粒揃いの霰飴玉【魔】

文字数 3,966文字

「……なんか退屈だなぁ」
 暗く淀んだ空の下、細い枝を濁った水に垂らしてぼやく青年がいた。長身かつがっしりとした体躯、ざくろのように赤い瞳に腰まで伸ばしたやや暗めの水色の髪を銅でできた簪で無造作に結っている。黒を基調とした着物を少し着崩し、今は右腕は袖から出している。
 青年の名前はぬらりひょん。妖としてその名は有名で、一説には妖怪の総大将とも言われている。ただ、世間はそう言っているだけで当の本人はそんなことはどうでもよく、楽しいことをしているときに邪魔さえ入らなければそれでいいと思っている。普段はのんびりとした彼も、ひとたび邪魔が入ろうものなら彼の背後から禍々しい妖を従え、追い払おうとする。いや、追い払う前に妖が放つ強烈な瘴気を前に運が良ければ気絶、悪ければそのまま目の覚めない眠りにつくこととなる。
「あ、かかった」
 そんなこんなしている内に、ぬらりひょんの持つ細い枝がしなった。水面ではばちゃばちゃと水しぶきをあげながら何かが暴れていた。それを細い枝を巧みに操り釣りあげようとするが、捕まった方もそう簡単には釣られまいと必死に抵抗していた。しばらくぬらりひょんと釣られるものとの交戦が続き、接戦を制したのは……。
「あぁ……残念。逃げられたか」
 あともう少しで釣りあげられると確信したぬらりひょんが絶妙のタイミングで細い枝を引いたとき、ぼきりという音と共に枝は折れてしまったのだ。折れた勢いでぬらりひょんは尻餅をついてしまい、手には無残にも折れた枝をしっかりと握っていた。
「逃げられたものはしょうがない。また挑戦すればいいだけだ」
 肩をすくめ自分に言い聞かせるも、なんとなく悔しいという気持ちが勝っているぬらりひょんはどうしたものかと考えた。それに、せっかくなら違った場所で釣りを楽しんでみたいという考えも加わり、ぬらりひょんは早速意識を集中し魔力を練った。
(どこへ行くかわからないけど、着いた先で楽しめればいい)
 ぬらりひょんの意識は真っ黒いスクリーンに塗りつぶされ、次第に意識はぷつりと途絶えた。

 ぬらりひょんが最初に耳にしたのは、自分の世界にはない心地の良い音だった。規則的に聞こえるその音でぬらりひょんはゆっくりと目を覚ました。
「……ここは」
 自分の世界が黒と例えるなら、今目の前の世界は青というべきだろうか。雲一つないどこまでも透き通った青い空、大きな屋根のついた小屋があちこちに点在しており、その小屋の下には透き通った青い空と同じ色の水が揺蕩っていた。地面から生えている植物は空に向かって手を伸ばしているかのように大きく、葉は風に揺れていた。
「……なんだか、すごく眩しいな」
 手で日光を遮りながら、適当な小屋の中へ入ると中はとても涼しく心地よかった。そういえば、今のぬらりひょんの恰好は長袖であるためか額には大粒の汗が流れていた。
「いらっしゃいませー。って、お客様、こんな暑い日にそんな恰好はいけません!」
「え……ああ。これしか持ち合わせてなくて」
「今日はここ数日の中で一番暑く、そして一番気持ちの良い日なのです。なので、お着換えをするのが良いかと」
 小屋の中にいた店員が大きめのタオルをぬらりひょんに手渡すと、ぬらりひょんはそれを素直に受け取り額から流れる汗を拭った。その後、冷たい飲み物のサービスに喉を潤すぬらりひょんに店員が提案をした。
「もしよろしかったら、こんな気持ちの良い日にいらっしゃるのは何かの縁です。波の音を聞きながら釣りでも楽しみませんか?」
 釣りという言葉に反応したぬらりひょんは、真顔で店員の顔を見るもすぐに顔を背けてしまった。何か困ったことがあるのかと店員が尋ねると、ぬらりひょんは小さく呟いた。
「……金がないんだ」
 釣りができるという嬉しい気持ちよりも、それが体験できないという悲しい気持ちが勝ってしまい落胆するぬらりひょん。しかし、店員は首を横に振り、案内をした。
「いえいえ。せっかくお越しされたのですから、それはサービスしますよ。それに、今は誰もいないので気にしないでください。あ、店長には内緒でお願いしますね」
 人差し指を口元にあてて悪戯っぽく笑う店員に、何度もいいのかと尋ねるとその度に店員は了承してくれた。なら、せっかくなので違った場所での釣りを楽しもう……としたのだが、ぬらりひょんは何を身に着けていいか分からず困ってしまった。すると、店員が店内にある物からいくつか見繕いぬらりひょんに手渡した。
「お客さんの身長ですと、このサイズですかね。爽やかな色合いなら、これとこれ……よし」
 他にも装飾品を渡され、更衣室へ案内されたぬらりひょんは渡された衣服に袖を通した。自分が着ていた服よりも軽く、動きやすいことに驚いた。爽やかな青色を基調とした薄いシャツに緑色を基調としたハーフパンツ、それに日よけの帽子を被り準備万端。更衣室を出て釣り場に行こうと外へ出ると、そこにはさっきの店員が黒くて細い枝のようなものを持っていた。
「お待ちしておりました。ささ、こちらへどうぞ」
 店員に案内されるままついていくと、目の前には青い水がどこまでも広がっていた。確か絵巻物とかにあったような……これが「海」というやつなのだろうかと思っていると、店員は黒い枝のようなものをぬらりひょんに手渡した。
「さぁ、好きなだけ釣りを楽しんでくださいね!」
「あ、ああ。ありがとう」
「ごゆっくりー。あ、それと水分補給用のドリンクも置いてありますのでご自由に!」
 さりげなく足元に置いていったドリンクに目をやりつつ、ぬらりひょんは黒い枝をじっくりと見ていた。
「これは……釣り竿か」
 自分の世界のものとは全く違う、軽いのにしっかりとしなりのきく釣り竿だった。手にも馴染むグリップに小さく頷くと、ぬらりひょんは早速青い海に向かって大きく振りかぶり針を飛ばした。
「それっ」
 誰もいないというのは自分のいる世界でも同じだけど、ここはまた違う雰囲気があった。なんというか、開放感というか少し自分に素直になれるというかそんな感じだった。潮風に吹かれること数分、ぬらりひょんの手元が大きく揺れた。
「かかった!」
 リールを巻き上げ左右に動かしつつ、ゆっくりと引いていく。ぎりぎりと糸が音をたて、竿もしなる中、ぬらりひょんは逃してなるものかという思いで竿を巧みに操っていた。
「ここだ!」
 渾身の力を込めて竿を思い切り引くと、そこには緑色の体に青い唇の魚がかかっていた。これまた自分の世界では見ることができない魚に、ぬらりひょんは楽しくなってきていた。釣り針を上手に外しバケツの中に放り、また次の針を垂らしていく。

