77.糸端
文字数 2,512文字
ヤヒコが出ていってしばらくして、ユウキも軍用車の外へ出た。
丸めたメッセージシートを運ぶあみぐるみが、そろそろ此方へやって来ているかもしれない。
見えない壁の近くまでクマベエを迎えに行くのは、何となくユウキの役割のようになっていた。
「ユウキちゃん、お疲れ様」
「そちらもね」
王府職員や国軍の兵士達とも、すっかり顔なじみになっていた。彼らは所属が違っても、見た目には同じ軍服を身につけている。略帽の色とそこに描かれたマークで、王府か国軍かを区別するのだ。
何人かの兵士達と行き交う。
廃墟の周囲は、すっかり包囲されている。この妙な結界さえ破壊なり解除させるなりできれば、あっという間に決着はつきそうだ。
――どんな人物なんだろう
ミウネ・ブンノウという科学者を、ユウキは知らない。
情報として把握しているのは、彼の年齢と経歴、写真で見た数十年前の姿だけだ。
――そんなに恐ろしい人物なのか
アミもヤヒコも、かなり警戒している。慎重に動いているのが分かった。
目に見えないはずの天膜の存在に気づき、触れることさえできた科学者。
前代未聞の恐ろしい兵器を製造してしまった天才。
――半魚人の姿をした兵器
侑子が伝えてきたその兵器の外観に、説明を読んだ者の多くは怪訝な表情を浮かべていた。
人の形をした、化け物姿の兵器。
『小さな男の子 』と『太った男 』などという、不思議な名を付けられた兵器。
本当に兵器なのか? と訝しむ声も上がった。
しかし侑子と紡久が彼らの出身国の過去において、同名の兵器がどのような残酷な結果を残していったのか説明する行 を読んで、皆口を閉ざした。
『ユーコちゃんが以前送ってくれたニホンの歴史書の書き写しの中に、確かに同じ記述があった』
アミが言っていた。
『原子爆弾。一瞬で一つの街を消し去り、死の灰でその後長年に渡り人々に地獄を見せた、悪魔の兵器』
――なぜ俺は、そんな恐ろしい兵器と同じ姿だったんだろう
歩きながら、ユウキは廃墟の中を眺めた。観覧車のシルエットが見える。
侑子はメッセージの中で、この場所がユウキとの夢の中の、あの場所だと記していた。
――あの夢は吉夢だろう?
間違いない。
夢の中で、ユウキはいつも幸福だったし、侑子だって笑っていた。歌声は伸びやかで朗らかに響き、風景は美しく光り輝いていた。
――夢と同じ場所なら、ここであの子が苦しむなんてありえないのに
ぴぃ
弱々しい音だった。
すぐにあみぐるみの発した音だと気づいたユウキは、その音が聞こえた草の根本を見た。
「どうした、転んだのか?」
音の出どころに屈んで、クマの姿を探した。白いのですぐ目に入るはずだった。
しかし、いくら草をかき分けても見当たらない。きらりと光る鱗さえ分からなかった。
「おい。どこに――」
ぴ……
尻すぼみに小さくなっていくその音は、ユウキのすぐ頭上で最後を鳴らして、そして消えた。
驚いて顔を上げたユウキの頭上、松の枝から、何かがぶら下がっていた。
縫い糸よりも太く、はっきりと線の太さを目視できる。長く、絡まる程の長さで、幾重にも枝にゆるく巻き付いている。
その糸は動いていたが、風に揺られているのではない。
不自然に大きく揺れ、時折先端を持ち上げて、にょろにょろと蛇のような動きをする。
――あみぐるみ ? 解体されている……?
