23.世界で一番愛している声
文字数 1,786文字
一番最後に見た彼の顔は、紡久の描いた絵だったはずだ。
写真があまり撮れなくなってからというもの、紡久が気を利かせてくれたのだろう。頻繁にその人をモデルに描いた絵を、送ってくれるようになったのだ。
黒い鉛筆一本で描いた時もあれば、絵の具や色鉛筆で色彩を加えられた時もあった。
『すっかりモデル慣れしちゃったよ』
と、手紙に書かれていた。
――髪が長い
最後に見た絵よりも、髪が長かった。
しかし髪色は染めていないようだったので、初めて出会った時と同じ印象を受ける。懐かしかった。
眠りから覚めたと思ったが、寝起きの思考は、まだぼんやりと靄がかかっている。
目の前の人物は、侑子の願望が見せる幻想の類か。
そう思った。
なぜなら、こんな場所にいるはずはないのだから。
これから会いに行こうと考えてはいるが、見つかる保証はない。
二年間音信不通だったのだ。
それにしても映像が鮮明だ。
目の前の愛しい人の像は、少しもぼやけることなく侑子のことを見つめていた。
見開いた緑の瞳が潤んだのも、唇が僅かに震えたのも分かった。
――本当に、目の前にいたらいいのに
心の中で呟いた。
――声も聞けたらいいのにな
それは侑子がその人と会えなくなって六年の間、ずっと懇願し続けたことだった。
彼の声が聞きたかった。
呟きでも、囁き声でもいい。
小さな溜息でも、呼吸音でも構わないから。
目の前の人物を喋らせたくて、侑子はそうしたのだと思う。
自分の願望が生み出した幻の像なら、もしかしたら都合よく叶えてくれるかもしれない。
「ユウキちゃん」
侑子はその人の名を呼んだ。
***
「ユーコちゃん」
あまりにもあっさり返事が帰ってきたので、侑子はびっくりして跳び起きた。
そこがハンモックの上だということも忘れて。
「あっ!」
勢いよく上体を布から出してしまったことで、バランスを崩した。
侑子はひっくり返った布の上から、地面の上に落ちたはずだった。
「ユウコ!」
すぐ側にヤヒコが立っていた。
そして彼よりも侑子に近い位置にいた人物が、彼女を地面から守るように、抱き留めていたのだった。
「あ……」
その人は地面に片膝をついていたので、少し体勢は違うが、あの時と同じ横抱きだった。
初めて噴水広場で出会った時、侑子をこんな風に抱き上げて、ベンチに運んでくれたのだ。
記憶が遡って、あの時の彼の顔と目の前の人物が、綺麗に重なる。
少し顔つきは変わったかも知れない。
当然だ。
侑子だってあの時から随分変わったと、自覚がある。外見も。内面も。
「ほんとうに?」
起きたことを確認したくて、侑子は両手で挟むように、褐色の頬に触れた。
確かに実体がある。
肌が肌に触れた感触が伝わってくる。
触れられた。
幻などではなかった。
背中に回された腕に、力が入ったのが分かった。
膝の下にあったもう片方の腕が抜かれ、侑子の手に大きな手がそっと重なった。
温かくて、少し湿っている。
――この手を知っている
侑子は確信した。
「ユウキちゃん」
確信した途端、声が震えた。
「……やっと会えた」
ユウキの声だった。
ずっと聞きたかった、ユウキの声だった。
侑子の記憶に、歪みはなかったのだ。
記憶の通りの、世界で一番愛している声だった。
「会いたかったよ。ずっと、会いたかった。迎えに来たんだ」
話す声は穏やかで優しい一方で、侑子を抱き寄せて閉じ込める腕には、力が込められていた。
その圧迫感と身体同士が接した箇所に生じる熱が、ただ心地良い。
この安らかさが、戻るべき場所にきちんと戻れた安心感から来るものだと、侑子は理解していた。
「私も会いたかった。だから探しにいくところだったの。会って、またユウキちゃんの声を聞きたかった」
鳥の声
せせらぎの音
風が枝葉を揺らす音
その場所にある全ての音が、遠慮しているように小さく聞こえた。
聴覚が彼の声だけを引っ張り寄せる。
「……いくらでも聞かせてあげる。だから」
確かめるように侑子の髪を撫でていた手を止め、ユウキは腕の力を緩めた。
胸に押し付けられていた顔を上げて、潤んだ瞳が見上げてくる。
焦がれ続けたその顔に、ユウキの胸はチリチリと音を立てて、燃えるようだった。
「だからお願い。もうどこにも行かないで……君のこと、どうしようもないほど愛してるんだ」
音もなく頬を伝った一筋の熱。
