30.奇跡

文字数 1,620文字

 リリー達が乗った車が走り去る。
疎らな街灯に、灯りが灯り始めた。

「中に入って飯にしよう。出来るまで、部屋で寛いでろよ。流石に疲れただろう。あっ! そうだ……」

 ジロウが思い出したように、声を上げた。

「今空いてる客間が、二つしかないんだよな。……どう使う?」

「どうって」

 ユウキは侑子を振り返った。

「あー、ほら。ヤチヨちゃんはお客様だし、一人で一部屋使ってもらうとして……ユウキ、夜は家に帰るか?」

「そうするよ。ユーコちゃんとヤチヨちゃんで、一部屋ずつ使って」

「ユウキちゃん、ここに住んでいないの?」

 リリーの家が地震で倒壊したという話を聞いていたので、てっきりユウキは、再びジロウと共に住んでいると思っていたのだ。

「……まあね。寝るためだけの家だけど」

「寝袋使うんだったら、俺の部屋に泊めてやってもいいけど?」

 提案したのはアミだった。彼はこの集合住宅の一部屋を借りているらしい。

「ちょっとでも離れたくないだろう、ユーコちゃんと」

 涼しい顔で茶化して、そして付け足した。

「彼女をお前の家に連れて行くのも、避けたいんだろう?……六年前のようになったら、恐ろしいものな」

 凍りつく表情のユウキの肩を、ジロウが叩いた。

「……近いうちに住む家を探せよ。もうあの場所にこだわる必要は、なくなっただろう」

「ああ」

 キッチンへとジロウとノマが消えていき、他の者もぞろぞろとリビングへと引き上げていく。

玄関に残ったのは、ユウキと侑子二人だけになった。

「ユーコちゃん」

 向かい合ったユウキの顔は、堅かった。紬ぎ出そうとしている言葉に、緊張しているようだった。

「旅の間、ちゃんと確認することができないでいたんだけど……」

 リビングから賑やかな話し声が聞こえてくる。廊下はしんとしていて、抑えたユウキの声でも、はっきりと侑子の耳に届いた。

「これからこの世界で、俺と一緒に生きていってくれないだろうか」

 右手が伸びて、侑子の左手を握った。

「……君がいないなんて、もう耐えられない」

 左手も加えられ、ユウキの両手で、侑子の手は包み込まれた。

「ユーコちゃんが並行世界に置いてこなきゃいけなくなるものが、どれだけ多いのか、大きいのか、分かってる。……家族も友達も生活も、全部諦めさせなきゃいけないって、分かってる」

 眉間に皺が寄って、ユウキは一度、ゆっくりと瞳を閉じた。

今自分が侑子に浴びせている言葉が、とんでもなく残酷なものに思える。
そしてこれから口にする言葉が、酷い独りよがりに聞こえやしないか、怖くなった。

「その全部に、代われるか分からない……でも、ずっと一緒にいて欲しい。俺の側に。ずっと隣で、ユーコちゃんの声を聞いていたいんだ」

 見つめ返してくる焦げ茶の瞳は振れないので、ユウキは思わず目を逸した。

「忘れちゃったの?」

 自分の左手を包み込むユウキの手に、侑子は右手を重ねた。
逸したユウキの目線を捕まえようと、彼の顔を仰ぎ見る。

「迎えに来てくれた時に、もう言ってくれてたじゃない」

 微笑んだ侑子に、ユウキの目線は容易く捕まった。

「……ユウキちゃんのいない場所は、私のいるべき場所じゃない。私はもう、そう決めてるよ」

 侑子の脳裏に、朝焼けで染まった遊園地の景色が、広がっていた。
無人のその場所に絶望して、目が覚めた朝。あの時、こんなふうに再びあの半魚人と対峙できる未来が来るとは、つゆほども考えていなかった。

 この奇跡の理由は分からない。
ヤヒコは必然と言ったが、当の侑子には実感はなかった。

けれど折角手に入れた奇跡を、手放す気になどならなかった。

「ずっと一緒にいたい。ユウキちゃんの声を聞きながら、この世界で一緒に生きていきたい」

 どちらから一歩を踏み出したのか、あやふやなままだった。

気づいたら、繋がれた二人の両手はお互いの背中に回されている。

距離がなくなった位置からは、顔は見えない。どちらの体温か曖昧になっていく熱だけが、ただ確実に得られる唯一の感覚だった。
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