3.世界ⅰ八月三十一日

文字数 1,008文字

 八月三十一日の朝が始まる。

 侑子はまた夢を見なかった。こちらの世界に帰ってきてから、睡眠中に夢を見ることは一度もなかった。
もちろんあの夜の遊園地を舞台とした、半魚人の夢も同様だった。

 目覚めてから、まず目に入ったのはハンガーにかかった新しい制服だった。
文字通りの新品で、注文品が届いた際に試着した一度きりしかまだ袖を通していない。

 その制服はセーラー服ではなく、白いシンプルなブラウスと、灰色無地のプリーツスカート。冬服になるとブレザーを着て指定のリボンをつけることになるそうだが、夏服はこのシンプルな二点だけだった。

――確かに地味かな。愛ちゃんがセーラー服を羨ましいって言ってたのも分かるかも

 まだ半分微睡みの中だった。
タオルケットの中の足をぐっと伸ばし、仰向けになる。

 侑子は二学期から、隣の学区の中学校に編入することになっていた。

 本来なら中学二年生の侑子だったが、去年からまるまる一年間失踪していた。もう一度中学一年生の二学期からやり直しということだ。

 しかし元々在籍していた中学校で、もう一度一年生をやり直させるというのは、本人にとって酷なのではと周囲が考慮してくれた結果なのだろう。
――ただでさえ侑子はパラレルワールドだの魔法の世界がどうのだのと、奇天烈な発言を真面目な顔で繰り返していたのだ。これ以上の精神的な負担になることは避けるべきだと、大人たちは判断したに違いない。
 
――ありがたい話ではあるけどね

 侑子とて不安がないわけではなかった。
 以前いた学校で、クラスメートたちにも大人にしたのと同様の説明を堂々とできる自信はない。

 周囲の人間関係や環境をある程度リセットできることは、今の侑子にとっては丁度いいのかも知れない。

 更に、新しい学校側の配慮なのか、侑子が入るクラスには愛佳と蓮の姉弟もいた。二つ上の学年には遼もいるのだから、これ以上心強い新学期スタートはないだろう。

 段々目が覚めてきて、侑子は上体を起こす。そして、左腕を見つめた。

 銀のブレスレット。透明なとんぼ玉と六枚の硝子の鱗。
 眠る時には必ず腕につけるようにしていた。
またあの夢を見れるのではないかと、一縷の望みをかけて。
 今のところ、その望みが叶ったことはないのだが。

 ぎゅっと左腕をブレスレットごと右手で握りしめて、しばらくの間俯いた。

 声が聞きたかった。
あの深くて優しい、低い声。
女神が歌っているような美しいファルセットを。
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