ココアとブラッドカシスのチェッククッキー【魔】

文字数 3,223文字

「チェックメイト」
 とある会場で行われているチェスの大会にて、非常に落ち着きのある男声が響いた。男はクイーンの駒を置き、どこへ逃げても必ず王の駒が取られるよう追いつめられると項垂れながら敗北を認めた。
 男の名前はクライド。チェスの大会ではその名前を知らない人物がいないという程有名なチェスプレイヤーだ。黒いシルクハットにぴしっとしたやや灰色のようにも見える燕尾服、首からは赤いストラップのループタイをし、足が細く見えるようなややきつそうに見えるパンツを履いている。チェスのプレイヤーだけでなく、観戦している人たちにも分け隔てなく接している姿に女性だけでなく男性からの支持もあり、水面下でファンクラブが結成されていると噂もあるくらいだ。
 そんなクライドは司会者から賞金を受け取り、対戦した選手と握手を交わし応援してくれたすべてのみんなに満面の笑みを浮かべながら手を振り去っていった。その振る舞いも貴族のようにスマートに行ったのち、クライドは一人になったことを確認し口の端を少し持ち上げて笑った。
「……ふふっ。こんな試合なんて、わたしには何の造作もないことです。それにしても……」
 受け取った賞金を紫色の炎で燃やし、一人悩むクライド。まるで頭の中でチェスをしているかのようにいくつものパターンを予測しながら導いた答えに、クライドは人前では見せない

のような笑みを浮かべた。
「なるほど。そちらの方が楽しめそうですね。ふふふ」
 クライドは対戦相手が控室に帰った頃を見計らい、扉をノックした。ほどなくして対戦相手からの声があり扉が開いた。すると、対戦相手は大きな声を挙げながら後退った。
「く……クライド選手! ど、どうしたのですか??」
 慌てふためくその様子を見て笑うのを必死に堪えながら、クライドは爽やかな笑顔で対戦相手に挨拶をし、よかったらこの後プライベートでチェスを楽しまないかと提案した。すると、対戦相手は顔を輝かせながらその提案を受け入れた。急いで支度を済ませた対戦相手と一緒にクライドがプライベートで使用しているチェスの店へと向かった。そこはシンプルなバーのような佇まいだった。一つしかない入り口を潜ると、中はさながらチェスバーといった雰囲気だった。カウンター席しかない店内は、非常にシンプルでありながらどこか心安らぐ雰囲気があった。カウンターの後ろには知らない銘柄のボトルがずらりと並んでいて、どれから飲もうか迷ってしまう程だ。カウンターに立ったクライドはチェスプレイヤーからバーテンダーへと変わると、対戦相手に一つカクテルを作った。グレープフルーツをベースにし、グラスの周りに雪のように散りばめた塩がなんとも美しい「ソルティ・ドッグ」というカクテルを対戦相手の前へ差し出すと、その美しさに惚れ惚れした対戦相手は何度もグラスを見ながら「あぁ……なんて美しいんだ」と呟きながらグラスを傾けた。グレープフルーツが持つ酸味や甘み、渋みのバランスが絶妙にマッチしグラスの周りの塩がなんともいい仕事をしていた。甘くないのにまるでジュースのように飲めてしまうカクテルに思わずうっとりしている対戦相手に、クライドはチェス盤を持ってきて駒を設置し始めた。
 チェスは八×八の盤面に動き方が決まった駒を動かし、相手のキングの駒を取った方が勝ちというシンプルながら非常に頭を使うゲーム。まず各プレイヤーには八体のポーンと呼ばれる最初だけ前方にニマス動かせる駒、斜めに動かせるビショップ。縦、横に障害物がなければ自由に動かせるルーク、動かし方にくせのあるナイト。縦、横、斜め、周囲を自由に動かすことができるクイーン、最後に周囲一マスを動かせるキング。如何に駒を動かし相手の王を追い詰めるかがこのゲームの醍醐味である。一見、ポーンの駒が弱そうに見えても、うまく駒を相手陣地の奥まで移動させることができれば、ルークやビショップ、さらにはクイーンといった特殊な移動ができる駒に変化することができるので、最後まで勝負の行方はわからない。ルールを一通り確認し、クライドは対戦相手にこの勝負に勝つことができたら、一つ言うことを聞くことを条件に出すと対戦相手は俄然やる気を出し、鼻息を荒くしながらポーンを手に取った。
 お互い駒を取りつ取られつつの進行が続き、対戦相手は次第に顔を曇らせながらチェス盤を睨んでいた。対してクライドは涼しい顔をしながら対戦相手を眺めていた。
「うーん……」
 喉の奥から出した声は、思い描いていた一手ではないかのようなニュアンスを含んでいた。言ってしまえば

