紫緑飴【神】

文字数 4,667文字

「ふう」
 業務を終えた少女─イシュタルは、安堵感からか小さな息を漏らした。愛や戦を司る彼女にとって戦場はもちろん、デスクワークをも完璧にこなし今日一日を無事に終えられたことに感謝した。
 艶やかな栗色の髪に透き通るような肌、少女にしては少し大人びたその視線は誰であれ背筋をしゃんとせずにはいられない不思議な力があった。そして少女の背中には純白の翼があるというのが、少女に対して失礼な態度は許されないという暗黙の決まりのようなものができあがっているのも事実。だが、イシュタルはそこまで厳しいというわけではなく、ただ自分を慕ってくれる者のために力を発揮することに躊躇は一切しないという、心の強さも持ち合わせている。そういった関係が成り立っているからか、イシュタルを信仰する人は年々増加傾向にあると知らせがきている程。イシュタルの世話係も、この増加傾向には驚き数を発表するときには書類を落としたとか。
 軽く背伸びをし、何気に窓の外を見るときれいな闇が夜空を覆っていた。そしてその闇に輝く小さな瞬きがなんとも美しく見えたイシュタルは、ふっと頬を緩めた。このようなきれいな夜空を拝めるのも皆のおかげだと胸の内で呟き、事務所の片づけを済ませ扉を閉めた。自室へ戻ろうと廊下へ出たとき、丁度イシュタルの世話係と鉢合わせしイシュタルは軽く会釈をした。
「ごきげんよう」
「おお。これはイシュタル様。お勤めご苦労様です」
「ありがとう。ところで、何をそんなに行き急いでらっしゃるのかしら」
 イシュタルは額に汗を浮かべながら呼吸を整えている世話係に問うた。すると世話係はポケットからハンカチを取り出し「これはお見苦しいものを」と言いながら拭いながら呼吸を整え、イシュタルに話し始めた。
「イシュタル様。どうやら下界では『夏祭り』という催しを行っているそうで。そこでイシュタル様、わが国でもその『夏祭り』とやらを実施してみるのは如何でしょう」
 夏祭りという聞きなれない言葉に、イシュタルは首を捻った。それはどういうものかと尋ねると、世話係は「はっ」と言いながら簡単に説明を始めた。なんでも、神様に敬意を払い感謝するというものらしい。『出店』という食べ物を出す小さな店を出したり、『縁日』という遊技場を設けたりとそれはそれは数多くの人たちが楽しめる催しだと身振り手振りで教えてくれた。
「ふむ。その『でみせ』というのも『えんにち』というのも気になりますね。もし、それを開催するとなると、どれくらいの期間が必要なのかしら」
「そうですな。準備もございますので、約一週間程かと」
「……一週間。なるほどわかりました。では、その『なつまつり』というものを開催する手はずを整えてもらえますか?」
「畏まりました。お任せください」
 恭しく頭を下げ、早速準備に取り掛かる世話係の背中を、どこか嬉しそうなイシュタルが見つめていた。

