62.可能性
文字数 2,387文字
「もしもし。聞こえてる?」
『ああ、大丈夫だ。顔も見えてるよ』
「こっちもバッチリ。お父さん、お酒飲んだ?」
『はは。分かっちゃったか。さっきまで研究室の連中と飲んでたから。いや、ほんのちょっとだよ』
「明日早いの?」
『大丈夫だよ、心配しないで』
愛佳たちが帰った後、侑子はノートパソコンの画面に向かって、話しかけていた。
画面には父の赤ら顔。
カリフォルニアは、深夜二時を回るところだろう。
侑子と幹夫は、時折こんな風にテレビ通話で会話する。内容はお互いの近況から、他愛もない日常の話、侑子の並行世界での思い出話まで、多岐に渡った。
父は侑子とユウキの文通も、知っている。
侑子本人ですら話していて現実感が薄く感じる事柄も、幹夫は決して否定しなかった。
ただ娘の話に相槌を打ち、興味深そうに聞き入るのだ。
空返事をしているわけでもなく、数ヶ月前にちらっと話した内容を、『そういえばあの後はどうなったの?』等と掘り返してくることもある。細かく記憶しているのだ。
「文通ができなくなっちゃった」
前置き無く、話したかった話題を切り出した。
『母さんから少し聞いてるよ。やっぱりユウキくんとの手紙のことだったんだな。随分元気をなくしていると聞いてたけど、確かに少し痩せたかな?』
幹夫の声は優しい。
侑子は父の声が好きだった。
「手紙が向こうに届かなくなったの。消えなくなった。向こうからも来ないし。もう、やりとりすることは出来なくなったってことだよね」
侑子はなるべく具体的に、手紙が届かなくなったと分かった時の状況を、話して聞かせた。
辛い感情まで蘇ってくることを覚悟したが、記憶と一緒に気持ちが整っていくのを感じた。
『なるほど。そうだな。こっちから送信できないのと同様、向こうも送れなくなって困惑しているかも知れないね』
幹夫は顎に手をあてて、何か考えこむように視線を下げた。
『あるいは……あくまで推測でしかないけど』
人差し指を立て、幹夫が画面の向こうから侑子を見つめてくる。
『こちらの屋根裏環境に、何も変化は起きていない。これは確かだね。だとすと変化が起きたのは、向こうの環境であると考えられる』
『変化?』
侑子の疑問符は揺れた。
『ユウキくんが手紙を置いていた場所も、確か屋根裏空間だったんだね?』
『うん』
『その場所に、手紙を置いておけない変化があったってことじゃないだろうか』
『変化……』
心当たりはあった。
地震に水害、ヒノクニは災害が多発していた。
『どうしよう、お父さん』
繋がりが消えた世界で生きていく決意を、固めたばかりだというのに。
早くも侑子の心は、声と共に震えた。
『もしかしたら、とんでもないことが起こったのかも知れない』
『落ち着いて、侑子。今侑子が考えていること、全ては妄想でしかない』
『妄想?』
『そうだ。本当に実際起こっているかどうか、分からない事案だ。確かめることが出来ない以上、全て妄想でしかない』
『確かにそうだけど』
『妄想に縛られずに、心は強く持つべきだ。回すべき自分自身の生活がある場合は、特にね』
父は優しい声をしているし、語り口も穏やかだ。しかし娘の表情を見てから、話そうと決めた言葉を、反故にすることはない。
『侑子には高校生活があるね。バンド活動もある。今は何かと制限されて不自由だろうけど。でも大切にすべき、優先すべき侑子だけの生活の軸がある。僕としては、見えない妄想に振り回されることなく、見えることの中で侑子が取り組みたいことに集中するほうが、君のためになると思う』
『うん……』
『はは。説教じみてたかな。すまない』
首を振った侑子は、無理に笑おうとしたが止めておいた。
幹夫はそんな娘の表情に、軽く二回頷いた。
『それにね、侑子』
幹夫は再度、人差し指を上げた。
