61.受容
文字数 2,359文字
連絡してみようと取り出したスマートフォンの画面に、ちょうど向こうからのメッセージ通知が表示されていた。
裕貴がタップすると、短い一文だけが表示される。
『ごめん、今日行けない』
侑子にしては素っ気ない文だと感じて、少しだけ違和感を感じたものの、スマートフォンを再びポケットの中に戻した。
「来ないのか。なんだ」
心待ちにしていた分、気が抜けてしまって、深い溜息が漏れた。
気を取り直すべく再びギターを構え、弦を弾く。
午前中の早い時間に、人の姿は裕貴だけだった。音の波動が広がっていくように、静かな川面はゆらゆらと揺れていた。
***
食べ物が喉を通らなくなる経験など、初めてだった。
並行世界に迷い込んだ時も、正彦とちえみの悲しい過去を追体験した時も、それなりに精神的に打撃は受けたはずだったが、侑子の身体は律儀に空腹になったものだ。
依子が心配したのは当然だった。
日が経つに連れ、侑子はいくらか平常心を取り戻していたが、食事を始め、何に対しても意欲が湧かなかった。母に申し訳なく感じつつも、箸は全く進まない。
「……本当に、届かなくなっちゃったの?」
愛佳たち従兄弟三人に打ち明けたのは、いよいよ来週から分散制で学校が再開すると決まった頃だった。
侑子の告白を聞いて、三人ともこれ以上何と言葉をかけたらいいのか、分からない様子だった。
明らかにやつれた侑子が目の前にいるし、依子から彼女の様子を詳細に聞いていたのだろう。
「心配かけて、ごめん」
母も、叔父と叔母も非常に心配してくれていた。愛佳たちもだ。朔也も頻繁に顔を出してくる。
「ごめんね。けど、どうしたら気持ちを終わりに出来るのか、全然分からなくて」
侑子の部屋に四人が集まると、密と呼ばれる空間になったが、今は誰もそんなことを気にしなかった。
「そんなの当たり前だよ」
愛佳が声を震わせた。ポロポロとこぼれ落ちるのは、涙だった。
「どうして愛ちゃんが泣くの」
「ゆうちゃんが可哀想」
「愛佳」
「だって。だってあんまりだよ。手紙しかなかったのに。ゆうちゃんがユウキちゃんと、大好きって伝え合える手段、手紙しかなかったのに……突然それすらなくなっちゃうなんて、悲しすぎるじゃない!」
わんわん泣き始めてしまった愛佳を、驚愕の眼差しで見つめるのは、遼だった。
「えっ? ゆうちゃんとユウキちゃんが、大好きって……? えっ? もしかして二人、両思い? 彼氏彼女? そういうこと?」
「今そこかよ」
蓮が呆れたように呟く。
「お兄ちゃんのバカ」
「えっ、なんかごめん。でもさ、俺知らなかった……」
「兄貴だけだよ、知らなかったの」
「そーなの……?」
「ぷっ」
侑子が吹き出した。
三兄弟は一斉に彼女に注目した。
「ふふっ……ご、ごめ……あはは……っ、なんかこんな風に、面白い三人の掛け合い見れたの、久々だったから」
自然に笑い声を出せたのは、何日ぶりだろう。
止め方が分からなくて、腹が痛くなるほど侑子は笑った。
「やっぱおかしいよ、ゆうちゃん。こんなことでそんなにツボに入るなんて……」
本気で深刻そうな表情を浮かべる蓮に、更に笑いが込み上げてくる。
「大丈夫。大丈夫……! あははっ。ちょっと待って、ふふふふ」
どうにも止まらなくて、侑子は目の前の愛佳をぎゅっと抱きしめた。従姉妹の柔らかい肩に顔を埋める。
それでも一頻りくつくつと笑うと、ようやく落ち着いてきた。
「はあーぁ。笑った笑った……見て、涙出てきた」
心配顔の三つの顔が、侑子を捉えていた。
「ありがとう。…………ごめんね」
感情の微調整がまるで上手くいかない。
喜怒哀楽の一部分だけが、突然メーターを振り切ってしまったことが原因だろう。こんな時には、今のように別の感情が、ちょっとしたことで大きく揺れ動くものなのかも知れない。
