94.呪文
文字数 1,923文字
――何曲歌っただろうか
無限を感じた。
疲労感はない。
それどころか、どんなに声を伸ばしても苦しくなかった。
声は果てしなく、どこまでも続いていく。途切れることなく、まるで世界が始まった時から、ずっとその場所に存在している波のように、確実に。
「聞こえる」
旋律に乗せていないユウキの声が聞こえた。
コードを押さえる指を外すと同時に、ギターも、アンプも、ピックさえも消えた。
侑子とユウキだけがその場所に立っていて、二人は耳をすませていた。
「誰かが歌ってる」
二人の耳に届く歌声は、二人のどちらのものでもなかった。
この夢の中に第三者が出てきたことはなかったので、少しだけ緊張を感じる。
侑子はユウキの手を握って、歩き出した。
「歌っている人、探しに行こう」
「誰だと思う?」
ユウキの問いかけに、侑子は呟いた。
「……私、知ってる」
「そうなの? 俺は知らない声だなぁ」
「この曲」
「ユーコちゃん?」
「この曲も知ってるよ」
「ニホンの曲?」
侑子は足を止めて、ゆっくりと頷いた。見上げてきた彼女の顔に不安の影が見えたので、ユウキの腕は自然と彼女の身体を包みこんでいた。
「ユウキちゃん、歌って」
侑子は震えている。
どうしたのだろう。
懇願するように、繰り返し「歌って」と言っている。
「この曲、ユウキちゃんの声で歌って」
「どうしたの? 何が怖い?」
「いいから、お願い。ユウキちゃんの声で歌って。そうしたら大丈夫だから」
譫言のように繰り返す言葉に、ユウキは理由を問い詰めることはやめた。
気持ちを鎮めて、どこからか聞こえてくる歌声に耳をそばだてた。意識を集中して、奏でられる旋律を記憶に刻みつけていく。
「……不思議な言葉が入ってる。これは掛け声か何か? 他国の言葉なのか」
呟きに、侑子の反応はなかった。
発声のために、ユウキは大きく息を吸い込んだ。
***
空が晴れていく。
腕の中で、侑子の身体の強張りが解けていくのが分かった。
繰り返し歌う中で、その唄の詩が、意識下でゲシュタルト崩壊を起こしていく。
――舟歌か? 民謡のようだ。いや……
意味のとれる言葉と、意味不明な言葉が混在していた。
民謡ではよくある掛け声の一種かとも思ったが、ユウキの知らない音だった。
――呪文みたいだ
眩しいと感じて初めて、天気が変わったのだと気がついた。
不思議な灰色の空が二つに割れて、太陽が顔を出している。昼間の白い陽光が、ユウキと侑子を一つの影の上に乗せて照らしつけていた。
「晴れてる」
ユウキの胸に顔を押し付けていた侑子も、急激に明るくなったことに気がついたらしい。顔を上げて空を仰ぎ見ていた。
「きれいだね」
歌を止めても、天気の変化は進んでいった。
厚い雲は幕を引くように、空の上から滑り去っていく。瘡蓋 の下の新しい皮膚が顔をだす様を、ユウキは連想した。青空が広がっている。清々しい晴天だった。
「歌が止んでるよ」
「ほんとうだ」
ユウキが歌う前に聞こえていた誰かの歌声は、もう消えていた。
二人の耳が拾ったのは、遊園地のアトラクションから聞こえてくる音楽と、打ち寄せる静かな波の音だけだ。
「あれは誰の声だったの?」
ユウキの問に、侑子の顔はやはり引きつる。しかし顔に降り注ぐ暖かい日の光に励まされたかのように、彼女の表情はすぐに力を宿した。
ユウキの手をぎゅっと握りながら、侑子は一人の人物の名を告げたのだった。
ユウキが驚く前に、彼の高く結い上げた髷が解け、長い髪が背に落ちてきた。そして髪はみるみるうちにその色と長さを変化させ、あっという間に本来のユウキの髪へと戻っていく。
地面に落ちた簪 を拾い上げた侑子は、ユウキの指の間に、半透明の膜が生まれる瞬間を目撃した。
「ユウキちゃん、鱗が」
侑子の声は怯えていない。むしろ懐かしい人を見つけた時のように、慈愛を含んでいた。
ユウキの皮膚に、独特のうねりを持った高い音を伴いながら、青い鱗が生まれていく。
一枚の鱗が褐色の肌を隠すように生える度に鳴る音は、琵琶に似ていた。まるで全身が楽器になったかのようだ。
「顔にも生えてる?」
「うん。でも、目はそのままだね」
「痒くも痛くもないな。喋れるし」
「歯も人間のままだよ」
「舌も。声もそのまま。頭も?」
「うん。ああ、そうだ」
侑子はジャケットのポケットを探ってみた。胸ポケットのあみぐるみは失くしてしまったのだが、この時頭に浮かんだ品物は、ちゃんと夢の中にも持ってくることができたようだった。
螺鈿細工のコンパクトミラーを取り出すと、ユウキに鏡面を見せた。
「これで確認できるね」