『いつも言っていることだけど、“絶対”はないんだ。絶対的に正しい物理法則なんて、存在しないんだよ。侑子の妄想が絶対ではないのと同じくらい、再び並行世界との繋がりが生じる可能性だって、“絶対ない”だなんて、誰にも言い切れない』
侑子の瞳が少しだけ見開かれて、そこに幹夫は、若々しい輝きを見つけた。
画面越しではあったが、それははっきりと分かる光で、見いだせたことに安堵するのは、親としての感情だろう。
その瞳の輝きを弱らせたくなくて、幹夫は学者としての見解を捨てた言葉を、娘に贈りたくなった。
『また繋がりが生まれるかもしれない。生まれないかもしれない。どちらも絶対ではないのなら、侑子が考えたい方へ考えていればいいんだ。言霊ってあるだろう?』
『驚いた』
案の定、侑子は目を丸めていた。
『お父さんから言霊って言葉を聞くとは、思わなかった』
『父さんはロボットじゃなくて、人間だからね。感情豊かに生きてる』
『そっか』
『もっと言うと、最近だと引き寄せの法則とか。科学者の頭ではそんなバカなと考えていても、一個人の感情として気になる時もある』
『ふふ』
おどけた声音に、侑子は笑った。
『だからね、人は一筋縄じゃいかない。現象だってそうだよ。だから振り回される。感情にも、現象にも』
『そうだね。……ありがとう、お父さん』
『父さん、そろそろ眠くなってきたよ。侑子はもうすぐ夕飯かな』
『うん。今日は何となく食べられそう。お腹減って来たよ』
『それは良かった』
『また連絡していい?』
『もちろん。いつでもしておいで』
『ありがとう。おやすみなさい』
終話ボタンをクリックすると、父が写っていた画面は、味気ないグレーの壁紙へと切り替わった。
そこに自分が映り込んで、侑子はその顔が思いの外明るい表情であることに気づく。
――大丈夫かもしれない
そんな言葉が浮かんできて、同時に腹の虫が鳴る音が聞こえた。
これはいよいよ大丈夫だという、身体からの合図かもしれない。
左腕につけっぱなしのブレスレットを一撫でして、侑子は紐先の青い鱗に口づけた。
『ああ、大丈夫だ。顔も見えてるよ』
「こっちもバッチリ。お父さん、お酒飲んだ?」
『はは。分かっちゃったか。さっきまで研究室の連中と飲んでたから。いや、ほんのちょっとだよ』
「明日早いの?」
『大丈夫だよ、心配しないで』
愛佳たちが帰った後、侑子はノートパソコンの画面に向かって、話しかけていた。
画面には父の赤ら顔。
カリフォルニアは、深夜二時を回るところだろう。
侑子と幹夫は、時折こんな風にテレビ通話で会話する。内容はお互いの近況から、他愛もない日常の話、侑子の並行世界での思い出話まで、多岐に渡った。
父は侑子とユウキの文通も、知っている。
侑子本人ですら話していて現実感が薄く感じる事柄も、幹夫は決して否定しなかった。
ただ娘の話に相槌を打ち、興味深そうに聞き入るのだ。
空返事をしているわけでもなく、数ヶ月前にちらっと話した内容を、『そういえばあの後はどうなったの?』等と掘り返してくることもある。細かく記憶しているのだ。
「文通ができなくなっちゃった」
前置き無く、話したかった話題を切り出した。
『母さんから少し聞いてるよ。やっぱりユウキくんとの手紙のことだったんだな。随分元気をなくしていると聞いてたけど、確かに少し痩せたかな?』
幹夫の声は優しい。
侑子は父の声が好きだった。
「手紙が向こうに届かなくなったの。消えなくなった。向こうからも来ないし。もう、やりとりすることは出来なくなったってことだよね」
侑子はなるべく具体的に、手紙が届かなくなったと分かった時の状況を、話して聞かせた。
辛い感情まで蘇ってくることを覚悟したが、記憶と一緒に気持ちが整っていくのを感じた。
『なるほど。そうだな。こっちから送信できないのと同様、向こうも送れなくなって困惑しているかも知れないね』
幹夫は顎に手をあてて、何か考えこむように視線を下げた。
『あるいは……あくまで推測でしかないけど』
