7.弥彦

文字数 2,308文字

 山の中で一晩過ごした後、侑子とヤチヨは朝から山中を進み続けた。

小さなトートバッグしか荷物がないとはいえ、侑子は軽装過ぎたのと、こんなに険しい道なき道を進んだ経験はなかった。

ヤチヨは度々足を止めて、侑子の手を引っ張ってくれた。勾配のきつい坂道では、後ろに立って背中を押してくれる。

(ここで兄と合流する)

 何度目かの休憩の際、上がった呼吸を整えている侑子に、ヤチヨはタブレットを見せた。

「お兄さん? ヤチヨちゃんの?」

(名前はヤヒコ。ここまで来れば、里はもう近い。兄におぶってもらえばいいよ)

「え。いいよ。もうゴールが近いんだったら、自分で歩けると思うし」

(あと約三キロ。登りあり)

「うーん……」

 記された具体的な数字を見て、侑子の気持ちは揺らいだ。
障害物のない平地を、三キロ歩くわけではないのだ。登山は詳しくないが、進む場所に角度がつくだけで、こんなにもキツイとは。

(無理しない方がいい。けれど、早くあの廃墟から距離は取った方がいい)

 ヤチヨは神妙な顔をしている。

「分かった」

 侑子は頷いた。

 休憩の度に、侑子はヤチヨから少しずつ新しい情報を得ていた。

 天膜破壊を続ける犯人達は、鍵の守役と来訪者を狙っていること。
並行世界に繋がる扉が解放されたことは、犯人達もすぐに嗅ぎつけてくること。

だから一刻も早く、あの遊園地を離れる必要があったし、ヤチヨは侑子の魔力を隠したがったのだ。

(里に着けば、ひとまず安心。少し身体を休めて、その間にうちの(おさ)とも会って欲しい)

「メムの長老さんね」
「長老ってほど、年寄りでもないけどな」

 侑子に返事を返したのは、ヤチヨではなかった。

突然背後から聞こえた第三者の声に、侑子は飛び上がった。

 気配はなかった。
鬱蒼と木々が茂っているのに、物音はおろか葉音さえ聞こえなかったのは、どういうことなのか。

「魔法なの?」

 動転した侑子は、思わず口走っていた。

侑子の背後に立っていた人物は、そんな彼女の様子に、愉快そうに笑っている。

「驚かせてすまなかったよ。あと、俺たちは魔法を使わない。メムの民は元々、魔力は持ってないからな」

 バシッと鋭い音がした。
ヤチヨが笑う男の背中を、平手で叩いた音だった。非難するような顔をしている。

「悪かったって。どう登場しようか、色々考えててさ――――申し遅れたね。君は来訪者のお嬢さん? 俺はヤヒコ。こいつの兄貴だよ」

 唇を引き結んで睨めつけるヤチヨの頭に手を置いて、その男は侑子にそう名乗ったのだった。

柔らかそうな黒髪と、ヤチヨと同じ色の黒い瞳。妹同様整った顔立ちをしているが、彼のほうは少々険がある顔をしている。
男性にしてはやや小柄だが、この容貌で長躯だったら、威圧感が凄まじいだろう。

 侑子はその時、思い出したのだった。ヒノクニの人々は皆、様々な色彩の髪と瞳を持っていた。しかし目の前のメム人の兄妹は、日本にこのまま連れて行っても、全く違和感なく馴染んでしまえる外見をしているのだ。

「五十嵐侑子です。ヤヒコさん。ヤチヨちゃんから、色々お話は聞いてます」
「おや。ふうん? やけに飲み込みが早いな。来訪者って、こっちの世界について、全く知識はないんだろう?」
「ああ。えっと、そうですね」

 興味深そうに侑子を観察し始めた兄に、ヤチヨが文字でびっしり埋まったタブレットを掲げている。

ヤヒコは妹の文字に目を走らせ、彼女が書いた説明文を、表情を変えないまま読み進めた。何度かタブレットの文字が入れ替わった後、再び黒の瞳が侑子を捉えた。

「…………へえ。ユウコちゃん。来訪者はただでさえ稀有な存在だが、君は輪をかけて、そのようだね」

 ヤヒコは目を閉じ、数秒間沈黙した。

ヤチヨも侑子も、何も言葉を発しなかったので、その間その場にあった音は、遠くで聞こえる鳥の鳴き声と、風が揺らした葉音だけだった。

「とにかく、進もうか。多分今頃、君がやってきた場所をあいつらが見つけてる。さっさと足取りが分からなくなる距離まで、進んでしまおう」

 話す内容は不穏なのに、ヤヒコは面白そうな笑みを浮かべたままだ。

ヤチヨは頷いて、大きなザックを背負い直した。ヤヒコの方は軽装だった。ヤチヨの物と比べると、半分程の荷物だ。

ヤヒコは侑子に背中を向けてしゃがみ込んだ。彼の背中には、パイプ椅子の足部分を切り落とした形をした、背負子(しょいこ)が背負われていた。その場所を侑子に向けながら、ヤヒコは「ほら」と声を掛ける。

「乗って。あと、悪いけど、俺の荷物持ってくれる?」
「座るの? ここに?……いいんですか」

 ヤチヨに促されながら、侑子は背負子に恐る恐る腰を下ろした。おぶると聞いていたので、予想外の姿勢に腰が引けた。

ヤヒコと背中同士をあわせるような形になる。背負子の表面には、ちゃんとクッションが着けてあったので、座り心地は申し分ない。

「背負子は初めて? まぁ、普通ないだろうな――座った? チヨ、固定してやって」

 慣れた手付きである。
侑子は幅広の安全ベルトのようなもので、足と肩を背負子に固定してもらった。ヤチヨがバックルを留めると、ヤヒコはすっと立ち上がった。

「わっ!」

 身体が浮き上がって、侑子が仰天した。ヤヒコは予想通りの彼女の反応に、声を上げて笑った。

「あまり乗り心地は良くないだろうけど。ちょっとだから辛抱な。君に歩いてもらうより、時間をずっと短縮できる。その服装じゃ辛いだろ」
「お、重くないの?」
「普段この倍を背負うのもザラだ。あまり力んでると、後で辛いよ。なるべくリラックス」

(大丈夫。メム人は皆、力持ち)

 ヤチヨがにっこり笑っている。その美貌に侑子が呆気にとられている間に、ヤヒコの足はどんどん進んでいった。
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