81.四肢
文字数 1,791文字
「あの刃物、ただの凶器ではないんですよ」
ノコギリの刃は、ユウキの右肩に沿えられていた。
「私とシグラが開発した、特別な物なのです。私たちが天膜を採取するために作り出した刃物」
ブンノウの声は、誇らしげに大きくなった。
「あの刃は、天膜を切ることができる。ねえ、ユーコ。人体を覆う天膜が破れたら、どうなるか知っていますか?」
侑子は首を振った。必死に「やめて」を伝えようとする。精一杯のアピールだった。
「並行世界は昨今、新種の流行り病で大変なことになっているのでしょう? ザゼルから聞いていますよ。あなたのいた国――ニホンには、ヒノクニのような天膜は存在しなかった。物騒な病原体から、人体は無防備な状態だった。この世界における他国 のように」
壁の向こうでノコギリを構える男は、こちらに顔を向けたまま動きを止めている。ブンノウの指示を待っているのだろう。
「ヒノクニ国民を加護する天膜が破れたら、その人間は身体の外側のあらゆる危険から身を守ることができなくなる。今まで免疫のなかった、あらゆるものへの抵抗を失う。――その歌歌いの青年は、腕を切り取られたと同時に、確実に死へと身体を蝕まれていく運命にあるでしょうね」
侑子の腕が掴まれ、動かされた。掌に硬く冷たい感触が広がる。兵器の表面を覆う、青いグラデーションの鱗に触っていた。
「彼が四肢を順番に切り取られ、苦しみ抜いて死んでいく姿を、目の当たりにしたいですか?」
フッ、フッと、嗚咽と鼻息でしか音を出せない。猿轡を魔法でなんとかしようとしても、力が遮られるように自由にならなかった。
その一方で、ある一つの道筋だけはまっすぐと二つの目標物に向かって開けているのが分かる。
それは、二体の半魚人へと続く、侑子の特別な魔力の道筋だった。
――嫌だ
苦痛から少しでも逃れようとしたかのように、ユウキが頭を大きく動かした。
彼の瞳が此方を向く。向こうから此方は見えないはずなので、視線は合わないはずだった。
――嫌
侑子の視線と、ユウキの視線が一瞬だけ結びついたように思えた。
――いなくならないで
涙の堰が切られた後、侑子の視界は再び明瞭になる。
ノコギリは動かないまま同じ位置を保っていることに、ほっとする。
気が抜けるような感覚だった。
――ああ……だめ……
ゆるゆると力が解放される。
手が触れた先にある、青い鱗。
大好きな硝子の鱗。
私は今、魔法を使っている
――ユウキちゃん
硝子壁の一部がドアのように開き、シグラが向こう側に一歩踏み出した。ユウキに向かって手を翳したのが見えた。
ユウキに足を乗せ、ノコギリを構えていた男が無言でその場から離れる。
――ユウキちゃん
立ち上がったユウキに、シグラが何か話しかけていたが、侑子には内容が入ってこなかった。
「お疲れさまでした」
その言葉に振り返る。
侑子の身体も、いつの間にか自由になっていた。びしょ濡れの猿轡が、足元に落ちていた。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔に、四つの手が触れた。
侑子の涙を拭い取るように動き、頭を優しく撫でられる。
硬い金属のような感触だ。体温なんてない。水かきの向こう側に透けて見えたのは、部屋の照明だ。
その触れ方は、侑子に対する深い労りを込めたもので、思わず縋りつきたい衝動に駆られた。
「あなたは素晴らしい功績を立てた」
上ずったブンノウの声がする。
侑子の視界は、青い鱗でいっぱいだ。
「その功績を讃えて、最愛の人と二人きりで過ごせる時間を贈りましょう」
二体の半魚人が、侑子から離れていく。
彼らは自らの足で動き、大きな目には光が宿っていた。
まっすぐ侑子を見ていた。後ろへ後ろへと後退しながら、手を振っている。
「……動いてる」
そう呟いた侑子の声は、ブンノウに届くことはなかった。彼は二体の兵器と共に、既に退室していたのだ。
侑子を後ろから強く抱きしめたのは、ユウキの腕だった。
肩を抱いて頬を撫でる手には、青い鱗も、半透明の水かきもない。しかしその触れ方は、先程の半魚人たちとそっくりだった。
確かに感じるぬくもりに、我に返る。
「ユウキちゃん……どうしよう、私」
立ち上がって向かい合い、胸に顔を埋める。
安堵と絶望
自分がやってしまったことを、振り返ることが怖い。
二体の半魚人の四肢は、滑らかに動いていた。
