呪文②

文字数 2,310文字

「何だろう、この変身。不思議だな……すごく気持ちが落ち着く。だけど良かった。唇はそのままだ」

 キスができるねと、恋人の唇に塞ぐような口づけをする。

「鱗があたると、痛くない?」

「痛くないよ。ひんやりしてて、気持ちがいい。だけど唇も指も、とってもあたたかいの。ユウキちゃんが分かる。ずっと触っていたいな」

 ユウキは侑子を抱き上げると、囁き声で短く訊いた。

「海に入りたいと思わない?」

「このまま?」

「連れて行きたくなったんだ」

「海の中へ?」

「心まで半魚人になっちゃったみたい」

「一応泳げるけど。深いところまで行くのなら、息継ぎが心配だな」

「心配ないよ。だってここは夢の中だもん。ユーコちゃんは泳がなくていい。俺がこのまま連れて行く」

 侑子を抱いたまま、ユウキの足が数歩、海の方へ進んだ。
彼の足が地面を蹴る度に侑子も振動を感じたが、突如その揺れが消えた。
 下から吹き上げる風は、潮の香りがする。
海面は太陽の光を受けて黄金色に輝き、波の形に細かな皺を形成していた。

 二人は宙に浮いていた。

高度は高い。
間近にあると大きなはずの観覧車が、ミニチュアのように見えた。
すぐ下に広がるのは、群青色の海。
所々黒く見えるのは、水深の深い場所だろう。

「行こう」

 鱗で覆われていても、確かにユウキの顔だった。唇は人間のもので、そこから聞こえた声は侑子の耳に馴染んだものである。

「連れて行って」

 二人は降下した。
視界の端に、カラフルなコーヒーカップが見える。

――今日の夢はくるくる回転して終わらないのかも知れない

 心の中で呟いた。

 結構な高さから海面へと落ちたのに、侑子の身体は痛みを感じなかった。
その一方で、大きく上がった水しぶきが輝いたのが見え、全身が液体の中へと迎え入れられたことは分かった。

「息ができる」

 浮力を感じながら、ユウキと両手を繋いでいた。
苦しさはない。ゴーグルもしていないのに、目の前の彼の姿は、地上で見る時と同じように鮮明だ。ユウキの髪は海面に揺れる光に照らされ、銀に輝きながら揺蕩(たゆた)っている。

「ここは夢の中だから」

 微笑んだユウキは、侑子の腕を引き寄せた。二人の距離は再び近づき、侑子は頬に彼の首筋の鱗を感じていた。

「夢の中って、本当になんでもアリなんだね」

「今だったらどんなことでもできるよ」

「歌ってみたいな」

「そうだね。何を歌おうか。そうだ――――どうせだったら、新曲を作ろう」

 言葉を紡ぐ為に口を開ければ、空気の玉が上へと昇っていく。こんなにはっきりと聞こえるはずもないのに、お互いの声は少しもくぐもることなく、美しく海中に響いた。

 海面が遠くなっていく。
意図したつもりは侑子にはなかったが、歌う二人の身体は、下へ下へと降りていった。

――海底はどこだろう

 いつか足が届くのだろうか。
考えていた侑子の耳に、次の歌が聞こえてきた。

「さっきの歌だ」

「聞いていて。もう一度歌うから」

 ユウキの声は優しく反響し続けた。

「呪文をかけるよ」

「呪文……」

 辺りは暗くなっていた。海面はすっかり遠く、頭上にぼんやりと白っぽく見える程の距離を、二人は降りていた。

――そういえば呪文なんて、唱えたことなかったな

 魔法を生み出す時、誰も呪文らしきものを唱える者はいない。この世界の魔法とは、そういうもののはずだ。

「何が起こる魔法なの?」

 侑子の問に、返ってくる言葉はなかった。ユウキは歌っている。侑子は答えを得られなかったが、不満はなかった。

 下へ下へと、更に深みへと下降は続いた。

 そして、







 目は開けていたはずなのに、侑子は瞼を上げた。

シーツの感触と、腕枕された肌の暖かさが分かる。目覚めてすぐに理解した感覚だった。

「おはよう」

 視線を少しずられば、こちらに微笑みかける大好きな人の顔が目に入る。

「おはよう」

 部屋に窓はない。
照明はつけっぱなしで眠ったのだ。
時間は分からない。

「不思議だね。たった今まで一緒だったけど、目が覚めても一緒だ」

 侑子の頬を撫でる指に、水かきは生えていなかった。

「同じ夢を見てから一緒に起きるのって、こんな感覚なんだね。なんだかまだ、夢の続きを見ているみたい」

 覆いかぶさるユウキの体重を感じて、唇が繋げる熱を感じた。どちらも現実の感覚であることが、実感できる。

 衣擦れの音も、吐息の音も、名を呼ぶ声も。
全てが現実だった。

「大丈夫だよ」

 身体を離し、起き上がったユウキの表情は穏やかだ。寝癖のついた髪を掻き上げて、シャツを着る。いつもの起きぬけの風景と同じだった。

「俺達が見たのは、予知夢。そして二人で目覚めて、現実の続きを見ている。大丈夫。怖いことは何も起こらないから」

 ユウキの指が梳かす侑子の髪は、眠る前と同じ桜色だった。

「俺を信じて。ミウネが不安にさせるようなことを言ったとしても、聞き流すんだよ」

 侑子は頷いた。
すっかり目は覚めていて、思考はクリアだ。

 ここはブンノウの研究施設で、昨日侑子は二体の兵器に命を与えた。少し前のそんな現実と、ブンノウが語った未来の話はやはり恐ろしく絶望的だった。しかし目の前のユウキの顔は自信に満ち溢れたもので、その表情が侑子を奮い立たせる。

「昨日はユーコちゃんの髪を染めるので残りの魔力を使い切ってもいいって言ったけど、訂正する。使い切らないように加減するよ。染めきれなかった分は、王都へ帰ってからミカさんにやってもらおう」

「うん」

「よく考えたら、結婚式で目一杯魔法を使うんだから、その時のために取っておかなくちゃ」

 侑子を膝の上に乗せて、ユウキは愉快そうに笑った。

「君のこと、この世で一番美しい色で染めるよ」

 楽しみだなあと弾む声には、緊張や恐怖は微塵も浮かんでいなかった。

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