 夢中になって釣りをしていると、背後から聞いたことのある声が聞こえた。その声の主はさっきの店員のもので、その声に意識を戻すと青かった空はいつの間にか完熟したオレンジ色へと変わっていた。心なしか風も少し肌寒いものへと変わっており、ぬらりひょんは「もうそんな時間か」と呟いた。
「お客さーん。調子はどうです……って、ものすごい数釣ってますね!」
「ああ。君か。おかげさまで大漁さ」
「それはそれは。あ、バケツから出てるこの魚、入れておきますね」
 店員が素手で魚に触れようとしたとき、ぬらりひょんはぼそりと呟いた。
「それ、毒あるよ」
 毒という言葉に店員は反射的に手を引っ込め、後ずさった。ぬらりひょんの一言があと少し遅れていたらと思うと背筋を走る悪寒は止まらなかった。結果的に助かったことには変わりないのだが、店員の表情はなんともいえないものになっていた。その表情を見たぬらりひょんは薄く笑みを浮かべながらバケツに入った魚たちを海へと返した。
「あれ、いいのですか?」
「ああ。ぼくは釣れればそれでいい。楽しませてくれた魚たちに感謝の意味を込めて……ね」
「ほう……中々奥が深いですね」
 空になったバケツを持ち、店員とぬらりひょんは着替えを行った店内へと戻っていった。

 着替えを済ませ、店員に更衣室のカギを返すと店員は深々と頭を下げていた。
「今日はご利用ありがとうございました。楽しんでいただけましたか?」
「それはもう。大満足さ」
「それはよかったです。あ、もしお客さんがよければ……はい。どうぞ」
 店員がぬらりひょんに手渡したのは一枚のカードだった。そこには「超VIP」と書かれていた。見たことのないカードに首を傾げていると、店員は「お客さんは特別です」と言った。
「あんなに心から釣りを楽しんでいる人を見たことがなかったので、お客さんをこの店のVIPとさせていただきました。特典としまして、一式無料でお貸出しします♪」
「へぇ。それはとても助かるよ。じゃあ、また来ていいのかい」
「もちろんです! いつでもお待ちしてますよ♪ その際はこのカードを出してくださいね」
「わかったよ。今日は世話になったね」
「お気をつけて。そういえば、お客さん、どこから来たのですか?」
 店の入り口で尋ねる店員に、ぬらりひょんは少し考えてから「地獄から」と答えた。すると店員の顔は一気に冷え、怯えた表情になった。それを見たぬらりひょんはあははと笑いながら店員の頭を撫でると「ごめんごめん。驚かすつもりはなかったんだ」と言った。その言葉に少し頬を膨らませた店員は「もう。冗談がきついですね。お客さん」というと、ぬらりひょんはあははと笑いながら心の中で魔力を練っていた。そして店員の前で挨拶をすると、その場からすっと消えた。

……ね)
 薄れていく意識の中、妖である自分に親切に接してくれた店員に感謝を伝えると、ぬらりひょんの意識は直角に落ちていった。そして、次に目が覚めるのはどこだろうなとおどけてみせた。その答えならきっと、空の色が教えてくれる。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み