109.青い半魚人
文字数 1,629文字
私は知っている
どんなに私が孤独であっても
絶望の淵に立たされていて、目の前に道がなくとも
あなたは側にいる
私は知っている
捨てるものさえなくしても
全てが奪われて、故郷さえ忘れてしまっても
あなたは私を導いている
嵐の中 喉を潤すことのない水の上
あなたは道を作り 私をいざなう
指切りをした土の上
あなたと私は共にいる
私は一人 声高に歌うだろう
孤独を拭い あなたに抱かれながら
***
海に向かって放たれた歌は二つ。
一つは紡久が知るもので、もう一つは知らないものだった。
最初に侑子が歌った歌を、なぜこの場所で彼女が口ずさんだのか分からずに、紡久は少々困惑した。そして後に続いた二曲目の旋律の中に、彼は親しい男の気配を確かに感じ取ったのだった。
「今の歌、ユウキくんが作ったやつ?」
歌が完全に終わってから、紡久は侑子に訊いた。
「そうだよ。一番新しい曲。昨夜できたばかり」
晴れやかな笑顔で紡久を見た侑子は、答え終わると再び海に顔を戻した。
「ねえ、一曲目の歌ってさ」
「紡久くんも知ってるよね?」
「知ってるよ。中学の時二年連続で踊らされた」
「そうなんだ。体育祭とか?」
「そうそう」
「私も学校で踊ったの」
「ソーラン節」
「うん」
「……なんでソーラン節なんだろう?」
紡久の顔には、緊張と困惑が織り混ざっている。
「さあ。なんでだろう。分からないよね。分からないことばかり。私達がこの世界にいることも、魔法が使えることも。説明がつかないことばかりだよね」
二人は波打ち際に立っていた。
繰り返し打ち寄せる波は、彼らの足を濡らし続けている。
「この歌が“鍵”だってことも」
「どうしてだろう」
紡久の声に侑子の声が続いた。紡久も海に顔を向けた。
海原は果てしなく続いている。空は青く、彩度は高い。雲の白とのコントラストがくっきりとしていて、顔を擽る海風が夏の匂いを運んでいた。
***
「紡久くん、見て」
澄んだ高い声は、彼女の弾む感情が表出したものだろう。
侑子が指差す先をきちんと確認しないうちに、紡久はそう理解していた。
なぜならその人物は、輝いていたのだから。注視しなくともその存在は、視界の中で強く主張していたのだ。
ここにいる、と。
海の中から頭を出したその人は、立ち上がってゆっくりと陸地へ向かって歩いてくる。
「ほらね。帰ってきたでしょ?」
バシャバシャと水を蹴る音を立て、侑子が数歩前へと進んだ。ちょうど大きく波が打ち寄せて、両腕を伸ばした彼女を迎え入れるように、その波は胸元までを一気に濡らした。
「随分濡れたね」
侑子に向けたその声はいつも通り低く、穏やかで優しかった。自分の方へと伸ばされた腕を引いて、彼女を包み込むように抱きすくめる。
その身体は陽に照らされて煌めいていた。その理由が彼の身体に張り付いた無数の青い鱗であると、二人の元へ近づいた紡久は気がついた。
「ただいま」
腕の中で侑子は顔を上げて、彼を見上げた。
「おかえりなさい、ユウキちゃん。正夢になったね」
込み上げた感情は頭で分類できないまま、涙となって零れ落ちる。
「君の声が聞こえた。呼んでくれたね。歌声も聞こえたよ」
ぷぅ ぷぅ
ユウキの襟元から、小さな白クマが顔を出した。
「ふふ。びしょ濡れだ」
侑子の肩に飛び移ったクマは、彼女の首に頬ずりした。たっぷりと海水を含んだ体は、侑子の知っているそのあみぐるみよりも、大分ずっしりと重みを持っている。
「海の中、とても広かったんだ。まっすぐユーコちゃんのところまで帰ってこれたのは、こいつのおかげかも知れないな」
滲んだ視界に映ったユウキの頭に、半魚人の上顎が冠のようにのっかっていた。鋭い歯列のすぐ下で、緑の瞳が微笑んでいる。
模倣した衣装は身につけていないし、夢の中の姿とはかけ離れていた。しかし侑子の胸の中は、懐かしさと安心感であっという間に満たされていくのだった。目が覚める直前の、ぐるぐると身体が回転する感覚を覚えた。