微笑んだユウキの顔を、鏡が映した。顔の上の鱗は、表情の変化を妨げることのない程度にしか、生えていないようだった。
無限を感じた。
疲労感はない。
それどころか、どんなに声を伸ばしても苦しくなかった。
声は果てしなく、どこまでも続いていく。途切れることなく、まるで世界が始まった時から、ずっとその場所に存在している波のように、確実に。
「聞こえる」
旋律に乗せていないユウキの声が聞こえた。
コードを押さえる指を外すと同時に、ギターも、アンプも、ピックさえも消えた。
侑子とユウキだけがその場所に立っていて、二人は耳をすませていた。
「誰かが歌ってる」
二人の耳に届く歌声は、二人のどちらのものでもなかった。
この夢の中に第三者が出てきたことはなかったので、少しだけ緊張を感じる。
侑子はユウキの手を握って、歩き出した。
「歌っている人、探しに行こう」
「誰だと思う?」
ユウキの問いかけに、侑子は呟いた。
「……私、知ってる」
「そうなの? 俺は知らない声だなぁ」
「この曲」
「ユーコちゃん?」
「この曲も知ってるよ」
「ニホンの曲?」
侑子は足を止めて、ゆっくりと頷いた。見上げてきた彼女の顔に不安の影が見えたので、ユウキの腕は自然と彼女の身体を包みこんでいた。
「ユウキちゃん、歌って」
侑子は震えている。
どうしたのだろう。
懇願するように、繰り返し「歌って」と言っている。
「この曲、ユウキちゃんの声で歌って」
「どうしたの? 何が怖い?」
「いいから、お願い。ユウキちゃんの声で歌って。そうしたら大丈夫だから」
譫言のように繰り返す言葉に、ユウキは理由を問い詰めることはやめた。
気持ちを鎮めて、どこからか聞こえてくる歌声に耳をそばだてた。意識を集中して、奏でられる旋律を記憶に刻みつけていく。
「……不思議な言葉が入ってる。これは掛け声か何か? 他国の言葉なのか」
呟きに、侑子の反応はなかった。
発声のために、ユウキは大きく息を吸い込んだ。
***
空が晴れていく。
腕の中で、侑子の身体の強張りが解けていくのが分かった。
繰り返し歌う中で、その唄の詩が、意識下でゲシュタルト崩壊を起こしていく。
――舟歌か? 民謡のようだ。いや……
意味のとれる言葉と、意味不明な言葉が混在していた。
民謡ではよくある掛け声の一種かとも思ったが、ユウキの知らない音だった。
――呪文みたいだ
眩しいと感じて初めて、天気が変わったのだと気がついた。
不思議な灰色の空が二つに割れて、太陽が顔を出している。昼間の白い陽光が、ユウキと侑子を一つの影の上に乗せて照らしつけていた。
「晴れてる」
ユウキの胸に顔を押し付けていた侑子も、急激に明るくなったことに気がついたらしい。顔を上げて空を仰ぎ見ていた。
「きれいだね」
歌を止めても、天気の変化は進んでいった。
厚い雲は幕を引くように、空の上から滑り去っていく。
「歌が止んでるよ」
「ほんとうだ」
ユウキが歌う前に聞こえていた誰かの歌声は、もう消えていた。
二人の耳が拾ったのは、遊園地のアトラクションから聞こえてくる音楽と、打ち寄せる静かな波の音だけだ。
「あれは誰の声だったの?」
ユウキの問に、侑子の顔はやはり引きつる。しかし顔に降り注ぐ暖かい日の光に励まされたかのように、彼女の表情はすぐに力を宿した。
ユウキの手をぎゅっと握りながら、侑子は一人の人物の名を告げたのだった。
ユウキが驚く前に、彼の高く結い上げた髷が解け、長い髪が背に落ちてきた。そして髪はみるみるうちにその色と長さを変化させ、あっという間に本来のユウキの髪へと戻っていく。
地面に落ちた
「ユウキちゃん、鱗が」
侑子の声は怯えていない。むしろ懐かしい人を見つけた時のように、慈愛を含んでいた。
ユウキの皮膚に、独特のうねりを持った高い音を伴いながら、青い鱗が生まれていく。
一枚の鱗が褐色の肌を隠すように生える度に鳴る音は、琵琶に似ていた。まるで全身が楽器になったかのようだ。
「顔にも生えてる?」
「うん。でも、目はそのままだね」
「痒くも痛くもないな。喋れるし」
「歯も人間のままだよ」
「舌も。声もそのまま。頭も?」
「うん。ああ、そうだ」
侑子はジャケットのポケットを探ってみた。胸ポケットのあみぐるみは失くしてしまったのだが、この時頭に浮かんだ品物は、ちゃんと夢の中にも持ってくることができたようだった。
螺鈿細工のコンパクトミラーを取り出すと、ユウキに鏡面を見せた。
「これで確認できるね」
微笑んだユウキの顔を、鏡が映した。顔の上の鱗は、表情の変化を妨げることのない程度にしか、生えていないようだった。