というものだった。徐々に焦りだした対戦相手にクライドはふっと微笑みかけ、一つ提案を出した。
「ここはもっとスリリングにゲームを楽しんでみませんか?」
 クライドの言っていることが理解できなかった対戦相手は、ぽかんと口を開けながら首を傾げた。クライドは「そんなに難しいことではありませんよ」と軽く言い、指を鳴らした。すると、対戦相手は煙に包まれそこからいなくなった。代わりに、対戦相手自身がチェスの駒となりそこにいた。
「ど……どういうことだ?! クライド選手??」
 小さくなった対戦相手を見て、クライドはくすっと笑った。その笑みを見た対戦相手は背筋に何か良からぬ何かが這ったような感覚に襲われ、動けずにいた。
「申し遅れました。わたし、こうみえて悪魔なんですよ」
「あ……あ、悪魔……?」
「どうですか? 今、自分がチェスの駒になった気分は?」
 くすくす笑うクライドをぎっと睨みつけるよりも前に、対戦相手は今目の前にある状況に戦慄した。さっきまで動かしていた無機質なチェスの駒は、まるで生命を得たかのように息づきそこにいた。ポーンは剣を構え、ナイトは興奮する馬を操り、ルークはいつでも砲台を撃つ準備をしていた。自分はというと、目の前にいるポーンと同じ剣を持っていた。自分の意志で指一本も動かせない状況の中、クライドは目を赤く光らせながら駒の一つを取り、動かした。
「さぁ、もっともっとゲームを楽しみましょう」
 クライドは自分で駒を動かし、対戦相手は駒の名前と座標を指定して動かしていく。対戦相手はこの状況を打破しようと自身が思う最善の手を打っていくが、それはクライドが思い描いていたシナリオ通りに進んでいるほかならなかった。やがて駒となった自分とキングの駒しか残っていない自軍になす術がない対戦相手は、ぼろぼろと涙を流しながらクライドを見た。
「なぜ……なぜこのようなことを……」
 鼻歌を歌いながらクイーンの駒を動かすクライドは、悲哀で染まる対戦相手の言葉をまるで一つの音楽かのように聞いていた。ことんという音と共に置かれたクイーンの駒は対戦相手のキングの駒を倒し、嬉しそうに微笑んでいた。
「これが大好きなんですよ。うまく相手を逃げられないように追い詰めていく様が。そして、もう逃げられないという状況に染まったその顔が……ね」
 紳士的な振る舞いがまるで嘘のよう、打つ手一つ一つがまるで退路を断っているかのように確実に相手を追い詰めていた。対戦相手は涙で溢れた目で左隣にあるマスを見た。そこには、さっきクライドが動かしたクイーンの駒が立っていた。手には大きな扇子を広げ、対戦相手をぎろりと睨んでいた。恐ろしいのか哀しいのかわからなくなった対戦相手は、ただ泣くことしかできなかった。やがてその恰好にも見飽きたのか、クライドはクイーンの駒を手に取り、対戦相手を弾いた。弾かれた対戦相手の意識はそこで幕を閉じ、二度と覚めない闇へと引きずり込まれていった。
「……ゲームセット。はぁ、中々楽しめましたよ」
 ゲームを終えたクライドの顔は、悪魔の顔ではなくチェスで楽しむ普通の紳士の顔に戻っていた。誰もいなくなった店内には、静かにカクテルを傾けゲームの余韻に浸っているクライドだけがいた。
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