「余計に心配させちゃったみたい。でもね、思いっきり笑ったおかげか、ちょっと気が晴れた感じだよ」
「ほんと?」
侑子の言葉と、柔らかな笑顔を見て、愛佳の表情はぱっと輝いた。
「うん。今日、来てくれてありがとう。三人は全部知ってたし、信じていてくれてたから」
侑子の抱えた絶望を、理解できる存在が側にいてくれたことは、本当に有り難いことだった。
一人で抱えるには、あまりにも大きすぎた。
「ちょっと待って。俺だけ全部は知らなかったよ。ユウキちゃんとゆうちゃんが、そういうことになってたとか。カレシカノジョだったんでしょ?」
「なんでカタコトなんだよ」
「蓮、お前知ってたの?」
「うん、まぁ」
「ほら俺だけじゃん!」
再び侑子は笑った。
笑顔のまま、クローゼットに目を向ける。
扉は閉まったままだった。
一週間、一度も開けていない。
「全く考えてなかったわけじゃないの」
緩い笑みは消さないまま、侑子は話しだした。
「もしかしたらいつか、文通も出来なくなる可能性。ゼロではないだろうって思ってた」
文通が始まって、四年目に入ろうとしていた。
その間、侑子とユウキはそれぞれの世界で、それぞれの日常を生きてきた。その日常の中の僅かな一部分を、手紙という媒体で、かろうじて繋ぎ止めてきたに過ぎないのだった。
どんなに恋しくても、寂しくても、自分に与えられた日々を、精一杯生きるしかない。たとえその結果、少しずつ相手の輪郭が朧気になっていったとしても。
どういう仕組で、どういう理由で赦された交信だったのか、謎のままだ。
予告なく終わってしまっても、誰かに文句を言うわけにはいかない。ただ嘆くか、結果を受け入れることしかできない。
「だから……多分、私、覚悟出来てたんだと思う。だから大丈夫だよ。今日三人と話せて、思い切り笑ったし、もう大丈夫」
言霊
侑子はその言葉が頭に浮かんで、ゆっくり頷いた。
「受け入れる。ユウキちゃんがいないこの世界で、ちゃんと大丈夫になるよ」
裕貴がタップすると、短い一文だけが表示される。
『ごめん、今日行けない』
侑子にしては素っ気ない文だと感じて、少しだけ違和感を感じたものの、スマートフォンを再びポケットの中に戻した。
「来ないのか。なんだ」
心待ちにしていた分、気が抜けてしまって、深い溜息が漏れた。
気を取り直すべく再びギターを構え、弦を弾く。
午前中の早い時間に、人の姿は裕貴だけだった。音の波動が広がっていくように、静かな川面はゆらゆらと揺れていた。
***
食べ物が喉を通らなくなる経験など、初めてだった。
並行世界に迷い込んだ時も、正彦とちえみの悲しい過去を追体験した時も、それなりに精神的に打撃は受けたはずだったが、侑子の身体は律儀に空腹になったものだ。
依子が心配したのは当然だった。
日が経つに連れ、侑子はいくらか平常心を取り戻していたが、食事を始め、何に対しても意欲が湧かなかった。母に申し訳なく感じつつも、箸は全く進まない。
「……本当に、届かなくなっちゃったの?」
愛佳たち従兄弟三人に打ち明けたのは、いよいよ来週から分散制で学校が再開すると決まった頃だった。
侑子の告白を聞いて、三人ともこれ以上何と言葉をかけたらいいのか、分からない様子だった。
明らかにやつれた侑子が目の前にいるし、依子から彼女の様子を詳細に聞いていたのだろう。
「心配かけて、ごめん」
母も、叔父と叔母も非常に心配してくれていた。愛佳たちもだ。朔也も頻繁に顔を出してくる。
「ごめんね。けど、どうしたら気持ちを終わりに出来るのか、全然分からなくて」
侑子の部屋に四人が集まると、密と呼ばれる空間になったが、今は誰もそんなことを気にしなかった。
「そんなの当たり前だよ」
愛佳が声を震わせた。ポロポロとこぼれ落ちるのは、涙だった。
「どうして愛ちゃんが泣くの」