 夏祭りを行うと言った翌日。急に業務が忙しくなり、イシュタルはペンを片手にひたすら書類と戦っていた。書類に目を通し、サインをしていくという単純な業務ではあるが、その量が膨大で処理をしても中々減らない書類の山をイシュタルは忌々し気に睨みつけていた。しかし、ここで弱音を吐くわけにはいかないと自分を鼓舞し、昼食も手早く済ませ書類との格闘に時間を費やしていった。
 そんな書類と格闘すること数日。ようやく書類との格闘も終わりを迎えたイシュタルに、世話係から嬉しい報告が入ってきた。なんでも、夏祭りの開催時期を早めることができるというものだった。本来であればあと数日待たなければ夏祭りは開催されないのだが、それが急遽明日開催できるというものだった。それを聞いたイシュタルはさっきまで曇らせていた表情をぱっと明るくさせ喜んだ。
「まぁ、それは嬉しい報告ですわ。では、明日楽しみにしています」
「ぜひ、楽しんでください。そうそう、お渡しするのを忘れておりました」
 そういって、世話係がイシュタルに手渡したのは最高級の布で織られた異国の衣装─浴衣だった。深い青地に描かれた白い花がなんとも美しい。衣装が落ちないように縛る紐はイシュタルの髪色と同じ栗色のものと、翼と同じ色の純白の二色が複雑に編み込まれたものだった。
「これを……私に?」
「ええ。イシュタル様へと民の皆様から頂いたものです」
「なんといっていいのかしら……言葉が見つかりませんわ」
「言葉より、明日はイシュタル様が思い切り楽しまれた方が、きっと伝わります」
 穏やかに笑う世話係に、イシュタルはこくんと頷き大事そうに衣装をぎゅっと抱きしめた。
(ここまで民は私のことを……)
 改めて自分を思ってくれている者がいるという実感を噛みしめながら、イシュタルは体を休ませる準備を始めた。明日は「なつまつり」。一体どんなものなのか想像もできないイシュタルは期待に胸を躍らせながら瞳を閉じた。

