見知らぬ街③

文字数 1,938文字

 人通りが多くなっていたことが幸いして、侑子は男をまくことに成功したらしい。

 はぁはぁと荒い呼吸を繰り返し、額を伝う汗を拭うことも忘れて、後方を確認する。

狭そうな路地を目にする度にそちらに入って、どこをどう走ったのか不明だが、とにかく走った。

何度も躓いて転んだ。
靴下だけの足で、何度も石ころを踏みつけた。

足の裏が痛くて、膝も擦りむいて血が滲んでいた。

――休みたい

 広い場所に出るのは不安だった。
しかし路地の先に噴水が見えた。

足を引きずるようにして、ヨタヨタとそちらに向かって歩く。

限界だ。

 噴水の縁に腰かけようと進んで、あと一歩というところで、ふらついてしまった。

「おっと」

 側に人がいたことに、気づかなかった。

それほど神経は磨り減っていたのだ。

その人に思いきりぶつかってしまったと分かったと同時に、気遣う声が上方から降ってくる。

「大丈夫?」

 声をかけることに躊躇いのないと分かる、凛とした声だった。

侑子は咄嗟に「すみません」と言おうとしたが、声が掠れてでなかった。
喉がカラカラだった。

咳き込むと、肩をふわりと支えられたのがわかった。

その人が身に付けていたものなのだろう、柔らかな生地の衣が、侑子の頬をくすぐった。

「怪我してるよ。ちょっと待って」

 男の人だなと思ったと同時に、侑子の身体は宙に浮いた。

声は出なかった。
びっくりして思わず見上げると、緑色の瞳が心配そうに覗きこんでいた。

 複雑な緑色だった。
先ほどから鮮やかな彩度の高い色ばかり目についていたので、こんなに落ち着いた色もあったのだと気づく。

 しかし同時に、肩と膝の裏に温かな手の感触を感じて、侑子は仰天する。

自分は横抱きにされていたのだった。

「大丈夫? ここ座ってられる?」

 男は驚きすぎて固まる侑子を、噴水の側のベンチまで運んでくれたようだった。

そっと侑子を腰掛けさせると、優しく微笑んで「ちょっと待っててね」と噴水まで戻る。

何やら大きなボストンバッグのようなものを持ってくると、その中から透明な筒状の物体を取り出した。

なんだか水筒みたいな形だなと思って見つめていると、本当にそれは水筒だったようだ。

透明な筒の上部を取り外した男は、下半分(長細いタンブラーのような形になっていた)を侑子に差し出す。

「どうぞ。今日は暑いから、きっと美味しいと思うよ」

 礼を言おうとすると、声が酷く掠れた。
男はにっこり笑って、侑子に飲むように促す。

 手渡された水筒の中を覗き混んだ。

側面から見たとき、その水筒は確かに透明だった。
透けていた。
向こう側が見えていたのだから。

しかし上から覗き混むと、確かに飴色の液体が数個の氷とともに、水筒の中を満たしているのが見えるのだった。

どういう仕組みなのだろう。

 また一つ不可解なものを発見してしまった。

しかし鼻をくすぐる甘い香りと、水筒から伝わってくる心地よい冷気に惹かれて、促されるまま飴色の液体を一口飲み込んだ。

「おいしい……!」

 口一杯に広がる甘さは、侑子にとって馴染みのある味だった。

「梅ですか」

「はは。そうだよ。うちの庭で採れたんだ。自家製だよ」

 喉が潤されたことで、ちゃんと声が出るようになった。

梅の木は賢一の家の畑にも生えていて、毎年季節になると高橋家で梅仕事をするのが恒例だった。
今年の六月も、皆でわいわい言いながら大量の梅シロップを作ったばかりだ。

「全部飲んで構わないよ。お口に合ったみたいで良かった」

 男のその言葉に甘えて、あっという間に飲み干した。

喉は思ったよりずっと乾いていたらしい。結構な量だと思ったのに、すぐに水筒は空になる。

 頭のてっぺんから指先まで、水分が行き渡ったように感じて身体が軽くなる。
優しい砂糖の甘味が広がって、顔からも力が抜けたのが分かった。

 そんな侑子を眺めながら、男は優しく微笑んでいた。

そこでようやく侑子の方も、その人のことをしっかり目に留めることができたのだった。

 落ち着いた緑色だと思った瞳は、やはり複雑な色をしていた。

澄んだビオトープのようだ。
濁りを持つ瞳は穏やかに光を湛え、全体的に凛々しい印象の顔立ちを、幾分柔らかくしている。

 短髪はくすんだ灰色。
侑子からすると見たこともない珍しい色なのだが、先ほどから原色そのままのような髪色や、虹色の髪色の人も沢山目にしていたので、その中ではかなり目立たない部類に入るであろう。

 年は若いはずだ。
褐色の肌をしているのと、見慣れない容貌なので、正確には予想できないが、おそらく朔也より年長ということはないだろう。

長身のその身体は、先ほど侑子の頬を撫でた薄布で首もとから覆い隠されていた。

マントのようなものだろうか。薄くて透けそうなのに、向こう側は全く見えない。

先ほどの水筒といい、とても不可解だった。
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