それを可能にしたのは――――彼らに命を与えてしまったのは、侑子だった。
ノコギリの刃は、ユウキの右肩に沿えられていた。
「私とシグラが開発した、特別な物なのです。私たちが天膜を採取するために作り出した刃物」
ブンノウの声は、誇らしげに大きくなった。
「あの刃は、天膜を切ることができる。ねえ、ユーコ。人体を覆う天膜が破れたら、どうなるか知っていますか?」
侑子は首を振った。必死に「やめて」を伝えようとする。精一杯のアピールだった。
「並行世界は昨今、新種の流行り病で大変なことになっているのでしょう? ザゼルから聞いていますよ。あなたのいた国――ニホンには、ヒノクニのような天膜は存在しなかった。物騒な病原体から、人体は無防備な状態だった。この世界における
壁の向こうでノコギリを構える男は、こちらに顔を向けたまま動きを止めている。ブンノウの指示を待っているのだろう。
「ヒノクニ国民を加護する天膜が破れたら、その人間は身体の外側のあらゆる危険から身を守ることができなくなる。今まで免疫のなかった、あらゆるものへの抵抗を失う。――その歌歌いの青年は、腕を切り取られたと同時に、確実に死へと身体を蝕まれていく運命にあるでしょうね」
侑子の腕が掴まれ、動かされた。掌に硬く冷たい感触が広がる。兵器の表面を覆う、青いグラデーションの鱗に触っていた。
「彼が四肢を順番に切り取られ、苦しみ抜いて死んでいく姿を、目の当たりにしたいですか?」
フッ、フッと、嗚咽と鼻息でしか音を出せない。猿轡を魔法でなんとかしようとしても、力が遮られるように自由にならなかった。
その一方で、ある一つの道筋だけはまっすぐと二つの目標物に向かって開けているのが分かる。
それは、二体の半魚人へと続く、侑子の特別な魔力の道筋だった。
――嫌だ
苦痛から少しでも逃れようとしたかのように、ユウキが頭を大きく動かした。
彼の瞳が此方を向く。向こうから此方は見えないはずなので、視線は合わないはずだった。
――嫌
侑子の視線と、ユウキの視線が一瞬だけ結びついたように思えた。
――いなくならないで
涙の堰が切られた後、侑子の視界は再び明瞭になる。
ノコギリは動かないまま同じ位置を保っていることに、ほっとする。
気が抜けるような感覚だった。
――ああ……だめ……
ゆるゆると力が解放される。
手が触れた先にある、青い鱗。
大好きな硝子の鱗。
私は今、魔法を使っている
――ユウキちゃん
硝子壁の一部がドアのように開き、シグラが向こう側に一歩踏み出した。ユウキに向かって手を翳したのが見えた。
ユウキに足を乗せ、ノコギリを構えていた男が無言でその場から離れる。
――ユウキちゃん
立ち上がったユウキに、シグラが何か話しかけていたが、侑子には内容が入ってこなかった。
「お疲れさまでした」
その言葉に振り返る。
侑子の身体も、いつの間にか自由になっていた。びしょ濡れの猿轡が、足元に落ちていた。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔に、四つの手が触れた。
侑子の涙を拭い取るように動き、頭を優しく撫でられる。
硬い金属のような感触だ。体温なんてない。水かきの向こう側に透けて見えたのは、部屋の照明だ。
その触れ方は、侑子に対する深い労りを込めたもので、思わず縋りつきたい衝動に駆られた。
「あなたは素晴らしい功績を立てた」
上ずったブンノウの声がする。
侑子の視界は、青い鱗でいっぱいだ。
「その功績を讃えて、最愛の人と二人きりで過ごせる時間を贈りましょう」
二体の半魚人が、侑子から離れていく。
彼らは自らの足で動き、大きな目には光が宿っていた。
まっすぐ侑子を見ていた。後ろへ後ろへと後退しながら、手を振っている。
「……動いてる」
そう呟いた侑子の声は、ブンノウに届くことはなかった。彼は二体の兵器と共に、既に退室していたのだ。
侑子を後ろから強く抱きしめたのは、ユウキの腕だった。
肩を抱いて頬を撫でる手には、青い鱗も、半透明の水かきもない。しかしその触れ方は、先程の半魚人たちとそっくりだった。
確かに感じるぬくもりに、我に返る。
「ユウキちゃん……どうしよう、私」
立ち上がって向かい合い、胸に顔を埋める。
安堵と絶望
自分がやってしまったことを、振り返ることが怖い。
二体の半魚人の四肢は、滑らかに動いていた。
それを可能にしたのは――――彼らに命を与えてしまったのは、侑子だった。