54.暗示
文字数 2,170文字
控室のドアを開けたのは、ミツキだった。
「良かった。リハ終わったとこ?」
「どうしたの、ミツキ」
コンパクトミラーを手に持ったまま、ユウキが訊いた。ミツキは息を切らしていた。
「ちょっとユーコちゃんに来てもらいたいって。アオイ達が」
「今から?」
バンドメンバー達の視線は、自然と掛時計に注がれた。今日は本番までの時間があまりない。
「昨日動いていたロボットに、不具合が起こったとかで……」
「ロボットに不具合?」
侑子は首を傾げた。
魔法で動けるようになった物が、今まで不具合と呼べるような様子になったところは、見たことがなかった。
想像がつかない。
「動かなくなっちゃったの?」
「そうみたい」
「どうしてだろう……そんなこと、一度もなかったのに」
「今すぐじゃないとダメ?」
考え込む侑子の後方から、躊躇いがちなレイの声が聞こえる。
「もう本番始まっちゃうよ」
ミツキはふいにユウキの顔を覗き込むようにして、すぐにその顔を逸した。
どこかバツが悪そうな表情が浮かんだのは、ユウキの気の所為だろうか。
「その……今日はユーコちゃん抜きでって、ダメかな」
「何言ってんだ」
間髪入れず眉を寄せたユウキに、ミツキは唇を引き結んだ。
「無理言ってるのは分かってるわよ。でも」
顔を上げた侑子の視線が、ユウキのものとぶつかった。さっきまで鏡に映っていた方の目が、僅かに充血している。
今日は昨日仲良くなった研究員達が、ライブハウスにやってくる。ユウキと侑子が二人で歌う姿を間近で見れることを、すごく楽しみにしていると笑った顔が思い浮かんだ。
「……原因が分からないからこそ、早めにユーコちゃん自身で確かめた方がいいって。お願い。一緒に来て、ユーコちゃん」
腕をひかれて、侑子は流石に驚いた。
ユウキが止めようと反対の腕をつかもうとしたところに、アミの声が追いかけてくる。
「待って、ミツキ。その不具合のあるロボットの方を、ここに運んでくることはできないの?」
花色の瞳に見据えられ、ミツキの顔が揺れた。絞り出した声が不自然な程揺れている。
「分からない……。私、アオイ達からユーコちゃんを呼んでくるように、頼まれただけだもの」
こういう時、透証が動かないことを酷くもどかしく感じた。
もしもすぐにアオイに連絡を取ることができていれば――――この時の『もしも』を、侑子はその後、何度も思い返すことになるのだった。
アミが「折衷案だ」と呟いた。
「今すぐ研究室へ行って、そのロボットをユーコちゃんがここに運んでおいで。移動の間に、さっと確認するだけの時間は確保できるだろう。魔法がきちんとかかっていなかったのなら、その場でかけなおせばいい。控室においておけば、ライブの後でじっくり確かめることもすぐにできる」
ショウジが再び時刻を確認した。
そろそろライブハウスのスタッフから、声がかかる頃だろう。
「開演には間に合わなくない?」
「途中からステージに上がるしかない。前半はユウキだけで。今まで何度もその流れでやったことはあったし、大丈夫だろう。幸い今日のセットリストは、ユウキ一人でもユーコちゃんと一緒でも、どちらでもいける曲しかない」
「決まりね。ありがとう、アミ」
安堵して表情を緩めたミツキは、ようやくいつものような明るいトーンで「行こう、ユーコちゃん」と侑子の腕を引いた。
「待って」
ドアを越えようとした侑子を、ユウキの声が呼び止めた。
ユウキは素早く脱いだ自分のジャケットを、振り返った侑子の肩に羽織らせた。
「外、きっと寒いだろう。それ着ていきなよ」
「ありがとう」
羽織った瞬間、嗅ぎ慣れたユウキの香りに包まれた。体温が残ったままの布の柔らかさは、侑子を簡単に微笑ませる。
「行ってくるね。また後で」
「ユーコちゃん」
その時、なぜ侑子の手を再び掴んだのか。
ユウキには理由がよく分からなかった。自分で行った行為なのに。
完全に無意識だった。
しかし、ユウキの手は、しっかりと侑子の手を握っていた。
「ちょっと。早くしないと困るんでしょう? 大丈夫よ、ここから車ですぐなんだから」
呆れたようなミツキの声に、我に返る。
手を離そうとして、違和感が頭の中を覆い尽くしていく。
――ダメだ。離すな。行かすな
自分の声のようで、自分の声でないような。
意識の中でしきりに主張する言葉は、まるであの夢の中で聞こえてくる音声のように、ぼんやりとしていた。しかし、強い。確かにユウキの意識の中に、楔を打ち込むように刻み込まれていく。
「ユウキちゃん、どうしたの?」
ユウキの意識を戻したのは、侑子の声だった。
これが幸か不幸か、どちらだったのか、ユウキには判断できなかった。
「俺も――」
一緒に行く、と告げようとしたところに、廊下からバンドメンバー達を呼ぶ大きな声が聞こえてきた。ユウキが言いかけた言葉は、スタッフの声によってかき消される。
「そろそろスタンバイお願いしまーす!」
――俺も一緒に行くなんて、言えるわけないじゃないか
これから今日の幕が上がるのだ。
「すぐ戻って来るよ」
侑子は、ステージへと続くのとは反対側の廊下へと駆けていった。
彼女に手を振るメンバー達の最後尾を、ユウキはゆっくりと歩いた。
「すぐ戻ってくる」
暗示をかけるように、呟いた。
――なるほど、これが言霊信仰の正体か