それが見覚えのある一本の長い糸で、松の根元に硝子の鱗が散らばっていると気づいたのと、背後に人の気配を感じたのは同時だった。
どちらに意識を向けるべきか、ほんの一瞬ユウキは迷った。
その一瞬の隙が、いけなかったのだ。
――しまった
振り返ったユウキが目にした人物は、写真でしか見たことのなかった男だった。
笑みと取れる口角は、左右の均衡が崩れている。不快と不吉を感じた。
ラウトが男の名前について、『おそらく偽名だろう』と語っていた。その名が毒を持つ花の名前だと知って、悪趣味だと嫌悪感を抱いたことを思い出す。
「ダチュラ……」
軍服を纏ったその小男は、にっこりと笑う。
「おや、私をご存知でしたか? 折角そちらに紛れ込もうと制服を手に入れたのに、あまり役立たなかったかな」
略帽に刺繍されているのは、国軍を示すマークだった。兵士の誰かが犠牲になったのか。軍服の左胸が赤く染まっていた。
「まあいいか」
ダチュラが小さな武器を構えた。
小型拳銃のようだとユウキが認識するより前に、耳を劈 く音が鳴る。
地に膝がつき、片足が燃えるように痛みだす。「あああ」と呻く自分の声が聞こえた。
「痛いですよね。でもご安心を。殺すなって言われてます」
カチャリ、と武器を操作する音が聞こえて、もう一度大きな音が鳴った。
もう片方の太腿が撃ち抜かれる。
冷汗と共に視力が薄れる気がした。狭くなる視界の端に、近づいてくるダチュラを捉えた。
「抵抗する気はなくなりました? そのまま動かないでいてくれたら、後で止血はしてやります。弾も抜いて、傷も治しますよ」
すぐ後ろの木立から、騒々しい音と複数の人の声が聞こえてくる。
二発の銃声は、間違いなく注意を引いただろう。
――罠だ。来てはいけない
声が出ない。叫びたいのに。
聞き馴染み始めた、兵士たちの声が近づいてくる。
ユウキは地面に頬をつけたまま、ぶるぶると身体を震わせ、どうにか身体を起こそうと試みた。
しかしようやく上体を持ち上げたところで、ダチュラの足が彼の頬を蹴り倒す。まるで足元の小石を気まぐれに弾くような、そんな動きだった。
「あなた以外なら、ちょっとだけいいって言われてるんです。数人だけですよ。ほんのちょっとだけ。私、好きなんですよね。眼の前で人が死ぬ様子を観察するの」
純粋に楽しそうな声だった。
睨もうとした目はぼやけ、握ろうとした拳は震えすらせず脱力していく。
ブォンと、甲虫が近くで飛び立つような音がした。
ユウキの視界はワントーン暗くなり、その外側で顔見知りの兵士達が、頭から血を吹き上げて倒れるのを見た。
「はい、終わり」
ダチュラの一言が聞こえて、ユウキの顔の前に黒い軍靴が近づいてくる。
土を踏む音は、やけに明瞭だった。そして絶望にも似た不穏な調べを持って、ユウキの耳に届くのだった。
丸めたメッセージシートを運ぶあみぐるみが、そろそろ此方へやって来ているかもしれない。
見えない壁の近くまでクマベエを迎えに行くのは、何となくユウキの役割のようになっていた。
「ユウキちゃん、お疲れ様」
「そちらもね」
王府職員や国軍の兵士達とも、すっかり顔なじみになっていた。彼らは所属が違っても、見た目には同じ軍服を身につけている。略帽の色とそこに描かれたマークで、王府か国軍かを区別するのだ。
何人かの兵士達と行き交う。
廃墟の周囲は、すっかり包囲されている。この妙な結界さえ破壊なり解除させるなりできれば、あっという間に決着はつきそうだ。
――どんな人物なんだろう
ミウネ・ブンノウという科学者を、ユウキは知らない。
情報として把握しているのは、彼の年齢と経歴、写真で見た数十年前の姿だけだ。
――そんなに恐ろしい人物なのか
アミもヤヒコも、かなり警戒している。慎重に動いているのが分かった。
目に見えないはずの天膜の存在に気づき、触れることさえできた科学者。
前代未聞の恐ろしい兵器を製造してしまった天才。
――半魚人の姿をした兵器
侑子が伝えてきたその兵器の外観に、説明を読んだ者の多くは怪訝な表情を浮かべていた。
人の形をした、化け物姿の兵器。
『
本当に兵器なのか? と訝しむ声も上がった。
しかし侑子と紡久が彼らの出身国の過去において、同名の兵器がどのような残酷な結果を残していったのか説明する
『ユーコちゃんが以前送ってくれたニホンの歴史書の書き写しの中に、確かに同じ記述があった』
アミが言っていた。
『原子爆弾。一瞬で一つの街を消し去り、死の灰でその後長年に渡り人々に地獄を見せた、悪魔の兵器』
――なぜ俺は、そんな恐ろしい兵器と同じ姿だったんだろう
歩きながら、ユウキは廃墟の中を眺めた。観覧車のシルエットが見える。
侑子はメッセージの中で、この場所がユウキとの夢の中の、あの場所だと記していた。
――あの夢は吉夢だろう?