人差し指を立て、幹夫が画面の向こうから侑子を見つめてくる。
『こちらの屋根裏環境に、何も変化は起きていない。これは確かだね。だとすと変化が起きたのは、向こうの環境であると考えられる』
『変化?』
侑子の疑問符は揺れた。
『ユウキくんが手紙を置いていた場所も、確か屋根裏空間だったんだね?』
『うん』
『その場所に、手紙を置いておけない変化があったってことじゃないだろうか』
『変化……』
心当たりはあった。
地震に水害、ヒノクニは災害が多発していた。
『どうしよう、お父さん』
繋がりが消えた世界で生きていく決意を、固めたばかりだというのに。
早くも侑子の心は、声と共に震えた。
『もしかしたら、とんでもないことが起こったのかも知れない』
『落ち着いて、侑子。今侑子が考えていること、全ては妄想でしかない』
『妄想?』
『そうだ。本当に実際起こっているかどうか、分からない事案だ。確かめることが出来ない以上、全て妄想でしかない』
『確かにそうだけど』
『妄想に縛られずに、心は強く持つべきだ。回すべき自分自身の生活がある場合は、特にね』
父は優しい声をしているし、語り口も穏やかだ。しかし娘の表情を見てから、話そうと決めた言葉を、反故にすることはない。
『侑子には高校生活があるね。バンド活動もある。今は何かと制限されて不自由だろうけど。でも大切にすべき、優先すべき侑子だけの生活の軸がある。僕としては、見えない妄想に振り回されることなく、見えることの中で侑子が取り組みたいことに集中するほうが、君のためになると思う』
『うん……』
『はは。説教じみてたかな。すまない』
首を振った侑子は、無理に笑おうとしたが止めておいた。
幹夫はそんな娘の表情に、軽く二回頷いた。
『それにね、侑子』
幹夫は再度、人差し指を上げた。
『いつも言っていることだけど、“絶対”はないんだ。絶対的に正しい物理法則なんて、存在しないんだよ。侑子の妄想が絶対ではないのと同じくらい、再び並行世界との繋がりが生じる可能性だって、“絶対ない”だなんて、誰にも言い切れない』
侑子の瞳が少しだけ見開かれて、そこに幹夫は、若々しい輝きを見つけた。
画面越しではあったが、それははっきりと分かる光で、見いだせたことに安堵するのは、親としての感情だろう。
その瞳の輝きを弱らせたくなくて、幹夫は学者としての見解を捨てた言葉を、娘に贈りたくなった。
『また繋がりが生まれるかもしれない。生まれないかもしれない。どちらも絶対ではないのなら、侑子が考えたい方へ考えていればいいんだ。言霊ってあるだろう?』
『驚いた』
案の定、侑子は目を丸めていた。
『お父さんから言霊って言葉を聞くとは、思わなかった』
『父さんはロボットじゃなくて、人間だからね。感情豊かに生きてる』
『そっか』
『もっと言うと、最近だと引き寄せの法則とか。科学者の頭ではそんなバカなと考えていても、一個人の感情として気になる時もある』
『ふふ』
おどけた声音に、侑子は笑った。
『だからね、人は一筋縄じゃいかない。現象だってそうだよ。だから振り回される。感情にも、現象にも』
『そうだね。……ありがとう、お父さん』
『父さん、そろそろ眠くなってきたよ。侑子はもうすぐ夕飯かな』
『うん。今日は何となく食べられそう。お腹減って来たよ』
『それは良かった』
『また連絡していい?』
『もちろん。いつでもしておいで』
『ありがとう。おやすみなさい』
終話ボタンをクリックすると、父が写っていた画面は、味気ないグレーの壁紙へと切り替わった。
そこに自分が映り込んで、侑子はその顔が思いの外明るい表情であることに気づく。
――大丈夫かもしれない
そんな言葉が浮かんできて、同時に腹の虫が鳴る音が聞こえた。
これはいよいよ大丈夫だという、身体からの合図かもしれない。
左腕につけっぱなしのブレスレットを一撫でして、侑子は紐先の青い鱗に口づけた。