「ゆうちゃんが可哀想」
「愛佳」
「だって。だってあんまりだよ。手紙しかなかったのに。ゆうちゃんがユウキちゃんと、大好きって伝え合える手段、手紙しかなかったのに……突然それすらなくなっちゃうなんて、悲しすぎるじゃない!」
わんわん泣き始めてしまった愛佳を、驚愕の眼差しで見つめるのは、遼だった。
「えっ? ゆうちゃんとユウキちゃんが、大好きって……? えっ? もしかして二人、両思い? 彼氏彼女? そういうこと?」
「今そこかよ」
蓮が呆れたように呟く。
「お兄ちゃんのバカ」
「えっ、なんかごめん。でもさ、俺知らなかった……」
「兄貴だけだよ、知らなかったの」
「そーなの……?」
「ぷっ」
侑子が吹き出した。
三兄弟は一斉に彼女に注目した。
「ふふっ……ご、ごめ……あはは……っ、なんかこんな風に、面白い三人の掛け合い見れたの、久々だったから」
自然に笑い声を出せたのは、何日ぶりだろう。
止め方が分からなくて、腹が痛くなるほど侑子は笑った。
「やっぱおかしいよ、ゆうちゃん。こんなことでそんなにツボに入るなんて……」
本気で深刻そうな表情を浮かべる蓮に、更に笑いが込み上げてくる。
「大丈夫。大丈夫……! あははっ。ちょっと待って、ふふふふ」
どうにも止まらなくて、侑子は目の前の愛佳をぎゅっと抱きしめた。従姉妹の柔らかい肩に顔を埋める。
それでも一頻りくつくつと笑うと、ようやく落ち着いてきた。
「はあーぁ。笑った笑った……見て、涙出てきた」
心配顔の三つの顔が、侑子を捉えていた。
「ありがとう。…………ごめんね」
感情の微調整がまるで上手くいかない。
喜怒哀楽の一部分だけが、突然メーターを振り切ってしまったことが原因だろう。こんな時には、今のように別の感情が、ちょっとしたことで大きく揺れ動くものなのかも知れない。
「余計に心配させちゃったみたい。でもね、思いっきり笑ったおかげか、ちょっと気が晴れた感じだよ」
「ほんと?」
侑子の言葉と、柔らかな笑顔を見て、愛佳の表情はぱっと輝いた。
「うん。今日、来てくれてありがとう。三人は全部知ってたし、信じていてくれてたから」
侑子の抱えた絶望を、理解できる存在が側にいてくれたことは、本当に有り難いことだった。
一人で抱えるには、あまりにも大きすぎた。
「ちょっと待って。俺だけ全部は知らなかったよ。ユウキちゃんとゆうちゃんが、そういうことになってたとか。カレシカノジョだったんでしょ?」
「なんでカタコトなんだよ」
「蓮、お前知ってたの?」
「うん、まぁ」
「ほら俺だけじゃん!」
再び侑子は笑った。
笑顔のまま、クローゼットに目を向ける。
扉は閉まったままだった。
一週間、一度も開けていない。
「全く考えてなかったわけじゃないの」
緩い笑みは消さないまま、侑子は話しだした。
「もしかしたらいつか、文通も出来なくなる可能性。ゼロではないだろうって思ってた」
文通が始まって、四年目に入ろうとしていた。
その間、侑子とユウキはそれぞれの世界で、それぞれの日常を生きてきた。その日常の中の僅かな一部分を、手紙という媒体で、かろうじて繋ぎ止めてきたに過ぎないのだった。
どんなに恋しくても、寂しくても、自分に与えられた日々を、精一杯生きるしかない。たとえその結果、少しずつ相手の輪郭が朧気になっていったとしても。
どういう仕組で、どういう理由で赦された交信だったのか、謎のままだ。
予告なく終わってしまっても、誰かに文句を言うわけにはいかない。ただ嘆くか、結果を受け入れることしかできない。
「だから……多分、私、覚悟出来てたんだと思う。だから大丈夫だよ。今日三人と話せて、思い切り笑ったし、もう大丈夫」
言霊
侑子はその言葉が頭に浮かんで、ゆっくり頷いた。
「受け入れる。ユウキちゃんがいないこの世界で、ちゃんと大丈夫になるよ」