泡沫マシュマロ【魔】

文字数 4,539文字

 のどかな田園風景が広がる小さな田舎町。男性は畑仕事に精を出し、女性は庭で自生しているハーブを摘んだり近所の人との談笑を楽しんでいた。その様子を二階の窓から眺めている少女がいた。名前はアイリス。薄い栗色の髪に透き通るような肌、まるでお人形のように整った顔立ちは母親に似ているのだと散々父から聞かされていた。
 そんなアイリスは今、療養中だった。つい先日から体調があまり良くなく、薬を飲んでは良くなりまた体調を崩すを繰り返していた。離れた町にいるお医者さんに診てもらうと「季節が変わる際、誰にもでもなる風邪のようなもの」と濁した表現をした。結局これは風邪なのかそうではないのかがわからないまま、アイリスはお医者さんから処方された小さな錠剤を呑んでいる。
「はぁ。これはいつになったら完治するのかしら」
 まるで気休めだと思いながらも薬を呑むアイリスは、つい本音を漏らしてしまった。幸い部屋にはアイリスしかいなから問題はないのだが、これが妹や弟に聞かれたらちょっと面倒臭いことになるから普段はあまり言わないようにしている。窓の外では汗を拭いながら作物を収穫している父、閉めている窓を貫く母の笑い声。そして元気いっぱいに走り回っている妹と弟、それに近所の子供たち。それを見たアイリスは胸のあたりがざわついた。
「……いいわね」
 その声はアイリス自身も聞き取れないくらい、低くくぐもっていた。

 あれから数日しても一向に容体が快復しないアイリス。お医者さんも険しい顔をしながら唸っていた。なぜ快復至らないのかと。それはアイリスが一番知りたかったことなのだが、数多くの患者を診てきたお医者さんでもそれがわからないのではれば、それ以上は知ることができない。何度も何度も唸った挙句、いつもの薬を処方し申し訳なさそうにアイリスの部屋を出ていくお医者さんを、アイリスは少し恨めしそうな目で追う。
(なによ。結局、気休めじゃない)
 アイリスは庭でハーブの手入れをしている母に頭を下げて帰っていくお医者さんを憎々し気に見ていた。それに対し、今日も庭で元気に遊んでいる妹と弟を見ていると、アイリスは今までに感じたことのない何かが体の中で渦巻いているのに気が付いた。
「……なにかしら。この気持ち」
 ふと我に返ったとき、その気持ちは収まったのだがまた窓の外に視線を動かすとその気持ちは再び湧き上がっていた。
「気持ち悪いわね。これ。一体何なのかしら」
 自分でも不快に思うくらいぐずぐずと渦巻く何かに、思わず胸を抑えて自分に問うた。昨日まではこんな気持ち悪いことなかったのに……。怪しいものを飲んだり食べたりしたかと考えてもみたけど、特にこれといって悪いものは口にしていない。なのになぜ……。
「……なんであたしなのよ」
 今にも口から出そうな不快なものを必死に堪え、何度も深呼吸をする。しかし、それでも不快は収まらずずっと喉元辺りを行ったり来たりしていた。段々と気持ちも気分も悪くなったとき、アイリスはぽつりと呟いた。
「……憎い」
 このとき、アイリスは小さな憎悪の種を芽吹かせてしまった。何に対してかまではわからない。だけど、はっきりと感じてしまった何かに対しての負の感情を抑えることはできなかった。
「憎い……何が憎いか……わからないけど。なんだかとっても憎いわ……とっても」
 胸を抑えながら窓の外を見ると、その不快な気持ちは収まるどころか急に膨れ上がったかのように増幅。思わずその場に屈みこんでしまうくらい強烈な不快感にアイリスは泣きそうになる。
「……くっ。苦しい……」
 ゆっくりゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。そのとき、アイリスの苦しみの現況がそこにあった。