それは顔から零れ落ちると、侑子の襟元に、小さな丸い滲みを作った。
写真があまり撮れなくなってからというもの、紡久が気を利かせてくれたのだろう。頻繁にその人をモデルに描いた絵を、送ってくれるようになったのだ。
黒い鉛筆一本で描いた時もあれば、絵の具や色鉛筆で色彩を加えられた時もあった。
『すっかりモデル慣れしちゃったよ』
と、手紙に書かれていた。
――髪が長い
最後に見た絵よりも、髪が長かった。
しかし髪色は染めていないようだったので、初めて出会った時と同じ印象を受ける。懐かしかった。
眠りから覚めたと思ったが、寝起きの思考は、まだぼんやりと靄がかかっている。
目の前の人物は、侑子の願望が見せる幻想の類か。
そう思った。
なぜなら、こんな場所にいるはずはないのだから。
これから会いに行こうと考えてはいるが、見つかる保証はない。
二年間音信不通だったのだ。
それにしても映像が鮮明だ。
目の前の愛しい人の像は、少しもぼやけることなく侑子のことを見つめていた。
見開いた緑の瞳が潤んだのも、唇が僅かに震えたのも分かった。
――本当に、目の前にいたらいいのに
心の中で呟いた。
――声も聞けたらいいのにな
それは侑子がその人と会えなくなって六年の間、ずっと懇願し続けたことだった。
彼の声が聞きたかった。
呟きでも、囁き声でもいい。
小さな溜息でも、呼吸音でも構わないから。
目の前の人物を喋らせたくて、侑子はそうしたのだと思う。
自分の願望が生み出した幻の像なら、もしかしたら都合よく叶えてくれるかもしれない。
「ユウキちゃん」
侑子はその人の名を呼んだ。
***
「ユーコちゃん」
あまりにもあっさり返事が帰ってきたので、侑子はびっくりして跳び起きた。
そこがハンモックの上だということも忘れて。
「あっ!」
勢いよく上体を布から出してしまったことで、バランスを崩した。
侑子はひっくり返った布の上から、地面の上に落ちたはずだった。
「ユウコ!」
すぐ側にヤヒコが立っていた。
そして彼よりも侑子に近い位置にいた人物が、彼女を地面から守るように、抱き留めていたのだった。
「あ……」
その人は地面に片膝をついていたので、少し体勢は違うが、あの時と同じ横抱きだった。
初めて噴水広場で出会った時、侑子をこんな風に抱き上げて、ベンチに運んでくれたのだ。
記憶が遡って、あの時の彼の顔と目の前の人物が、綺麗に重なる。
少し顔つきは変わったかも知れない。
当然だ。
侑子だってあの時から随分変わったと、自覚がある。外見も。内面も。
「ほんとうに?」
起きたことを確認したくて、侑子は両手で挟むように、褐色の頬に触れた。
確かに実体がある。
肌が肌に触れた感触が伝わってくる。
触れられた。
幻などではなかった。
背中に回された腕に、力が入ったのが分かった。
膝の下にあったもう片方の腕が抜かれ、侑子の手に大きな手がそっと重なった。
温かくて、少し湿っている。
――この手を知っている
侑子は確信した。
「ユウキちゃん」
確信した途端、声が震えた。
「……やっと会えた」
ユウキの声だった。
ずっと聞きたかった、ユウキの声だった。
侑子の記憶に、歪みはなかったのだ。
記憶の通りの、世界で一番愛している声だった。
「会いたかったよ。ずっと、会いたかった。迎えに来たんだ」
話す声は穏やかで優しい一方で、侑子を抱き寄せて閉じ込める腕には、力が込められていた。
その圧迫感と身体同士が接した箇所に生じる熱が、ただ心地良い。
この安らかさが、戻るべき場所にきちんと戻れた安心感から来るものだと、侑子は理解していた。
「私も会いたかった。だから探しにいくところだったの。会って、またユウキちゃんの声を聞きたかった」
鳥の声
せせらぎの音
風が枝葉を揺らす音
その場所にある全ての音が、遠慮しているように小さく聞こえた。
聴覚が彼の声だけを引っ張り寄せる。
「……いくらでも聞かせてあげる。だから」
確かめるように侑子の髪を撫でていた手を止め、ユウキは腕の力を緩めた。
胸に押し付けられていた顔を上げて、潤んだ瞳が見上げてくる。
焦がれ続けたその顔に、ユウキの胸はチリチリと音を立てて、燃えるようだった。
「だからお願い。もうどこにも行かないで……君のこと、どうしようもないほど愛してるんだ」
音もなく頬を伝った一筋の熱。
それは顔から零れ落ちると、侑子の襟元に、小さな丸い滲みを作った。