93.夢の中
文字数 2,157文字
侑子はアイスクリームワゴンの隣に立っていた。店員の姿はない。
しかし隣に、誰かの気配を感じた。
「久しぶりだね」
侑子の声に微笑んだのは、半魚人――――に似せた姿をした、ユウキだった。
「本当に久しぶりだ。何年ぶりに会えたかな。この夢の中で」
侑子は寝る前に身に着けていた服と変わらない、いつものステージ衣装のままだった。ユウキから借りっぱなしのジャケットも、そのままである。
「ユウキちゃん、人間の姿なんだね」
「そうみたい。この衣装懐かしいな。最後にフルで着たのはいつだったか……多分、ユーコちゃんと最初に過ごした歳納のステージ以来だよ」
この言葉通り、ユウキの姿は半魚人ではないものの、二人の過去の記憶の中と同じ格好をしていた。
――初めてユウキちゃんの曲芸を見た時に、着ていた衣装だ
上から下まで硝子の鱗で覆われた煌びやかな衣装は、ユウキが動く度に涼やかな音を立てる。腰に巻いた長い布だけは、唯一今でもステージに立つユウキが身につける物だった。
髪もあの時のように淡い水色で、高く結い上げられていた。大きな玉のついた簪 も、記憶の中の物と一致しているようだ。
「ここは夢の中だよね? 俺達は今、眠っているんだ」
紫に輝く唇が動き、ラメを散らした目元が侑子を覗き込んだ。
「そうだよね。だってここは……」
侑子は辺りを見渡した。
そこは、廃墟ではない遊園地だった。
かつて何度も夢の舞台となっていた、二人のよく知る場所。
瓦礫は一つもなく、どの壁面にもひび割れを見つけることはできない。
風を切る大きな轟音は、ジェットコースターのもの。陽気な音楽はアトラクションから聞こえてくる電子音で、観覧車がゆっくりと回っていることを確認できた。
「私たち、また同じ夢を見ているの?」
「そうみたい」
ユウキは嬉しそうに笑い、侑子の手を取った。彼の指の間に水かきがないことに、侑子はその時気がついた。
「折角だから遊ぼうよ。あの頃みたいにさ」
ユウキの足取りは軽かった。侑子の手を引くと、踊るように路地を抜けていく。
「こんな風にまた同じ夢の中で会えたらって、何度考えたことか」
水かきがないおかげで、指と指を絡ませながら、きつく手を繋ぐことができた。
「しかも今は、こんな風に言葉が話せる。ユーコちゃんの顔もよく見えるし、声だってしっかり聞こえる」
「半魚人の衣装を着ているけれど、半魚人の身体ではないしね」
「君と現実に出会えたからだよ。その上でまた夢を共有してるってことは、どういう意味なんだろうね?」
二人の足は、迷いなく馴染みの場所を巡った。綺麗に舗装された道の上を、二人分の足音がリズムを刻む。
「私たち、眠る前に予知夢の話をしていたんだよ。……凶夢を吉夢に変えるには、この夢を予知夢に変えればいいんじゃないかって」
「覚えてるよ。ついさっきのことだもん」
立ち止まったのは、海を見下ろせる休憩エリアだった。海面に向かって猫脚のベンチが並んでいる。
夢を見ているだけのはずなのに、潮の香りを感じた。
「今、どんな気分?」
侑子の問に、ユウキは目を細めて笑った。青いアイシャドウで覆われた奥に、緑の瞳が輝いた。
「最高に決まってるじゃないか」
かがみ込み啄むようなキスをして、侑子の髪を撫でた。その色は桜色ではなく、よく知っている黒だった。その一部がしっかりとユウキの色に染まっていたので、更に気分を高揚させる。
「ユーコちゃんは?」
「私も最高。でもね、ちょっとだけ気になることが」
侑子は柵に手を乗せて、海の方へ視線を向ける。そしておもむろに上方へと顔を動かした。
「時間が違うの。私たちがいつも見ていたのは、夜の遊園地だった。今は多分昼間じゃない? ネオンも光っていないし、明るいし……けど、すごく空がどんよりしているの」
彼女の言う通り、頭上に広がるのは見事なまでの曇天だった。鼠色の空には雲の凹凸すら見えない。クレヨンで塗りつぶしたような、不思議な空だった。
「気になるのは、それだけ?」
ユウキの腕が肩に回される。頬に衣装の鱗があたって、侑子は硝子の冷たさとユウキの体温とを同時に感じた。
「天気なんてどうでもいいよ。時間帯だって。どちらも放っておけば、どんどん移り変わるものじゃないか」
侑子の大好きなその声は、陽気な調子を崩さなかった。
「それより、歌わない? 今すごく歌いたい気分なんだ。どんな歌でもいいよ」
いつの間にかユウキはギターを構えていて、繋がったケーブルの先にはアンプがあった。魔法で出現させたのだろうか。それともここが、夢の中だからだろうか。
「夢の中って、本当になんでもアリだよね」
欲しいと確信を持つ前に、侑子の左手もギターネックを握っている。こちらの世界に戻ってきてから、愛用しているギターだった。
掻き鳴らす弦の振動も、指で挟んだピックの厚みも、全て生々しく、馴染んだものばかり。
都合の良さは夢特有のものなのに、五感はリアリティを濃くしていく。
「歌って」
促す言葉の直後には、伸びやかな声が旋律を刻んだ。
ユウキの歌声は、侑子の思考の中に、他の何よりも鮮やかに色を落としていく。
特別な魔法は使っていない。
夢の中だからでもない。
