83.培養槽

文字数 1,572文字

『指示があるまで待機するように』
 
 シグラの指示通りに、ザゼルは待っていた。

 宿泊施設になる予定だったその建物の部屋数は多かったが、その中でもこの部屋は広い部類だろう。備え付けてあった家具はすべて取り払い、絨毯は剥がし、液体が溢れてもすぐに拭き取れる床材へと変えてあった。

 その部屋の様相がザゼルに与えた第一印象は、コインランドリーだった。規則正しく並ぶ、四角い機械。上下二段に積み重なり、横にぴったりと隙間を空けずに並んでいる。

――いや、違う

 そしてザゼルは、すぐにその印象を訂正した。

――水族館のほうが近いか。生物を生かす場所という点でも

 訂正したイメージに納得して、彼は小さく頷いた。

――液体で満たされている。これも共通している。……水槽ではないけれど

 その装置の硝子の表面に、そっと手をついてみる。
ひんやりとしていた。硝子の向こうでは、ほのかに赤く色付いた液体が揺れていた。時折ボコボコと、大小の空気の玉が、底から上部へ向かって昇って行く。

「まるで毛細血管だな」

 声を出して目で捉えたのは、そんな装置の裏側から伸びる、コードや管の数々だった。並ぶ装置一つ一つから複数本が伸びるので、その喩えは外れてはいないだろう。
 無数にも見えるそれらは、天井に向かって伸び、巨大な一つのパイプの中へ消えていた。円筒形のパイプは天井裏へ一端が埋め込まれているので、室内からは何処へ向かって伸びているのか、確認することはできなかった。

「あのでかいパイプが、大動脈ってところか?」

 一人小声で笑ったその声は、やけに自嘲的に聞こえたが、無理もないだろうとザゼルは考えた。

――ここは子宮置き場。これは子宮。あのパイプは、どこかの胎盤へと行き着くのだろう

 ザゼルは硝子に触れていた手を離し、一歩後退してその装置を今一度、引きで眺めた。



 それは、ヒトの培養槽だった。



――受精卵から胚芽になり、胎児になって器官形成が終わり、肺機能が完成するまで

 母親の腹の中での成長段階で言うところの、妊娠四十週目までを、この装置の中で育てられるのだ。

「懐かしいとか、感慨深さとか、何もないものだな」

 完全な独り言のはずだったが、まるで呼応するかのようなタイミングで、機械音がザゼルに近づいてきた。

 振り返ると、足元に球体ロボットが控えている。
ブンノウが施設内の伝達用にと作り出したものだ。彼曰く「簡単な仕組み」で出来ているらしいが、ザゼルにはその仕組みは全く見当がつかない。これでも長年、機械を専門に学んできたはずなのに――ブンノウの元を離れた、ヒノクニの普通の大学で。

――アオイに見せたら、煩く興奮するんだろうな

 ふと思い浮かんだもじゃもじゃ頭の青年のイメージを、ザゼルは振り払った。

「何だ? シグラからの指示が届いたのか?」

 ロボットに向かって問いかけると、それは小さなランプをチカチカと点滅させる。

 スピーカーから、人間の声が聞こえてきた。録音されたものだろう。
 ザゼルは、聞こえてくるその声と内容に、眉間に皺を寄せはじめた。
 シグラからの指示内容だと思っていた録音は、ブンノウの声で唐突に始まったのだ。会話の途中から録音は始まっているようだ。

『兵器が完成したら、シェルターに入ります』

――シェルター?

『皆一斉に死を迎えたのならば、他者の死と自分の死が同時であったならば。その時、誰もいなくなった世界は、どうなるのでしょう?』

――誰もいなくなった世界?

『シェルターの外側から生物が消えた後。ドアを開けて見えた世界を観察したら、私も死にましょう。有色の魔力を持った最後の一人が消えたあと、新しい世界に降り立つのは、透明な魔力の男女。この世の理は、その瞬間に変わるかもしれない。それを観察できないのは残念ですが、仕方ないでしょう。そこは諦めます』

――最後の一人が消えたあと……?
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