ひんやりおいしい薄皮あいす最中

文字数 2,279文字

「ここがそうなのね。まぁ、とっても立派な佇まいですわ」
 胸元は少し開いた薄紫色のドレスを身に着けた氷を操る夢魔─ミュエル。自分でもちょっと場違いかもしれないと思ったが、外へ出かけるならある程度はね……と言い聞かせてやってきた温泉施設。ミュエルの元にもチラシが届き、ここ最近は自分にご褒美が足りていないと感じていたため思い切ってやってきたのだ。
「自分にご褒美は大事ですわ。今日は楽しみますわよ」
 そういいながら、ミュエルは温泉施設の扉を開けた。中では既にたくさんの温泉を楽しみにやってきたお客で溢れていて、ちょっとしたお祭り騒ぎだった。見慣れない光景にどうしようかと考えていたら、着物を着た女性がすっと近付き柔らかい笑みを浮かべた。
「お客様。どうされましたか? なにかお困りですか?」
 程よい距離感を保ちながら声をかけてくれた女性に、ミュエルは初めてきたので迷っていますというと、着物の女性は畏まりましたと言いながら深く頭を下げた。
「申し遅れました。私はこの温泉施設の女将を務めております、アイカと申します。では、簡単に館内をご案内しますね」
 とても丁寧に館内を案内してくれたアイカにお礼を言い、ミュエルは案内にあった「足湯」というものに興味を持ち、早速行ってみることにした。

「全て揃っているのですね。これなら気軽に楽しめそうですわね」
 籠の中には館内専用の浴衣、帯、ちょっとしたアメニティが入っていた。さっそくミュエルは用意してある浴衣に着替え、腰まである髪を結いあげた。初めて経験することにドキドキしながら扉を開けると、開放感たっぷりの広場のような場所に出た。あちこち区切られた内側には太陽の光を受けて反射する液体が湯気を立てていた。まずは手を入れて温度を確認すると、じんわりと伝わる熱がミュエルの表情を緩ませた。
「素敵な温度ですわ。これならのぼせなくていいですわ」
 縁側のような木製の椅子に腰を下ろし、足を静かに液体の中へと浸した。最初は熱いと感じたものの、しばらくすると安堵の息が漏れるほど適温なお湯にミュエルの顔はとろけた。
「はぁ……なんていう贅沢なのでしょう……」
 普段は召喚者に望むものがあれば叶える代わりに、いい夢を見せたあとに相手を氷の棺に閉じ込める夢魔なのだが……今は違う。今は、一人の温泉を楽しむものとして幸せを感じている。軽く足を動かすと、ぱしゃぱしゃと音を立てながら湯が波打ちその音に耳までもが幸せの温度を感じる。
「はぁ……来てよかったですわ。心まで解れていくようですわ」
 すっかり温泉の虜になったミュエルは大きく伸びをしながら天を仰いだ。気候も暑くもなく寒くもなく気持ちの良い絶好の温泉日和だなと思っていると、ミュエルの眼前に白い楕円形の物体があった。その物体は打たせ湯という少し高い所から温泉が出てきて体を温める場所にあった。びちゃびちゃと音を立てながら温泉を受けているその物体が気になったミュエルは、ゆっくりとその物体に近付いて行った。
「なにかしら……これ……置物なのかしら……?」
 ミュエルが近付いても動く気配がないそれは、ただひたすらに打たせ湯を受けていた。しかし、ミュエルはある一点が気になった。途中までは真っ白なのだが、その反対側は黒いふさふさしたものが付いていた。そして、横に引かれた線のようなもの……。ミュエルが軽く触れるとぴくんと動き、小さなうなり声のようなものが聞こえた。今度は軽くつついてみると、まや小さなうなり声が聞こえた。そして、ミュエルは見てしまった。その白い楕円形には

……。
「き……き……きゃあああああああっっ!!!」

 キン

 水の入ったグラスをスプーンで軽く叩いたような音が聞こえてすぐ、その楕円形の物体が氷の牢獄に閉じ込められていった。普段は魔力を抑えることなど造作もないのだが、見たことのないものが目の前でうなり声をあげているという事態に驚いてしまったミュエルは、魔力を抑えることができず暴発してしまい氷の魔術を展開してしまった。
 氷漬けになった楕円形の物体は悲鳴を上げることもなく、ただ静かに打たせ湯に打たれている格好のまま動かなくなった。
「あぁ……ど、ど、どうしましょう。あぁ……あぁ……」
 自分がやってしまったことなのだがどうしたらいいかわからず、氷漬けになった楕円形の物体の前でおろおろするミュエル。氷漬けにすることは日常茶飯事なのだがそれの逆をしたことが極端に少なく、慌てふためいているとミュエルの頭に名案が浮かんだ。
「そ……そうですわ。お湯の中に入れて溶かせばいいのですわ!」
 我ながらいい案だと思い、すぐに楕円形の物体を持ちお湯の中へ投入しようとしたとき自分が展開した氷の魔術で床をも凍らせてしまったことに気が付かず、つるりと滑ってしまう。
「きゃああ!!!」
 滑った拍子に手から楕円形の物体も離れてしまい、きれいな放物線を描きながらどこかへ飛んで行ってしまった。ぽちゃんという音が聞こえたからきっと池の中に落ちたのだろうと思ったミュエルなのだが、滑ったときについた尻餅の痛みに顔を歪ませるも安心するのはこの状況を打破してからだと痛みを堪えながら自分に気合を入れた。
「これもわたしの責任ですわ。元に戻すまではここから出ませんわ」
 ミュエルは凍っていない場所からお湯を集め、凍ってしまった箇所にお湯をかけていくというちょっと地味ではあるが、思いつく限り最善の方法で原状復帰を目指した。自分へのご褒美に来た温泉施設は自分のうっかりミスを消し去る作業へと変わっていった。
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