 翌日。着慣れない衣装に戸惑いながらもなんとか着ることができた浴衣に、イシュタルは普段とは違ううきうきした気持ちで一杯だった。最後におかしなところがないか確認し、鏡に映る自分の姿に思わず「あっ」と声を出した。
「なんという……美しい織物なのでしょう」
 少し窮屈感はあるものの、その見た目の鮮やかさに勝るものはなかった。最後に自分の翼と同じ色の髪飾りを着け、準備完了。普段着る機会のない衣装が余程嬉しかったのか、イシュタルはしばらく鏡の前で何度も小躍りをしていた。
 日が傾き始めた頃。イシュタルは履きなれない「さんだる」というものに履き替え外に出た。この季節らしい少し湿気を含んだ風がイシュタルの豊かな髪をふわりと撫でた。その後を追いかけるかのように、今度は少し涼しい風が木々を揺らした。小さなざわめきが耳でくすくすと笑うと、どこからか賑やかな音が聞こえてきた。
「……? なんの音でしょう」
 イシュタルが音のする方へと向かうと、普段は待ち合わせ場所として使用されている大きな噴水の周りでは活気に溢れていた。
「いらっしゃい! 焼きたてだよ!」
「喉乾いてないかい? 飲み物冷えてるよ!」
「金魚すくいやっていかないかい?」
 それはこの世界に生きる人がそれぞれ『でみせ』をやっていた。何本もある太い糸のようなものを黒い液体を混ぜて焼いているものや、魚のかたちをした甘い食べ物。さらには白くて大きくてふわふわしたものまでがイシュタルの目に飛び込んできた。見たことのない雰囲気におされそうになっているところに、聞きなれた声が背中から聞こえた。
「これは、皆さん下界に赴いて得た情報を元に再現しているのです」
「……」
「イシュタル様を楽しませたいという一心から、見ず知らずの下界へ赴いた皆様の顔は輝いていますね」
「……ええ。とても。眩しいくらいですわ」
「メインであるイシュタル様がいつまでもそうされていては、皆は悲しむでしょうな……」
「……い、いってきます」
「どうぞ、ごゆっくり」
 世話係に言葉で背中をおされたイシュタルは、ゆっくりと賑やかな音のする方へと進んでいった。ほかにも『でみせ』や『えんにち』を楽しんでいる人がいる中、イシュタルの存在に気がついた人が「あっ」と声を挙げた。
「イシュタル様! 今日は楽しんでいってくださいね!!」
 嬉しいという気持ちを顔全体で表現してくれたその人は、白くてふわふわした大きなものをイシュタルに手渡した。手で触れると少しべたべたする不思議なものに、その人は「一口食べてみてください」と言うと、イシュタルは恐る恐る頬張った。すると一瞬のうちに溶けてなくなってしまった。それに、甘くて美味しい。未知の食感に驚いて目を見開くイシュタルに「それは綿あめって言います」と教えた。
「……わたあめ。なんとも甘くて美味しいですわ。ありがとう」
「いえいえ。まだまだありますから、いつでも言ってくださいね」
「ええ」
 そう言って今度は、ハンドルをぐるぐると回していると上から白いさらさらしたものが降って器に大きな山を作っているお店に立ち寄ったイシュタル。どんどんと大きくなる山に凝視していると、お店の人は色とりどりの液体の入った瓶をイシュタルの前に並べた。
「イシュタル様。これはかき氷という冷たいお菓子でございます。左からいちご、めろん、れもん、ブルーハワイとありますが如何しましょう」
「……聞きなれないものに挑戦するのも楽しそうですわ。では、ぶるーはわいをお願いします」
「かしこまりました!」
 元気のいい声とともに「ブルーハワイ」と書かれた瓶をさらさらしたものが入った器にたっぷりとかけていく。白と青のコントラストが美しいそれは、イシュタルが着ている浴衣と相違がなかった。
「お待たせしました。冷たいので気を付けて食べてくださいね」
「親切にありがとう。いただきます」
 わたあめとかき氷を手にしたイシュタルは、会場の隅にあった椅子に腰を下ろし未体験の味に心を弾ませながら楽しんだ。中でもかき氷は気に入った様子で、綿あめと同じように口に含んだ瞬間に消える冷感がくせになっていた。一口一口味わって食べていても、いずれはなくなってしまうことに少し寂しさを感じつつ、今度は『えんにち』という催しがある方へと向かった。そこでは小さな筒に弾を込めて目標物に向かって撃つ『しゃてき』、赤色や白色をした魚をすくう遊び『きんぎょすくい』。水の上に浮かんだ丸いものを釣る『よーよーつり』など目白押しだった。中でもイシュタルが気になったのは『きんぎょすくい』というものだった。水の中で元気に泳ぐ赤色や白色をした魚を薄い紙が張られたものですくうというものだ。イシュタルは挑戦する意思を示すと、小さな器と薄い紙が張られたものを手渡された。
「よーく狙って下さいね。紙が破れてしまったらおしまいですよ」
「中々難しそうですね。では……いきます」
 イシュタルが狙いを定め、魚の下に紙を浸しゆっくりと持ち上げるとそれに気が付いた魚が紙の上で暴れだした。イシュタルが驚いている隙に魚は紙を破り、また水の中へと戻っていった。
「残念。もう一回挑戦しますか?」
「ぜひお願いしますわ。これは……手強いですね。でも、必ず取ってみせますわ」
 イシュタルは本気を出し、今度こそ捕まえるというオーラを放った。標的にされた魚はそのオーラにあてられ一瞬動けなくなったところを、イシュタルの華麗な手捌きで小さな器の中へと放り込まれた。
「お見事です! イシュタル様!」
「これは……中々楽しいですね。もう一匹いいかしら?」
「ええ。ぜひ挑戦してください!」
 まだ紙が破れていないため、遊戯は続行された。コツを掴んだイシュタルは、その後数匹の魚を獲得し、袋の中で泳ぐ小さな魚たちを嬉しそうに眺めていた。

 夏祭りを十分満喫したイシュタルは、ふと空を見上げた。そこにはこの前見た時と同じきれいな瞬きがあった。ちかちかと点滅する星々を見ていると、夜空に大きな華が咲いた。そして遅れて体を震わせる大きな音が響いた。
「きゃっ」
 その後も夜空を様々な色の華が咲き乱れ、イシュタルはその華をじっと見つめていた。最初は驚いていた大きな音も、今ではだいぶ心地よいものへと変わり夜空を彩る華にうっとりとしていた。後にそれは『はなび』というもので、こうして空に打ち上げて楽しむものだと世話係が教えてくれた。
「あぁ……なんて素敵な夜なのかしら」
 触れたことのない文化に触れられたことに感謝をしつつ、イシュタルはただ静かに夜空にあがる華を眺めていた。
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