 楽しそうに遊んでいる妹と弟

 畑いじりをしている父

 楽しそうに笑っている母

 それに比べて自分はどうだろう。自室に閉じこもって窓の外を見ることしかできない。その差は一体なんなのだ。そう思うとアイリスは憎しみの念を増幅させていった。最初は外で遊んでいる妹と弟、それから父、母の順に視線を移すとその念は一層強まり、アイリスの頭には何を憎しみの対象にしているかがわかった。
「あたしを病弱に産んだ親が憎い……」
 面倒臭い二人がいないことをいいことに、アイリスは思わずそう口走ってしまった。すると、アイリスの背後に何かがすぅっと降りたような感覚があった。何かと思い振り返るとそこには誰もおらず、なんだろうと思っていると突然どこからか声がした。
「うふふふ。あなた、わたしと一緒ね。わかるわぁ。なんでこうも不平等なのかしらねえ」
「え、だ、誰? どこにいるの?」
 まるで無邪気な女の子のような声が聞こえたアイリスは驚き、背筋をぴんとさせた。その様子が面白かったのか、声の主はまたけたけたと笑った。
「もう。どこにいるのよ」
「どこって? 今はあなたの目の前にいるわよ」
 目の前と言われても、そこには何もないと言いかけたときクリームのような霧が表れ中から小さな顔がひょこっと顔を出していた。
「はじめまして。わたしはあなたの憎しみから生まれた存在です」
「あたしの……憎しみから?」
「そ♪ 今、自分の家族を見てそう思ってたんでしょ?」
「……」
 何も言い返すことができなかったアイリスをけたけたと笑い、霧は話を続けた。
「あのね。いっこ、いい話があるんだけど。どう?」
「……いい話?」
 いい話と聞いてアイリスは少しだけ眉を動かすと、霧はふわふわと部屋を飛び回りながら音を発した。
「そ♪ それはあなたにとって素敵なことだと思うんだけど、どうかしら?」
「あたしにとって……いいこと? それは一体……」
 アイリスはやや食い気味に尋ねると、霧はにいと笑いながらアイリスに近付いてこう言った。
「あなたの病気が完治するって言ったら……どうする?」
 病気が完治する。それは願ってもないことだ。なにせこの病気のせいでまとも外に出られないし、一度思い切って外に出ようとしたところ、両親に見つかってしまい強制的に部屋に戻されたときもあった。単なる咳だと言っても両親は聞いてくれないし、大丈夫だと言っても逆に怒られてしまうこともあった。この病気のせいで……いや、この病気を患ってしまったこともそうだが、それに対して何もしてくれない両親、そして病弱な体質で生んだ両親が……。アイリスはぎゅっと唇を噛みしめながら、霧に問うた。
「ほんとに、この病気が完治するの?」
 すると霧は何度も「治るわよ」と答えた。ほっと胸を撫でおろすアイリスに、霧は続けた。
「治るけど、それはこの世とのさよならを意味するわよ」
 この世とのさよなら。この一言でアイリスは固まった。つまり、自分が死んで病気とは無縁になるということ。果たしてそれでいいのかと悩んでいると、霧はすいっとアイリスの首に巻き付いて囁いた。
「いいじゃないのよ。別に生きていたってなにもないんだし。それに、あなたのお母さんやお父さんはあなたに何かしてくれたかしら?」
「……それは……」
「ないわよねぇ。だって、あなたなんてお荷物なんだから」
「……そんな……こと」
「ないって言いきれるかしらぁ? ほらぁ、窓の外を見て御覧なさいな。あなたのことなんか頭になさそうに笑ってるわよ。遊んでるわよ。どう? 憎い? ねぇ? 憎いでしょ??」
 げたげたと笑いアイリスの頭をかき乱していく霧。それを聞かないよう耳を塞ぐアイリスに、霧は更に続けた。
「もし、この世とのさよならをしたらね。面白い遊びができるわよ。ポルターガイストって知ってるでしょ? あなたが憎いと思った人に対して有効な手段よぉ。ほらほらぁ、今まで何もできなかった自分とさよならしてさぁ、憎い奴らに苦しみをあげましょう」
 霧の下品な笑い声の中、アイリスはどこでそう思ったのかその考えも悪くないと思った。病気も治って悪戯もできるなんて、生きてるうちにできるようなことじゃない。所詮、この生活が続くよりいっそ楽しいかもと思ったアイリスは霧にお願いをした。
「い、いいわ。その提案にのるわ」
「うん♪ あなたならきっとそう言ってくれるって信じてた♪ さ、目を閉じて。すぐに終わるから。あ、ベッドの中の方がいいわね」
 霧に言われるがままベッドに横になり、そのまま目を閉じるアイリス。まもなく眠っているときと同じような感覚が表れそれに手を引かれるようにしてアイリスは旅立った。


 アイリスの異変に気が付いたのはお医者さんだった。いつも通り、薬を処方しようとアイリスの部屋の扉をノックしたのだが応答がなく、不思議に思ったお医者さんは扉を開けて中に入った。すると、眠っているアイリスを見つけほっとして顔を近付けると微動だにしないことに違和感を覚え、お医者さんはしばらくアイリスを注視していた。すると規則的に動いていないことに驚き心臓に耳をやると、鼓動を聞き取ることができなかった。脈をとると同じように鼓動を感じるどころかすっかり冷えていた。慌てたお医者さんはすぐに両親に知らせようと姿を消すと、入れ替わるように半透明になったアイリスが現れくすくすと笑った。
「なにあれ。あの慌てっぷり」
「あっははは。傑作ね。どう? 初めて傍観する気分は」
「ええ。悪くないわ」
「それはよかったわ♪」
 やがてお医者さんと両親がアイリスの部屋にやってくると、血相を変えてアイリスに近づいた母親は大粒の涙を流して悲しんだ。
「あぁ……アイリス。なんということなの……」
 その嘘くさい口調にアイリスは苛立ちを覚え、すっと母親に向けて指をさした。しばらくして母親から生気がみるみるなくなり、しまいには脆くなった骨が折れる音を発しながらその場に崩れた。
「ひ……ひぃ!!」
「お父さんが逃げるかもよ」
「そうはさせないわ」
 アイリスは父親にふっと息を吹きかけると、父親は苦しそうに喉元を抑えながらもがいた。やがてばたばたと手足を動かしてまるで操り人形の糸が切れてしまったかのようにぱたりと動かなくなってしまった。相次いで倒れていく様子を見たお医者さんは悲鳴にもならない声で叫びながら部屋を飛び出すと、それをおいかけっこをするような感覚でおいかけるアイリス。今度は食器棚にあるカップや皿をふわふわと浮かせ暴れさせた。時にはお医者さんの耳元をかすめるように、今度は目の前から急に消えて見せたりと様々な方法でお医者さんを驚かした。
「これは中々ね。あなたも結局は……

だったのよね」
 冷たい眼差しをお医者さんに向けたアイリスは、ティーカップとソーサーをお医者さんの頭上に思い切り落とすと、ぱりんという音と共にお医者さんは小さく「がっ」という声を漏らして息絶えた。
「あっははは! ねぇ聞いた?『がっ』だって。だっさぁ! あはははは!」
「……」
 今まで味わったことのない高揚感にアイリスは思わず口の端をにいと持ち上げて笑った。ずっと苦しかった咳の症状もなくなり、言葉通り身軽になったアイリスはこれだけは満足せずにほかの家にも潜り込み楽しい悪戯をしてやろうと考えていた。
「さて、次の家ではどんなことをしましょうか……うふふ」
 無邪気に笑うその様は、生きているうちに誰にも見せなかった純粋な笑顔だった。
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