「やっぱりあなたは、青い半魚人だったんだ」
どんなに私が孤独であっても
絶望の淵に立たされていて、目の前に道がなくとも
あなたは側にいる
私は知っている
捨てるものさえなくしても
全てが奪われて、故郷さえ忘れてしまっても
あなたは私を導いている
嵐の中 喉を潤すことのない水の上
あなたは道を作り 私をいざなう
指切りをした土の上
あなたと私は共にいる
私は一人 声高に歌うだろう
孤独を拭い あなたに抱かれながら
***
海に向かって放たれた歌は二つ。
一つは紡久が知るもので、もう一つは知らないものだった。
最初に侑子が歌った歌を、なぜこの場所で彼女が口ずさんだのか分からずに、紡久は少々困惑した。そして後に続いた二曲目の旋律の中に、彼は親しい男の気配を確かに感じ取ったのだった。
「今の歌、ユウキくんが作ったやつ?」
歌が完全に終わってから、紡久は侑子に訊いた。
「そうだよ。一番新しい曲。昨夜できたばかり」
晴れやかな笑顔で紡久を見た侑子は、答え終わると再び海に顔を戻した。
「ねえ、一曲目の歌ってさ」
「紡久くんも知ってるよね?」
「知ってるよ。中学の時二年連続で踊らされた」
「そうなんだ。体育祭とか?」
「そうそう」
「私も学校で踊ったの」
「ソーラン節」
「うん」
「……なんでソーラン節なんだろう?」
紡久の顔には、緊張と困惑が織り混ざっている。
「さあ。なんでだろう。分からないよね。分からないことばかり。私達がこの世界にいることも、魔法が使えることも。説明がつかないことばかりだよね」
二人は波打ち際に立っていた。
繰り返し打ち寄せる波は、彼らの足を濡らし続けている。
「この歌が“鍵”だってことも」
「どうしてだろう」
紡久の声に侑子の声が続いた。紡久も海に顔を向けた。
海原は果てしなく続いている。空は青く、彩度は高い。雲の白とのコントラストがくっきりとしていて、顔を擽る海風が夏の匂いを運んでいた。
***
「紡久くん、見て」
澄んだ高い声は、彼女の弾む感情が表出したものだろう。
侑子が指差す先をきちんと確認しないうちに、紡久はそう理解していた。
なぜならその人物は、輝いていたのだから。注視しなくともその存在は、視界の中で強く主張していたのだ。
ここにいる、と。
海の中から頭を出したその人は、立ち上がってゆっくりと陸地へ向かって歩いてくる。
「ほらね。帰ってきたでしょ?」
バシャバシャと水を蹴る音を立て、侑子が数歩前へと進んだ。ちょうど大きく波が打ち寄せて、両腕を伸ばした彼女を迎え入れるように、その波は胸元までを一気に濡らした。
「随分濡れたね」
侑子に向けたその声はいつも通り低く、穏やかで優しかった。自分の方へと伸ばされた腕を引いて、彼女を包み込むように抱きすくめる。
その身体は陽に照らされて煌めいていた。その理由が彼の身体に張り付いた無数の青い鱗であると、二人の元へ近づいた紡久は気がついた。
「ただいま」
腕の中で侑子は顔を上げて、彼を見上げた。
「おかえりなさい、ユウキちゃん。正夢になったね」
込み上げた感情は頭で分類できないまま、涙となって零れ落ちる。
「君の声が聞こえた。呼んでくれたね。歌声も聞こえたよ」
ぷぅ ぷぅ
ユウキの襟元から、小さな白クマが顔を出した。
「ふふ。びしょ濡れだ」
侑子の肩に飛び移ったクマは、彼女の首に頬ずりした。たっぷりと海水を含んだ体は、侑子の知っているそのあみぐるみよりも、大分ずっしりと重みを持っている。
「海の中、とても広かったんだ。まっすぐユーコちゃんのところまで帰ってこれたのは、こいつのおかげかも知れないな」
滲んだ視界に映ったユウキの頭に、半魚人の上顎が冠のようにのっかっていた。鋭い歯列のすぐ下で、緑の瞳が微笑んでいる。
模倣した衣装は身につけていないし、夢の中の姿とはかけ離れていた。しかし侑子の胸の中は、懐かしさと安心感であっという間に満たされていくのだった。目が覚める直前の、ぐるぐると身体が回転する感覚を覚えた。
「やっぱりあなたは、青い半魚人だったんだ」