかではないのか??」
「い……いえ。お嬢様は……私の目の前で突然倒れて……そのまま動かないのです……」
「おい!! 目を覚ませ!! おい!!! 医者を呼べ!! 早くっ!!」
「は……はい!!」
 立て続けに起こる奇怪なことに唸りながらも、男は娘が息を吹き返すことを信じながら医者の到着を待った。どうすることもできないことに男は苛立ち、何度も地団駄を踏み今か今かと医者の到着を待っていると、血相を変えた医者が到着し娘の容態を確認した。いくつか確認した後、医者は静かに首を横に振った。たったそれだけですべてを悟ってしまった男と召使いは膝を落とし、泣き崩れた。医者は小さく何かを呟きながら部屋を出て音もなく扉を閉めた。
 目を腫らしながら自室へと帰り、力なく椅子に座ると男の耳元で誰かが笑っているような声が聞こえた。はっとし、男は辺りを見回すも誰もいない。しかし、確かに女性のくすくす笑う声が聞こえた男は注意深く見て回ると、一つの可能性を導き出した。
「まさか……そんなことは……」
 男は震える手で絵巻物を取り、驚愕した。購入前に見たときはこの女性は目を閉じていたことは覚えている。しかし、今はうっすらと目を開けて口角がやや上がっている。誰かが描いた可能性はと考えたが今はそれを否定できる。今は自身と娘、それと外出している妻。隠れて描こうなんてできるわけがない。そうなると……と考えた男の背筋は氷のような冷たさを感じた。そして、不安の色を含めた視線は描かれている女性へと注がれると……その女性と目が合った。
「ひっ!!!」

 うふふふ うふふふふ

 楽しそうな女性の笑い声は、耳を塞いでいる男性の男に響いた。男は心の中で何度も何度も治まることを念じたが、そう念じれば念じるほど笑い声は高くなり止まらなかった。両手で目一杯耳を塞いでも聞こえてくる女性の笑い声に、ついに男性は発狂した。
 頭を抱えながら奇声を発し、焦点の定まっていない目から涙を流しながら廊下を走る男の耳元では女性の笑い声が響き、さらに男を狂わせる。廊下を走っている男の体が突然大きく脈打ち、男は胸を抑えながら苦しみだした。膝を着き、体を丸め呼吸を整えようと試みるもまるで金魚のように口をぱくぱくと動かすことしかできず、次第に男は呼吸することもできなくなりそのまま息を引き取った。
 それから数時間後。外出から戻った妻が倒れた旦那を見て悲鳴を上げた。何度も声をかけたり体を揺すっても返事はなく、妻は旦那の遺体の上にかぶさる様にして泣き崩れた。

 その悲鳴を聞いた絵巻物の女性は、目を開き嬉しそうに微笑んでいる姿を見たものは誰もいなかった。
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