33.悪夢

文字数 1,009文字

 高い声で歌っていた。

歌うことは、好きでも、嫌いでもない。
上手くもないし、音痴でもない。
人前であえて歌おうと考えたことはなかったが、それを引け目に感じたことは一度もない。

音楽に興味がなかったのだ。

けれどその夢は、いつも決まった歌を口ずさむ、か細い声で幕を開ける。

 その男から手渡されるものは、虫眼鏡だった。

銀色の持ち手は細長い円柱で、レンズ部分に縁取りはなく、硝子がむき出しになっている。

ずっしりと重たくて、その重みは夢を見る回数を重ねるごとに、どんどん増していった。

――またこの夢か

 小さな少女の手には、その虫眼鏡は既に重たすぎる。
両手で持たないと、上方に構えることは不可能だった。

『虫眼鏡で太陽を見てはいけないよ。目が潰れてしまうからね』

 そんな風に両親から受けていた注意も、この曇り空ならば心配ないだろう。太陽はどこにも見当たらない。

「何が見える?」

 彼女に問いかける声は、虫眼鏡を手渡してきた人物が発したものだ。

 ぷるぷると腕を震わせながら、少女は人物の指示通りに、上空を虫眼鏡越しに観察していた。

「だめ。何も見えない」

「本当に?」

「見えないわ。何も」

 曇天だった。
鼠色一色の空は、不自然な程一色で、雲の凹凸さえ分からない。

 レンズは透明で、傷ひとつない。
空模様とは正反対に、澄み切っている。
レンズ越しの空は、灰色の無表情だ。

「ねえ、どうすればいいの?」

 腕が限界だ。
少女が指示をあおぐ声は、いつの間にか年配の女の物に変わっていた。

「返事をして。教えてちょうだい」

 続く無言に、不安が押し寄せる。

――一人は嫌

「どうすればいいの」

――置いて行かないで。一緒に支えて

 死にそうだ。
絶望感と焦燥感が、虫眼鏡の重さとなって、押しつぶそうと襲ってくる。

「一緒にいてよ!」

 投げ捨てればいいのに、虫眼鏡を握った手は、熔接されたかのように動かなかった。

腕は折れそうなほど痛いというのに。

「待って――――!」

 必死で叫ぶ彼女の耳に、遠くから歌う男の声が聞こえた。

夢の始まりで、自分が口ずさんでいた歌だった。

同じ歌を知っていたことに対する喜びはなく、ただ彼女が感じたのは、絶望だった。

――もうあんなに遠くにいる。声が遠い。やだ。行かないで。置いて行かないで

 男の歌声は、どんどん遠ざかる。
無機質な声は、やがて遠くの街から聞こえてくる、サイレンの音にしか聞こえなくなっていった。









 シグラは目を覚ました。
数十年ぶりに、見た夢だった。
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