ユウキはぼんやりと納得した。
「良かった。リハ終わったとこ?」
「どうしたの、ミツキ」
コンパクトミラーを手に持ったまま、ユウキが訊いた。ミツキは息を切らしていた。
「ちょっとユーコちゃんに来てもらいたいって。アオイ達が」
「今から?」
バンドメンバー達の視線は、自然と掛時計に注がれた。今日は本番までの時間があまりない。
「昨日動いていたロボットに、不具合が起こったとかで……」
「ロボットに不具合?」
侑子は首を傾げた。
魔法で動けるようになった物が、今まで不具合と呼べるような様子になったところは、見たことがなかった。
想像がつかない。
「動かなくなっちゃったの?」
「そうみたい」
「どうしてだろう……そんなこと、一度もなかったのに」
「今すぐじゃないとダメ?」
考え込む侑子の後方から、躊躇いがちなレイの声が聞こえる。
「もう本番始まっちゃうよ」
ミツキはふいにユウキの顔を覗き込むようにして、すぐにその顔を逸した。
どこかバツが悪そうな表情が浮かんだのは、ユウキの気の所為だろうか。
「その……今日はユーコちゃん抜きでって、ダメかな」
「何言ってんだ」
間髪入れず眉を寄せたユウキに、ミツキは唇を引き結んだ。
「無理言ってるのは分かってるわよ。でも」
顔を上げた侑子の視線が、ユウキのものとぶつかった。さっきまで鏡に映っていた方の目が、僅かに充血している。
今日は昨日仲良くなった研究員達が、ライブハウスにやってくる。ユウキと侑子が二人で歌う姿を間近で見れることを、すごく楽しみにしていると笑った顔が思い浮かんだ。
「……原因が分からないからこそ、早めにユーコちゃん自身で確かめた方がいいって。お願い。一緒に来て、ユーコちゃん」
腕をひかれて、侑子は流石に驚いた。
ユウキが止めようと反対の腕をつかもうとしたところに、アミの声が追いかけてくる。
「待って、ミツキ。その不具合のあるロボットの方を、ここに運んでくることはできないの?」
花色の瞳に見据えられ、ミツキの顔が揺れた。絞り出した声が不自然な程揺れている。
「分からない……。私、アオイ達からユーコちゃんを呼んでくるように、頼まれただけだもの」
こういう時、透証が動かないことを酷くもどかしく感じた。
もしもすぐにアオイに連絡を取ることができていれば――――この時の『もしも』を、侑子はその後、何度も思い返すことになるのだった。
アミが「折衷案だ」と呟いた。
「今すぐ研究室へ行って、そのロボットをユーコちゃんがここに運んでおいで。移動の間に、さっと確認するだけの時間は確保できるだろう。魔法がきちんとかかっていなかったのなら、その場でかけなおせばいい。控室においておけば、ライブの後でじっくり確かめることもすぐにできる」
ショウジが再び時刻を確認した。
そろそろライブハウスのスタッフから、声がかかる頃だろう。
「開演には間に合わなくない?」
「途中からステージに上がるしかない。前半はユウキだけで。今まで何度もその流れでやったことはあったし、大丈夫だろう。幸い今日のセットリストは、ユウキ一人でもユーコちゃんと一緒でも、どちらでもいける曲しかない」
「決まりね。ありがとう、アミ」
安堵して表情を緩めたミツキは、ようやくいつものような明るいトーンで「行こう、ユーコちゃん」と侑子の腕を引いた。
「待って」
ドアを越えようとした侑子を、ユウキの声が呼び止めた。
ユウキは素早く脱いだ自分のジャケットを、振り返った侑子の肩に羽織らせた。
「外、きっと寒いだろう。それ着ていきなよ」
「ありがとう」
羽織った瞬間、嗅ぎ慣れたユウキの香りに包まれた。体温が残ったままの布の柔らかさは、侑子を簡単に微笑ませる。
「行ってくるね。また後で」
「ユーコちゃん」
その時、なぜ侑子の手を再び掴んだのか。
ユウキには理由がよく分からなかった。自分で行った行為なのに。
完全に無意識だった。
しかし、ユウキの手は、しっかりと侑子の手を握っていた。
「ちょっと。早くしないと困るんでしょう? 大丈夫よ、ここから車ですぐなんだから」
呆れたようなミツキの声に、我に返る。
手を離そうとして、違和感が頭の中を覆い尽くしていく。
――ダメだ。離すな。行かすな
自分の声のようで、自分の声でないような。
意識の中でしきりに主張する言葉は、まるであの夢の中で聞こえてくる音声のように、ぼんやりとしていた。しかし、強い。確かにユウキの意識の中に、楔を打ち込むように刻み込まれていく。
「ユウキちゃん、どうしたの?」
ユウキの意識を戻したのは、侑子の声だった。
これが幸か不幸か、どちらだったのか、ユウキには判断できなかった。
「俺も――」
一緒に行く、と告げようとしたところに、廊下からバンドメンバー達を呼ぶ大きな声が聞こえてきた。ユウキが言いかけた言葉は、スタッフの声によってかき消される。
「そろそろスタンバイお願いしまーす!」
――俺も一緒に行くなんて、言えるわけないじゃないか
これから今日の幕が上がるのだ。
「すぐ戻って来るよ」
侑子は、ステージへと続くのとは反対側の廊下へと駆けていった。
彼女に手を振るメンバー達の最後尾を、ユウキはゆっくりと歩いた。
「すぐ戻ってくる」
暗示をかけるように、呟いた。
――なるほど、これが言霊信仰の正体か
ユウキはぼんやりと納得した。