踊る書き心地♪色鉛筆クッキー【神】

文字数 2,310文字

 そのマーメイドは海底から水面を見上げていた。波の揺らめきで歪む空は青く、澄み渡っていた。時々白い斜光が少女に差し込むと、少女は眩しそうに眼を細めた。マーメイド─イシュケはここ数日、水面を見ては深いため息を吐いていた。それはイシュケの胸に宿る小さな小さな願いのためだった。
「……わたしにも何かできないかしら」
 金色の髪がゆらり揺らめき、深い深い海の底のようなディープブルーの瞳はほんの少し潤んでいた。もう何度目かわからないため息を吐いたイシュケの傍に、親友であるレモラがそっと近づき音無き声でイシュケに問いかけた。すると、イシュケは小さく頷いた後、また空を見上げた。
「……うん。わたしね、少し前から思ってたことがあるの。レモラ、聞いてくれるかしら?」
 イシュケの問いかけに、今度はレモラが音無き声で返事をするとイシュケは一呼吸置いてから口を開いた。
「前に、この近くで女の子が溺れていたの覚えてる? たまたまわたしたちが近くにいたから助かったけど、もし、あの子の近くに誰もいなかったらって思うとこわくて。それでね、わたしにできることはないのかなってずっとずっと考えてたの。そしたら、ひとつ見つけたの。わたしのこの泳ぎを誰かの役にたつのなら……ってね」
 そこまで話したイシュケにレモラはそっと近付き、音無き声で拒否を表した。あまりにも危険だし、イシュケがそこまでするのがわからないとばかりに落ち着きなく水中で暴れていた。
「うん。レモラが怒るのも無理はないわよね。でも、この前みたいなことがあって、もしその子が泳げたら……助かるかもしれないし、もしかしたら泳ぐことで楽しいって気持ちが芽生えてくれたらもっと嬉しいなって思ったの。レモラ、わたしの我儘。聞いてくれる?」
 両手を合わせて懇願するイシュケに根負けしたレモラは、やれやれといった様子ですいとイシュケに近付き音無き声で「好きにやってみなさい」と発した。その反応を受け取ったイシュケはレモラに何度もお礼をし、すいすいと水面へ向かって泳ぎ始めた。水面に小さな飛沫があがり、イシュケの頭が出た先に友達のスプラが笑顔で迎えてくれた。スプラは不思議な笛を使ってたくさんの魚の指揮をとる少女で、今も海の上を魚の背に乗って待っていてくれたのだ。
「レモラの許可、出たんだ?」
「うん。ちょっと無理を言っちゃったけど……レモラは好きにやってみてって言ってくれた」
「そっか。それはよかったね。じゃあ、この手続き所はあたしが責任を持って提出してくるから、もう少し待っててね」
「何から何までごめんね。スプラ」
「いいってことよ。これでみんなが海に興味を持ってくれたら、あたしも嬉しいもん」
 へへっと笑いながらスプラは笛を吹くと、魚たちはある場所へと一直線に泳いでいった。スプラが持っている紙─入学届の校長室へと。

 後日、イシュケはオセロニア学園に入学することができた。そして、今回は特別に水泳の授業講師として任命された。生徒であり講師であるという不思議な立ち位置に驚きながらも、イシュケは嬉しさを体全体で表していた。気になる水泳の授業の場所は、イシュケが暮らす海の近くで行われることになった。学園からイシュケの住む海まで左程距離はないため、特に問題ないと判断されたようで、イシュケは一番心配していたことが解決して心の底から安心していた。
そして迎えた初日。たくさんの生徒が浜辺に集まり、各々準備体操をしていた。そこには今までイシュケが見ていた人間の他にも、耳の尖った種族や半人半竜など様々だった。うまく教えることができるか不安でいると、どこからともなく表れたレモラがイシュケに寄り添った。
「……うん。やれるだけやってみる!」
 応援してくれるレモラに元気づけられたイシュケは、意を決して水面から顔を出し参加してくれたみんなに挨拶をした。すると、みんな拍手で迎えてくれさっきまで抱えていた不安はどこかに吹き飛んで行ってしまった。準備体操を終えた生徒たちが次々に海に入っていき、イシュケは簡単に泳げる方法をいくつか紹介した。自分の泳ぎが役に立ってくれますようにと祈りを込めて生徒たちに教えると、生徒たちはすぐに泳ぎ方を理解しすいすいと泳ぎ始めた。
「みなさん、すっごく上手です!」
「こんなに泳げるようになるなら、もっと早く参加すればよかった」
「泳ぐのってこんなに気持ちがいいんだ。知らなかった」
「イシュケ先生! もっと色んな泳ぎ方教えてください!」
 次々と溢れる生徒たちの歓喜の声に、イシュケは胸の奥にじんとした何かを感じた。それは今まで海の中では感じたことのない、まったく新しい気持ちだった。
(これが、人間たちが送っている学園生活というのしかしら)
 広大と言われる海の中でも、実際はごく一部でしか生活をしていない。それは陸の上に住んでる人間たちも一緒なのかも? とイシュケは首を傾げた。まるで海の生活と陸の生活を交換したような時間はあっという間に過ぎ、生徒たちは浜辺に上がり学園に戻る準備を始めていた。どの生徒たちも清々しい顔で、中には名残惜しそうに海を眺めている生徒もいた。
「あーあ、終わっちまったな。せっかく楽しくなってきたってのによ」
「ほんとほんと。もう少し泳ぎたかったわね」
 そんな声を聞いたイシュケはその生徒に向かって満面の笑顔を浮かべ、叫んだ。
「海はいつでもあなたたちを歓迎しますよ! 授業以外でもぜひいらしてくださいねー!」
 大きく手を振り、学園に戻る生徒たちを送るイシュケの顔は新しいことに挑戦ができた喜びに満ちていた。その喜びに満ちたイシュケの顔を、遠くからスプラとレモラは見守っていた。
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