けれど彼の声は極彩色の十二単のように幾重にも重なって、侑子の意識を歌の世界へと誘っていった。
しかし隣に、誰かの気配を感じた。
「久しぶりだね」
侑子の声に微笑んだのは、半魚人――――に似せた姿をした、ユウキだった。
「本当に久しぶりだ。何年ぶりに会えたかな。この夢の中で」
侑子は寝る前に身に着けていた服と変わらない、いつものステージ衣装のままだった。ユウキから借りっぱなしのジャケットも、そのままである。
「ユウキちゃん、人間の姿なんだね」
「そうみたい。この衣装懐かしいな。最後にフルで着たのはいつだったか……多分、ユーコちゃんと最初に過ごした歳納のステージ以来だよ」
この言葉通り、ユウキの姿は半魚人ではないものの、二人の過去の記憶の中と同じ格好をしていた。
――初めてユウキちゃんの曲芸を見た時に、着ていた衣装だ
上から下まで硝子の鱗で覆われた煌びやかな衣装は、ユウキが動く度に涼やかな音を立てる。腰に巻いた長い布だけは、唯一今でもステージに立つユウキが身につける物だった。
髪もあの時のように淡い水色で、高く結い上げられていた。大きな玉のついた
「ここは夢の中だよね? 俺達は今、眠っているんだ」
紫に輝く唇が動き、ラメを散らした目元が侑子を覗き込んだ。
「そうだよね。だってここは……」
侑子は辺りを見渡した。
そこは、廃墟ではない遊園地だった。
かつて何度も夢の舞台となっていた、二人のよく知る場所。
瓦礫は一つもなく、どの壁面にもひび割れを見つけることはできない。
風を切る大きな轟音は、ジェットコースターのもの。陽気な音楽はアトラクションから聞こえてくる電子音で、観覧車がゆっくりと回っていることを確認できた。
「私たち、また同じ夢を見ているの?」
「そうみたい」
ユウキは嬉しそうに笑い、侑子の手を取った。彼の指の間に水かきがないことに、侑子はその時気がついた。
「折角だから遊ぼうよ。あの頃みたいにさ」
ユウキの足取りは軽かった。侑子の手を引くと、踊るように路地を抜けていく。
「こんな風にまた同じ夢の中で会えたらって、何度考えたことか」
水かきがないおかげで、指と指を絡ませながら、きつく手を繋ぐことができた。
「しかも今は、こんな風に言葉が話せる。ユーコちゃんの顔もよく見えるし、声だってしっかり聞こえる」
「半魚人の衣装を着ているけれど、半魚人の身体ではないしね」
「君と現実に出会えたからだよ。その上でまた夢を共有してるってことは、どういう意味なんだろうね?」
二人の足は、迷いなく馴染みの場所を巡った。綺麗に舗装された道の上を、二人分の足音がリズムを刻む。
「私たち、眠る前に予知夢の話をしていたんだよ。……凶夢を吉夢に変えるには、この夢を予知夢に変えればいいんじゃないかって」
「覚えてるよ。ついさっきのことだもん」
立ち止まったのは、海を見下ろせる休憩エリアだった。海面に向かって猫脚のベンチが並んでいる。
夢を見ているだけのはずなのに、潮の香りを感じた。
「今、どんな気分?」
侑子の問に、ユウキは目を細めて笑った。青いアイシャドウで覆われた奥に、緑の瞳が輝いた。
「最高に決まってるじゃないか」
かがみ込み啄むようなキスをして、侑子の髪を撫でた。その色は桜色ではなく、よく知っている黒だった。その一部がしっかりとユウキの色に染まっていたので、更に気分を高揚させる。
「ユーコちゃんは?」
「私も最高。でもね、ちょっとだけ気になることが」
侑子は柵に手を乗せて、海の方へ視線を向ける。そしておもむろに上方へと顔を動かした。
「時間が違うの。私たちがいつも見ていたのは、夜の遊園地だった。今は多分昼間じゃない? ネオンも光っていないし、明るいし……けど、すごく空がどんよりしているの」
彼女の言う通り、頭上に広がるのは見事なまでの曇天だった。鼠色の空には雲の凹凸すら見えない。クレヨンで塗りつぶしたような、不思議な空だった。
「気になるのは、それだけ?」
ユウキの腕が肩に回される。頬に衣装の鱗があたって、侑子は硝子の冷たさとユウキの体温とを同時に感じた。
「天気なんてどうでもいいよ。時間帯だって。どちらも放っておけば、どんどん移り変わるものじゃないか」
侑子の大好きなその声は、陽気な調子を崩さなかった。
「それより、歌わない? 今すごく歌いたい気分なんだ。どんな歌でもいいよ」
いつの間にかユウキはギターを構えていて、繋がったケーブルの先にはアンプがあった。魔法で出現させたのだろうか。それともここが、夢の中だからだろうか。
「夢の中って、本当になんでもアリだよね」
欲しいと確信を持つ前に、侑子の左手もギターネックを握っている。こちらの世界に戻ってきてから、愛用しているギターだった。
掻き鳴らす弦の振動も、指で挟んだピックの厚みも、全て生々しく、馴染んだものばかり。
都合の良さは夢特有のものなのに、五感はリアリティを濃くしていく。
「歌って」
促す言葉の直後には、伸びやかな声が旋律を刻んだ。
ユウキの歌声は、侑子の思考の中に、他の何よりも鮮やかに色を落としていく。
特別な魔法は使っていない。
夢の中だからでもない。
けれど彼の声は極彩色の十二単のように幾重にも重なって、侑子の意識を歌の世界へと誘っていった。