間違いない。
夢の中で、ユウキはいつも幸福だったし、侑子だって笑っていた。歌声は伸びやかで朗らかに響き、風景は美しく光り輝いていた。
――夢と同じ場所なら、ここであの子が苦しむなんてありえないのに
ぴぃ
弱々しい音だった。
すぐにあみぐるみの発した音だと気づいたユウキは、その音が聞こえた草の根本を見た。
「どうした、転んだのか?」
音の出どころに屈んで、クマの姿を探した。白いのですぐ目に入るはずだった。
しかし、いくら草をかき分けても見当たらない。きらりと光る鱗さえ分からなかった。
「おい。どこに――」
ぴ……
尻すぼみに小さくなっていくその音は、ユウキのすぐ頭上で最後を鳴らして、そして消えた。
驚いて顔を上げたユウキの頭上、松の枝から、何かがぶら下がっていた。
縫い糸よりも太く、はっきりと線の太さを目視できる。長く、絡まる程の長さで、幾重にも枝にゆるく巻き付いている。
その糸は動いていたが、風に揺られているのではない。
不自然に大きく揺れ、時折先端を持ち上げて、にょろにょろと蛇のような動きをする。
――
それが見覚えのある一本の長い糸で、松の根元に硝子の鱗が散らばっていると気づいたのと、背後に人の気配を感じたのは同時だった。
どちらに意識を向けるべきか、ほんの一瞬ユウキは迷った。
その一瞬の隙が、いけなかったのだ。
――しまった
振り返ったユウキが目にした人物は、写真でしか見たことのなかった男だった。
笑みと取れる口角は、左右の均衡が崩れている。不快と不吉を感じた。
ラウトが男の名前について、『おそらく偽名だろう』と語っていた。その名が毒を持つ花の名前だと知って、悪趣味だと嫌悪感を抱いたことを思い出す。
「ダチュラ……」
軍服を纏ったその小男は、にっこりと笑う。
「おや、私をご存知でしたか? 折角そちらに紛れ込もうと制服を手に入れたのに、あまり役立たなかったかな」
略帽に刺繍されているのは、国軍を示すマークだった。兵士の誰かが犠牲になったのか。軍服の左胸が赤く染まっていた。
「まあいいか」
ダチュラが小さな武器を構えた。
小型拳銃のようだとユウキが認識するより前に、耳を
地に膝がつき、片足が燃えるように痛みだす。「あああ」と呻く自分の声が聞こえた。
「痛いですよね。でもご安心を。殺すなって言われてます」
カチャリ、と武器を操作する音が聞こえて、もう一度大きな音が鳴った。
もう片方の太腿が撃ち抜かれる。
冷汗と共に視力が薄れる気がした。狭くなる視界の端に、近づいてくるダチュラを捉えた。
「抵抗する気はなくなりました? そのまま動かないでいてくれたら、後で止血はしてやります。弾も抜いて、傷も治しますよ」
すぐ後ろの木立から、騒々しい音と複数の人の声が聞こえてくる。
二発の銃声は、間違いなく注意を引いただろう。
――罠だ。来てはいけない
声が出ない。叫びたいのに。
聞き馴染み始めた、兵士たちの声が近づいてくる。
ユウキは地面に頬をつけたまま、ぶるぶると身体を震わせ、どうにか身体を起こそうと試みた。
しかしようやく上体を持ち上げたところで、ダチュラの足が彼の頬を蹴り倒す。まるで足元の小石を気まぐれに弾くような、そんな動きだった。
「あなた以外なら、ちょっとだけいいって言われてるんです。数人だけですよ。ほんのちょっとだけ。私、好きなんですよね。眼の前で人が死ぬ様子を観察するの」
純粋に楽しそうな声だった。
睨もうとした目はぼやけ、握ろうとした拳は震えすらせず脱力していく。
ブォンと、甲虫が近くで飛び立つような音がした。
ユウキの視界はワントーン暗くなり、その外側で顔見知りの兵士達が、頭から血を吹き上げて倒れるのを見た。
「はい、終わり」
ダチュラの一言が聞こえて、ユウキの顔の前に黒い軍靴が近づいてくる。
土を踏む音は、やけに明瞭だった。そして絶望にも似た不穏な調べを持って、ユウキの耳に届くのだった。