112.泣き顔

文字数 2,375文字

 紡久の言葉通りである。
侑子は体内の魔力を押さえつけていた蓋が、きれいに取り払われた感覚を感じた。濡れた髪に両手を沿えて軽く念じると、桜色はあっという間に侑子本来の黒へと染まったのだ。

「制御を解いたの?」

 侑子の問いかけに、ブンノウは静かに首を振った。
 砂の上に痩せた長身をうつ伏せるように倒した彼は、両手両足をしっかりと固定されている。紡久が咄嗟の魔法で出現させた拘束具は、鈍い光沢を持つ金属製で、酷く重たそうだった。

「軍が破ったのでしょう」

 答えたブンノウの口の中に、砂粒が消えていく。しかし彼はそれを吐き出そうともせず、変わらぬ調子で侑子に聞き返した。

「シグラは死にましたか」

 黒い頭が縦に動くのを確認して、彼は短く「そうですか」と呟いた。
 彼は侑子の手に握られたコンパクトミラーを見て、薄く笑った。

「痛かったですよ。まさか糸一本の状態でそんな鏡を持ち上げて、私に向かって投げつけてくるなんて。驚きましたね……おかげで手元が狂った。あなたの魔法を甘く見たつもりはなかったが、油断していました」

 言い終えてからも、ブンノウの微笑は消えなかった。しかし色の薄い碧眼に、今まで見たことのない揺れを侑子は見つけたのだった。

「……あなたは言った。悼むとか悲しむとか、そういう感情は分からない。だから観察者に適しているって……きっとそれは、見当違いだ」

 侑子は、方舟の話を聞かされた時のブンノウの言葉を繰り返した。
そして再び、スカイブルーの瞳を観察する。今度はじっくりと。

 ブンノウの顔を見るとき、いつだって酷く緊張したものだが、今は何とも感じなかった。

 哀れな老人が一人、侑子の足元に不様に伏していた。

――この人は今、他者の死を()()んだ

 誰かの死ではなく、特別な誰かの死。
それを体験した時、人はこのような顔をするものなのだろうか。

 侑子は玄一の訃報を受けた日の朝、自分はどんな顔をしていただろうかと思いを巡らせた。遂に思い出せなかったが、きっと今のブンノウの表情と、重なるものがあったはずだ。

「……あなたはシグラの死を悼んでる」

 ミツキのように人の感情の機微に敏いわけではない。けれど侑子は確信を持って言葉を紡いでいた。

「心が揺れている。悲しみで乱れている。そんな人が人類最後の観察者になんか、なれるはずないじゃない」

 ブンノウの顔から、僅かな間笑みが消えた。皺だらけのかさついた顔に、赤い血の気が通ったように見える。
 瞳からは何も零れ落ちるものはなかったが、侑子は理解した――――これが彼の泣き顔なのだと。



***



 喧騒が近づいてくる。
ラボを含む廃墟を囲っていた見えない壁が消失したので、軍が中へと入ってきたのだろう。
 侑子達の名前を呼ぶ、複数の声が聞こえてきた。どれもよく知っている声だった。

「ユウコ!」

 肩の上に上空から海鳥が舞い降りたのとほぼ同時に、ヤヒコの声がすぐ近くで聞こえた。

「無事だったか。良かった」

 安堵をにじませるメムの青年の顔から、みるみる力が抜けていく。頷く侑子の両手を握りしめるのは、ヤチヨの白い手だった。

「二人とも、久しぶりだね。会いたかった!」
 
 ウンウンと、しっかりと声になりきらないヤチヨの吐息は湿っている。瞳に涙が滲んでいた。

「ユウキ、生きてるよな?」

 ユウキの全身をベタベタと触りながら確認するのは、アオイだった。

「気色悪い触り方するなよ」

「だってさぁ、見ちまったんだもん。お前が海に落ちるとこ……」

 身を捩って逃れたユウキに、アオイが困ったように頭を搔いた。

「肝が冷えたよ。終わったと思った」

「そうよ」

 ぐしぐしと目元を拭いながら頷くのはミツキだ。

「死んじゃったと思ったんだから」

 わぁわぁ泣き出した彼女は、しばらくの間背中を擦るハルカに身を任せ、呼吸が整ってきたところで侑子の手を取った。

「ユーコちゃん……ごめんね」

「ミツキちゃん」

「私の心が弱かったから」

「違うよ」

 抱きしめられたミツキの身体は柔らかく、温かかった。侑子は彼女の背中に回した腕に、力を込めた。撫子色の髪が頬をくすぐる。

 ミツキの肩越しから、佇むザゼルの姿が見えた。彼の足は自由だったが、後ろ手に拘束されているようだった。
 薄い碧眼が見つめる先、ハマナスが群生する隣に、黒い布で覆われた細長い塊がある。シグラの遺体である。


***


「顔を見る?」

 ザゼルの返答は待たずに、アミがその布の上部を丁寧な手付きで広げた。

「この人、こんな顔だったっけ」

「俺は初対面だから、何とも言い難いね」

「寝顔なんて見たの、子供の頃以来だな」

 長い前髪の向こう側に、赤黒く変色した血溜まりが見えた。
潮の香りのついた風が、顔にかかった緋色の髪を舞い上げる。長い睫毛が顕になった。

「この人の髪、本当は俺と同じ色なんだよ」

 睫毛を見つめながら、ザゼルは語った。彼女の睫毛は確かに、髪色と同じ緋色ではなかった。

「青みのある灰色か。ユウキと似ていると思ってた。たまにみかける髪色だし、そこまで珍しい色ではないだろう」

 アミの言葉に、ザゼルは頷く。

「ああ。けど当時……俺が産まれた頃、ブンノウの周囲にこの髪色はシグラしかいなかったんだ。ブンノウはこの人に、染めるように言った」

「ふうん。それは周囲に、知られたくなかったから? 君と彼女の親子関係を」

「さあ。俺には分からない。気になるのなら、本人に聞いてみてよ。あいつは生きてるんでしょ」

 アミは顔を上げて、特別騒がしい方向を見た。敗北した天才科学者が、連行されようとしている。細い背中が項垂れているのが見えた。

「……元の髪色の方が、似合うと思ってたんだよな」

 その呟きを、アミはブンノウの方を向きながら聞いていた。

「側村に連れて行く時には、元の色に戻してやってくれないか」

 ザゼルは口を閉ざし、アミが彼の声を聞いたのは、それきりだった。
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